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高村京子のプロフィール
1954年、千曲市八幡生まれ。篠ノ井高校から長野赤十字高等看護学院へ。卒業後、看護師として、長野赤十字病院、広島共立病院などで勤務。1988年、東信医療生協上田診療所設立に参加し、開所と共に看護師として勤務。
2002年より県議会議員、現在5期目。環境産業観光委員、、党県議団副団長。 上田市在住。 2月26日生まれ。
「母のこと・平和のこと」
 私は4人姉妹の末っ子として更埴市八幡に生まれました。
 両親は農業で生計をたてていたので、祖父が、農作業など忙しい父母に代わって私の面倒を見てくれ、大変かわいがってくれました。夕方になるとよく味噌にぎりを作ってくれました。その味が今でも忘れられません。小学校5年の時、大好きだった祖父が亡くなりました。それからは、いつも祖父が私を見守っているように感じています。

 私と日本共産党の出会いは中学生の頃のことでした。段々畑で母の手伝いをしていたとき、聞こえてきた宣伝カーの声は日本共産党のものだったのです。「共産党は人のためになることをやっているのに、なかなか支持されないからご苦労なことで」夕日のなかで母のつぶやく姿に、不思議なものを感じていました。母は戦争で前夫を亡くしていました。1944年(昭和19年)7月、3万人の日本兵がサイパン島で全滅しました。その中に、結婚してわずか2年目の夫がいたのです。
 その後、母は、夫の弟と再婚します。それが私の父です。私の父は18歳、母は26歳だったそうです。あまり語りたがらない、癒されることのない母と父の思いを私は後に知ることになります。両親は、平和の尊さを身にしみて感じていたのだと思います。

 中学生の頃、母が胃の手術で入院しました。そのときの看護婦さんのきびきび働く姿ややさしさに憧れ、私も看護婦をめざそうと心に決めました。日赤看護学校時代、歌が大好きな私はうたごえサークルに加わり、「日本のうたごえ祭典」にも出場しました。信州大学・県立短大の仲間たちとの交流も広がり原水爆禁止署名にかけまわり、平和行進に参加し、民主青年同盟の仲間たちとの交流など、活動的な青春の日々を送りながら、次第に政治について考えるようになりました。アメリカ軍のベトナムへの無法・残虐な侵略、枯葉剤がもたらしたベトちゃん・ドクちゃんのこと、その米軍機は日本の基地から出撃していっているという。

 「沖縄返還」・・・これで基地はなくなると思っていたのに、日本政府はなにを考えているのか。勧められて「しんぶん赤旗」を読み、世の中のことに目を開くと、私にとって日本共産党への入党は当然のことでした。まぶたに、幼き日、段々畑で農作業をする母の姿がありました。
「働く仲間、そして子育て」

 日赤病院で働きはじめて間もなくのことです。看護婦として独り立ちできるかどうか、夢中で仕事をしながら、労働組合のささやかな任務を受け持ちました。
 ある日、労働運動ではおおきな権威をもって知られていた日赤労組委員長に「この問題について次の役員会までに考えてきてくれ、おれも考えてくるから」と言われました。ああ、労働組合とはそういうところなんだ、1年そこそこの私でも一人前に扱ってくれる、「働く者の力」はこういうふうに発揮されるのかと、大変新鮮に感じ驚きました。そんな中で、私たちはとてもユニークなストライキをしたのです。

 ストライキ当日、看護婦が全員病棟に入り、普段できない心のこもった看護をすることにしたのです。患者さんの頭から足の指先まで洗ってあげたり、家族のことまで聞いて励ましたりで、実際に賃金カットされても本来の看護婦の仕事をした誇りと喜び、患者さんとの一体感がありました。人員が増えれば、充実した看護ができることを患者さんとともに確認し合ったのでした。

 私は、結婚と同時に広島の共立病院に移りました。土木技術者の夫は、中国縦貫道路建設で忙しい日々でした。
 育児などはできるだけ協力し合っていましたが、残業や台風の時などには夫の帰宅は遅く、あてにできないこともしばしばでした。日曜日に出勤する私は、おむつと着替えと子どもの食べ物を用意して、親切にして下さる酒屋さんにあずかって頂きました。ふだんでも患者さんの容体によっては、午後6時前に仕事を終えて病院を抜け出すこともままなりません。その上、保育園はバス停をおりて10分以上も山の上に登って行くのです。息せき切って登りつくと、すでに戸締まりした保育園の前で保母さんがわが子の手をとって待っていて下さるのです。
 からだ中で息をしながら、いろんな人たちに支えられて生きていくんだ、母親として職業人として頑張らなければと思ったものです。
「新しい旅立ち」

 上田市に戻って勤めた医療機関(前の国立東信病院)では、くる日もくる日もただ忙しく働く日々が続いていました。医師の診察の介助と処置に追われ、カルテの整理、待合室を通れば「あとどのくらい待つの」と患者さんの切なる声……。つい、患者さんに冷たくあたりそうになることもありました。患者さんは病んでいる人達なんだ、患者さんが何を欲しているかを察してあげなければ……。私は、本来の看護ができていないことに悶々としていました。

 そんなある日、上田に「患者が主人公」をめざす民主的な診療所をつくろう、協力してほしいと声をかけられました。上田市には、夜間、緊急に診てくれる病院がなかったのです。救急車も受け入れる病院が決まらずたらいまわしされ治療が間に合わず痛ましい結果になることがありました。健康診断も佐久、長野、東京まで行く人もいました。

 私は、勤務を終えたあと幼い子どもをつれて会議にでかけ、地域にでかけ、出資金を募る活動を毎日続けました。1988年(昭和63年)11月、ついに東信医療生協上田診療所がオープン。夢がかなったこの日、太郎山の初冠雪が目に染みました。日々の診療の中で、今の社会の矛盾が痛感させられます。ある中小企業の社長さんが診療所にお見えになりました。一見して大変なご様子。この不況の中で、親会社からはコストダウンを迫られ、奥さんと二人で朝から夜まで働き詰めでした。休むと給与の支払いもできません。親会社の信用も考え、我慢に我慢を重ねていたのです。すぐに総合病院に紹介されましたが、手遅れでした。1か月後に亡くなられたのです。

 いまの世の中こんなことがあっていいんだろうか……。どんなに献身的な治療、看護をしても、なし得る限界を超えている……。それを妨げる大きな壁がある……。私の中で、こんな思いがますます高まってきました。
「県議選へ」

 1999年の県議選に立候補し、当時3人の県政会(自民党と民主党が一緒の最大会派で、大型公共事業優先をすすめる吉村県政の与党)の現職県議とのたたかいに挑みました。12886票もの大きなご支援を戴きあと一歩のところまで迫りましたが、惜敗いたしました。「4年後の県議選でこそ!」と決意を新たにしておりました。
 2000年の長野知事選で田中康夫氏が当選され、県政の流れが目に見えて方向が変わってきました。徹底した情報公開と一階のガラス張り知事室や県下各地でおこなう車座集会で、県民参加の県政が始まりました。私達が知事に推した中野早苗さんが訴えた、「無駄なダムなどの大型開発の見直し、福祉や教育・生活重視」の県政がはじまりました。
 ところが皆さんご存知のように、2002年の7月浅川ダムを中止すると表明した知事を、県政会など共産党以外のほとんどの県議が、議場を混乱させるなど知事を不信任にしてしまいました。その場面を傍聴した私は、怒りと悲しみで体が震える思いでした。「こんな県議会は許されない、県民の皆さんの切実な声や願いをしっかりと話し合える県議会にしなければ!」と、その場で決意を固め、上田市県議補欠選挙に立候補しました。

 県内・県外の本当に多くの皆さんから「あの県会はおかしい、県民のためにがんばって欲しい」「今まで羽田さんの応援をしたが今度は高村さんを応援したい」「自民党員だがー。共産党員じゃないけど。高村さんを応援したい。」などと、日増しにご支援してくださる方の和が広がってゆきました。「知事不信任は道理がない」という皆さんの思いを代弁して頑張った共産党県議団も連日県政報告会を開き大奮闘。「県民本位に変わり始めた県政をさらに前に進めよう」と訴え、県政を変える大きな共同が「知事は田中・県議は高村」が合言葉となって保守陣営が推した相手候補に1万票以上もの大差・・・37,418票を戴き当選しました。

 この票は「みんなでよいやさ!」と読めます。私はこの大きな県民の皆さん、市民の皆さんから託された、共同の願いに添えるように全力を尽くします。また田中康夫氏も真夏の炎天下を県内を精力的に移動し、「長野を夜明け前に戻してはならない」と訴えました。82万の大きな支持で再選され、県民からはっきりと田中康夫氏の県政運営が信任されたのです。
「上田からあの県会を変えましょう!」「長野から政治を変えましょう!」

 今、政治は変えられる、私達の共同の力を合わせれば歴史を切り開くことができる。私は自らの体験を通して実感しています。
 早速開かれた共産党県議団の会議で「6人となった正式な交渉会派の力を尽くして、県民の皆さんの利益のために頑張ろう」と確認しました。この力があの議会を民主的に変えつつあります。
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