<第1回>
私の父は宮内省帝室林野局の官吏であった。と言っても宮内省はとに角として帝室林野局とはそもそも何物ぞと訝るのが大多数の人達ではないだろうか?
かつて帝室林と呼ばれる森林が日本各地に散在していた。それは又 御料林とも呼ばれ皇室の財産であった。戦後その全ては国有林に移管され現在は農林水産省の管轄下にある。
父はその御料林の管理に当たる現場の人間であり木曽の森林の大部分を占めていた広大な地域の一部を人夫を連れて見回り一本一本の木についてその生育状態を記録し間伐や下草刈りを指示したり枝打ちの要非を判断したりそれらの事項をかつて木曽福島にあった長野林野局に報告するのが仕事であった。
幼かった頃時々父に連れられてそれらの森林に入った。一本一本の木に木の札が付けられていていわばその木の履歴が書かれていたのだと思う。子供心にも一番驚いたのは民間林との間にトラックでも通れるのではないかと思われる程の防火帯が設けられており木木は一定の間隔をおいて整然と並んでいた。民間林が雑木なので余計に目立ったのであろうし、又、小さかったからその防火帯は余計に幅が広く見えたのかもしれないが、何れにしても民間林に火災が発生しても帝室林は絶対に守られるという前提があったと思う。
帝室林は長野県の他岐阜県、秋田県に多くそのうちでも木曽の森林は"木曽の五木"で最も有名であった。特に木曽ヒノキは今でもその名を語られる程に(偽物がある位)木造家屋建築用としても高値で取引され、また木曽の林は伊勢神宮などの御遷宮の際、用材の供給林でもある。
木曽の御料林の起源は織田信長の森林政策にあり尾張に近い事から岐阜県の森林とともに重用された。信長はヒノキの有用性を認識していた様で、"五木"なる呼称は、実はヒノキを守るためであったという。つまりヒノキに似た針葉樹を適当に配する事で盗伐を受けてもヒノキの害が少なくて済む事を考慮した。その頃から"ヒノキ一本、首一つ"といわれる様になりそれが更に木曽ヒノキの名を高からしめた。
御料林の中に入るとそこは別天地であった。下草はきれいに刈られ木木はみな天を目指して真っ直ぐに整然と並んでおり枝打ちがされているので歩きやすくその心地よさは未だに忘れられない。
その後あちこちの森林を歩いてもかつての御料林は最早存在しない。林野庁は森を守るよりも先人達が苦労して育てた森林をいかに高く売るかに汲汲としており、日本の森は荒廃の一途を辿るばかりである。
ただ、最近明るい話題が一つあった。作家で自然保護に熱心な立松和平さんが林野庁の人に、"このままでは国宝、重文の建造物の補修、改築に国産材が使えなくなる日が必ず来る。今から百年の計で森林を再生しないと大変な事になる" と訴えたのがきっかけとなりようやく200年、300年後の森林の再生を計る取り組みが始まった事である。
この様な新聞に相応しい文とは思えないがその内にこれが国際交流にも関連がある事が判って頂ける様に展開する事になります。