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私の”木”遍歴
  
第1回~第10回

 

 

  
<第1回>

 私の父は宮内省帝室林野局の官吏であった。と言っても宮内省はとに角として帝室林野局とはそもそも何物ぞと訝るのが大多数の人達ではないだろうか?

  かつて帝室林と呼ばれる森林が日本各地に散在していた。それは又 御料林とも呼ばれ皇室の財産であった。戦後その全ては国有林に移管され現在は農林水産省の管轄下にある。 父はその御料林の管理に当たる現場の人間であり木曽の森林の大部分を占めていた広大な地域の一部を人夫を連れて見回り一本一本の木についてその生育状態を記録し間伐や下草刈りを指示したり枝打ちの要非を判断したりそれらの事項をかつて木曽福島にあった長野林野局に報告するのが仕事であった。

 幼かった頃時々父に連れられてそれらの森林に入った。一本一本の木に木の札が付けられていていわばその木の履歴が書かれていたのだと思う。子供心にも一番驚いたのは民間林との間にトラックでも通れるのではないかと思われる程の防火帯が設けられており木木は一定の間隔をおいて整然と並んでいた。民間林が雑木なので余計に目立ったのであろうし、又、小さかったからその防火帯は余計に幅が広く見えたのかもしれないが、何れにしても民間林に火災が発生しても帝室林は絶対に守られるという前提があったと思う。

  帝室林は長野県の他岐阜県、秋田県に多くそのうちでも木曽の森林は"木曽の五木"で最も有名であった。特に木曽ヒノキは今でもその名を語られる程に(偽物がある位)木造家屋建築用としても高値で取引され、また木曽の林は伊勢神宮などの御遷宮の際、用材の供給林でもある。 木曽の御料林の起源は織田信長の森林政策にあり尾張に近い事から岐阜県の森林とともに重用された。信長はヒノキの有用性を認識していた様で、"五木"なる呼称は、実はヒノキを守るためであったという。つまりヒノキに似た針葉樹を適当に配する事で盗伐を受けてもヒノキの害が少なくて済む事を考慮した。その頃から"ヒノキ一本、首一つ"といわれる様になりそれが更に木曽ヒノキの名を高からしめた。

  御料林の中に入るとそこは別天地であった。下草はきれいに刈られ木木はみな天を目指して真っ直ぐに整然と並んでおり枝打ちがされているので歩きやすくその心地よさは未だに忘れられない。 その後あちこちの森林を歩いてもかつての御料林は最早存在しない。林野庁は森を守るよりも先人達が苦労して育てた森林をいかに高く売るかに汲汲としており、日本の森は荒廃の一途を辿るばかりである。

  ただ、最近明るい話題が一つあった。作家で自然保護に熱心な立松和平さんが林野庁の人に、"このままでは国宝、重文の建造物の補修、改築に国産材が使えなくなる日が必ず来る。今から百年の計で森林を再生しないと大変な事になる" と訴えたのがきっかけとなりようやく200年、300年後の森林の再生を計る取り組みが始まった事である。
この様な新聞に相応しい文とは思えないがその内にこれが国際交流にも関連がある事が判って頂ける様に展開する事になります。
   


 

  
<第2回>

 日本では、殊に田舎に住んでいると周りに緑があるのは当たり前であり、誰もそれを不思議がる事は先ず無い。森林破壊が進みわが国の森林率が大幅に減少したかというと、そうでもないらしい。フィンランド、スウエーデン、ブラジル、マレーシア、インドネシア等と並んで日本は世界有数の森林国である。然し国土が狭く人口密度が高いから国民一人当たりの森林面積となると世界平均の四分の一以下であり、殊に大都市の緑地が目立って少ない。然し狭い国土ながら南北に長くユーラシア大陸と太平洋の影響をまともに受け三千米を越える峰々を含む脊梁山脈と東アジア モンスーン地帯に位置する為の降水量の多さ故わが国の山々は地球上でも最も美しい仲間に入り樹種の多さもあって"目に青葉"の頃の緑の多様さは毎年見ている景観でありながら飽きる事が無い。

 オーストラリアの赤茶けた大地とその上を所々に岩塩の白い部分を残しながら曲がりくねって走る干上がった川の跡を空から眺めたり又はその上を車で走っていると、緑のある所は何か有りという感じで事実緑に覆われた少し小高い場所は先住民達の聖地である事が多いようであった。所がそのオーストラリアは広大な砂漠に覆われているにも係わらず緑の地帯のわりに人口が少ない為、国民一人当たりの森林面積はカナダに次ぐ程であるから驚きである。

 私は種類の多い日本の木々が示してくれるそれぞれの木目の美しさに惹かれて、"たまもく"(屋久島では屋久杉の持つ美しい木目を"あわこぶ"と呼ぶ様であるが)等と呼ばれている自然の造形を目の当たりにしていると時の経つのを忘れて仕舞う事が屡々である。
人の体も、月の石ではないが、色々な仕組みが判ってみれば益々判らない部分が現れるというパラドックスに悩まされそれが又、人々の知的好奇心を呼び覚まして興味はつきるところを知らないが、木々の持つ多様な木目の美しさを見ていると、どうしてかくも見事な造形が一見何の変哲も無い木々の幹や枝の中に隠されているのだろうかと唯 感嘆あるのみである。

 古来日本は木の国といわれ 木 に興味を持つ人が少なくは無いと思うが此れまでに会った外国の人々で 木 に興味を示す人が本当に少ないと此れも私にとっては不可解な現実の一つである。その様な外国の人達に木々がひっそりと隠し持っている妙なる美しさを見て貰うと 改めて驚きを禁じ得ないといった面持ちで興味を示して下さる。
毎年正倉院展を観に行くがその都度日本の文化は木と紙と土の文化であるという思いを強くして帰路に着くのである。

 外国の人達に日本の文化を正しく理解して貰う為には日本人がいかに 木 を利用し、いかに 木 と生きて来たかを知って貰う事が不可欠であり、その為には先ず我々自身が改めて "日本人と木" に目を向ける必要があるとおもう。

 


  

  
<第3回>

 わが国では人々は古来日常生活において"木"に困るという事は恐らく無かった。勿論大きな材や高価なそれを求めるとなれば話は別であるが・・・・・。

  しかし世界の国々のなかには熱源として又 建築や造船用材または棺の材料として木そのものが絶対的に足りず、その木を求めて他国を侵略し、それが為に収奪を受けた国は滅亡に瀕するという歴史の表舞台には出てこないかもしれない事実がある。その代表的なものがレバノン杉(といっても正確には松の仲間という)であろうか。ことに古代においてエジプトは最も激しくそれを行いその時々の強国は同じ行為を繰り返した。そのためその地域の山々は殆ど森が無くなってしまったという。

 日本のNPOがわが国で開発された松枯れの予防回復薬を用いてレバノン杉の森の回復運動に乗り出しかなりの成果を挙げている由。また、アフリカの砂漠の緑化運動にも取り組んでおり木の加工品を通じての国際交流ではないが"森が貧すれば国が貧する"のを現地の人々に理解させその国に元気を与えようと地道な努力がなされている。
ところが陰の部分として日本は自国の森を育てようとしないでひたすらに安い材を求めて熱帯雨林や亜寒帯の国々の森を破壊しているのだから"木"の無い国々が(止むに止まれず?)レバノン杉を収奪した古代の列強よりももっと悪質かもしれない。
そのような日本の行為に対しての諸外国からの批判もありまた国内でも美しい森の再生に取り組む動きが活発化しつつあるようでとても嬉しいことだ。

 私は鍛錬も兼ねてこの20年程、北八ヶ岳の最も北に位置して独立峰といってもよい蓼科山に80回くらい登っているが登山道の両側に広がる殆ど人の手が入っていない といえば聞こえは良いが、全くほったらかしの森を見て、いつも思うのは木々の間で繰り返される生存競争の激しさである。森の再生に関してはいわば"自然淘汰説"もあり左程神経質にならなくても森は保たれるという考えもあるがざっと見たところでは樹木の三分の一は事 志と違って 立ち枯れである。蔦植物と違って立木は芽が出た場所がその木の一生を決めると言っても良い。意を決して努力に努力を重ねて立派に成長を遂げるという訳にはいかない。この山は他の八ヶ岳の山々と同じく遠くから見ている分には緑に包まれて平静そのものではある。特に蓼科山は仏前にあげる御飯のようにふっくらと円弧を描いて他の北八つの輩とは違うぞといっているような風情があり剣岳からもはっきり判ったし槍、穂高や後立山の稜線からも一目りょうぜんで(南)横岳のぎざぎざとともに遠くの山々からも目立つ存在である。ただ惜しむらくは富士山が望めずその逆もそうであることである。

  何回も登っていて気がついたのは将軍平(2360m)から頂上(2530m)までの植生が次第に頂上へ向かって延びているのではという点で、頂上小屋の米川さんにそのことを話したら同意して下さった。
   


  

  
<第4回>

 "クロベ"という木がある。日本特産種の常緑高木でヒノキ科に属し別名が"ネズコ"と聞けば下駄に馴染みのあった世代は ああ履いたことがある と思い出すかもしれない。その"クロベ"が生い茂る奥山から"黒部"が生まれた。
   
 何年か前、雨が降り続いた後新穂高温泉から入山して黒部川の源流地帯に達した。ワサビ平を出て1時間も歩いた頃下山してくる4人程の女性のpartyにあった。その時まだ雨は降ってはいたが大したことは無かった。聞けば雲の平を目指したが雨が中々止まないので鏡平で足止めをくいもう諦めたとのこと。登るにつれて雨は上がりそれから4日間晴天が続いた。 雲の平は別名 奥の平 とも呼ばれ北ア山中の別天地という。幾日かふり続いた雨が上がった直後だったので数多の地塘は水が溢れて定かでは無いほどで、木道も踏むとざーと水をかぶる所もあった。雲の平山荘は長雨で荷揚げが出来なかったとかで米も果てて食べる物は無く、非常食のラーメンや乾パンが役にたった。
  
 木とは関係の無い話になってしまうが、その黒部川は世に言う大河ではない。源流から河口まで86km、高度差約3000mを一気に駆け抜ける急流であり、しかも初めから終りまでが全て富山県内で流域に殆ど人家が無い(人が住めるような所は無い)川である。雨の後のためもあってか登山者は殆ど見当たらずこれが北アの最奥部かと思われる程に低潅木を混えた伸びやかな起伏のある草原であった。足元をちょろちょろと流れている水がやがて八千八谷(はっせんやたん、越中では谷をたんと言う)と称される数多の谷と四十八ケ瀬といわれる渓流を合わせ奥の廊下から上の廊下、下の廊下の大岸壁の底を縫う奔流と化すとは源流地帯では思いもよらないくらいのどかで牧歌的ですらあった。
    
 その時の目的地は雲の平ではなかったなどといえばとても贅沢に響くが足の赴く所全てが目的の地ではあった。その山荘から北へ向かいやがて草地とも別れを告げてうっそうとした樹林帯に入り泥に足を取られながら一気に約500m下って北アの最凹地といわれる高天原に着いた。そこは本当に正にこの世の楽園で"筆舌に尽くしがたい"とはこういう時こういう所で使うphraseではないかとさえ思えた。ただ ここで大雨が降れば楽園は一転して地獄と化するのではという思いも一瞬脳裏をかすめた。先刻までせせらぎであった小川はここでは既にごうごうと迸り石をも押し流すほどの激流で黒部川のいうなれば若武者の佇まいであった。眼前にそそり立つ長大な薬師岳(その時は後にその薬師を縦走することになるなどとは思ってもいなかった)、それと相携えて対峙するかの如き水晶岳と赤牛岳。
日本最奥の温泉、高天原温泉の露天風呂で疲れを癒しよくぞここまで無事に辿り着いたものよとお互いの健闘を称えながら黒部川の轟音を耳元にしてぐっすりと深い眠りに陥った。
   
 その翌日はまた快晴でいよいよ今回の最大の山場、地図には道のない温泉沢をつめての水晶岳登頂であった。高度差約2500m、やぶ漕ぎをしたり時々右往左往しながらの登りであった。高度を稼ぐほどに展望が開け眼下に広がる深い緑に疲れを癒されながら、その緑のなかに宝石を一個置いたような水晶池を時々見やりながら昨日の雲の平も全部が足下に広がる頂上での快哉であった。

 森は緑のダムといわれるが日本古来の神道は森の宗教といわれ森厳の語が示すように森や巨樹、大樹は神の依る所であった。今でもご神体が樹(木)である神社は少なくない。        


  

  
<第5回>

 身近なところでは諏訪大社のご神体は「木」である(春宮はスギ、秋宮はイチイ)。この場合は「神体木」と呼ばれ木を神とみなす観念のうちでは一段と古いものといわれ、全国に約一万の分社分霊を有するといわれる諏訪大社は既に日本書紀の持統天皇五年八月辛酉(かのととり)の条にこの年の天候異変を鎮める為に諏訪大社他に使者を遣わせて神を祭ったというのが文献上の初出という。

 天下の奇祭といわれる御柱祭で長さ16mの柱を計16本立(建)てる意味は、社殿建替の代わり、神の降臨の為の柱、本殿の代わりとするなど諸説があるようで興味は尽きないが、いずれにしても日本古来の神は八百万(やおよろず)といわれその神は一瞬にして無限の距離を飛ぶことが可能で、しかもどこにでも憑着でき、その特性は世界に数多ある神神にその例をみないといわれる。キリスト教やイスラム教が砂漠の宗教と呼ばれるのに対して日本の神は森の宗教といわれるが、実際深い森や鎮守の森に入ったり又巨樹、巨木の前に立つと言葉には表しがたいある種の霊気を感じ心身共に清められるような荘厳さを覚える。

 このような一種のinspirationは現代の欧米人にも共通の感覚であろうか? 古代の人々は洋の東西を問わずその様な状況におかれた時は今も日本人が抱く気持ちを、遍く抱いていたことは間違い無い。原初の時代には日本の神は様様な物に憑いていただけであったがそのうちに依り代となっていた物が神格化され諏訪大社のように「木」が神そのものとみなされて崇拝の対象と変化した。

 日本を代表する木、といえば人により順位は異なるにしても「スギ」は必ず五本の指に入ると思うが、植物学的にはスギ科は世界に15種、日本には2種が自生する。わが国では最も大きくなる木で長寿の木といわれるが北の秋田杉殊に鳥海山の噴火により埋没し長い年月を経て掘り出された神代杉の割面は品の良い灰色を呈し木目が更に鮮やかに変化して見事である。これを欧米の人に見せると勿論杉の木の高雅な変幻の昇華した姿とは判らない。その神代杉を薄く細く削いで格子に編みそれを蓋にした文庫をある機会に手に入れることが出来たが今地元の秋田へ行ってもそのような細工品は手に入らないようであった。北山杉や吉野の杉も有名であるがそれらは材としてであり小生の興味からは外れる。

 1945年に中国の四川省で発見され"生ける化石"として有名になったメタセコイアも杉の仲間で長寿な木が多い。しかし杉の圧巻は屋久杉である。屋久島へは二度行った。最初の時宿をとったホテルが、たまたま屋久杉の加工を行う仕事も兼ねておりその展示場で全体がこれ玉杢(屋久島でいう 泡こぶ)の塊といった観の屋久杉で作った文机を見た。元は土埋木であったかも知れないが、屋久杉は樹脂が多くそれが長寿の秘訣ともいわれている。その机も我が家へ来て既に何年も経ったが樹脂が滲み出てまるで何かの特別の塗料をかけたかと思われる程に見れども飽かぬ趣がある。神代杉の枯れきった枯淡な肌触りとは同じ杉の仲間とは思えぬ相違である。
その後も機会があれば木工品の展示会などに出掛けるが、あの"泡こぶ"の見事さを越える屋久杉には未だお目にかからない。

 その後その時のホテルの支配人と親しくなり二度目は日本最南の百名山、宮之浦岳へ登るため御世話になりその登山の往き帰りに何本かの屋久杉の巨樹、著名木を教えて頂いた。
屋久島出身の作家、林芙美子が"屋久島では月に35日雨が降る"といったそうであるが、その登山の日も断続的に雨で35日からは逃れることは出来なかった。それも一つの想い出ではある。
   


  

  
<第6回>

 黒部川右岸の後立山連峰と左岸の立山連峰、薬師岳を縦走しその源流地帯にも達し水晶岳にも登頂した後はこの川に沿って歩きたいという思いを消し去ることは出来ず下の廊下の遡行となった。初めて剣岳に登ったとき大雪渓を下り真砂沢出会からはしご谷乗越を経て内蔵之助谷出会から下の廊下の上流部を遡行しているのでその部分は二度目となる。所謂、水平歩道と呼ばれるこのルートは大部分が人一人がやっとという巾ではあるが馴れてくるとそれまで足下の絶壁の遥か下を時に轟音を岸壁に響かせながら流れ下る激流ばかりに気をとられて歩いていたのにふっと上を見やったら岸壁を逆コの字形に削って造られた歩道の岩の天井の上の絶壁の方が足下の眺めよりももっと怖かった。今にも崩れてきそうなoverhangや岩の壁から何とか根元を曲げて上方に延びている木木はまだよいとして、重力に抗しきれずにか、根元の拠り所を失ってか川の方へ向かって岸壁と直角に伸びている木木を目にした時には ああここは上を見ても下を見ても疲れなど感じてはいられないルートだなー、と実感した。

 あの有名な黒四の地下発電所から東谷出会で送電線が釣鐘形の2つの口から出て来る。その送電線の鉄塔が歩道の脇に立っていてその基部が目の高さにあたる所がありそこに付けられている、関西電力が国有地を借用している事を示す木の札の文字が目に入った。何とそこにはその地籍名が"黒部奥山"とあった。かって戦国の世、越中から薬師・立山連峰を越え黒部川を渡り後立山を横断して信州へ到る間道がありそれは佐々成政のザラ峠越えとして有名であり、北アルプスの北部開山祭ではその故事に因んで毎年針の木の雪渓で武者行列が披露されるのは周知の事であるが、薬師岳縦走の折、そのザラ峠に立った。下界では秋たけなわの頃であったがそこではもういつ雪が来ても不思議はないという時期であった。草草の緑は既に失せ我々以外に人の気配は無く遥か下方に白いしぶきを立てている細い黒部の流れがあり千尋の谷から吹き上げる風はひんやりと冷たく、未だにこんな古い昔ながらの小屋があったのかと立ち去りがたい風情のザラ峠小屋の情景と共に、悲劇の武将、成政が藩の存亡をかけて尾張の家康と密かに連絡をとるべく、今、立っているここをしかも冬に馬で越えたのかと思うと身も心も凍てつかんばかりであった。

 僧玄同は成政に向かいこの黒部の谷のことを

 「さてさて難所にて人倫絶えたる所なり。山嶽、天に連なり、四時雪あり。夏日を知らず。
 寒風肌を裂き、手脚亀(こご)り、ここに過ぐる道もなく、巌石を攀(よ)じ、脚下渓(たに)深うして煙雲鎖(とざ)し、幾千丈あるをみず。藤蘿(ふじかずら)幾年となく生い茂りたるが、深渓(しんけい)に架し、橋のごとくなるを攀じて過ぐる所もあり。また脚下火燃え、渓水沸き騰(のぼ)り、熱湯となり、煙漠々として暗く、只尺(しせき、長さ八寸)を分たず。実に言語に尽くしがたし。」

と言上したという。

 家康との盟ならず失意の内に成政が越中を去った後これを支配したのは加賀の前田家であった。 前田家はこの国境地帯の黒部を重視し奥山廻り役を設けて巡検怠り無くかくてこの地は"奥山" という本来の普通名詞が固有名詞と化し未だにそれが認められているのをその木札から実感した。

(今回は"木"も出て来ずまして国際交流とはなんの関わりも無いように見える叙述になり紙面を汚して済みません。でもこの黒部のすばらしさを世界に向けて発信した外国人がいたのです)
     


  

  
<第7回>

 黒部の奥山廻り役はそま人足約30人を引き連れて入山したが、出発にあたり全員が天罰起請文を書かせられ、黒部山中で見聞したことは親子兄弟たりとも他言せぬことを厳しく誓約させられた。かくて黒部奥山は明治維新に到るまで秘密の扉の中にあった。奥山廻り役は公務としての入山であったからその記録として克明な山廻り日記を残した。一同の中には風雅の嗜みのある人もいて、山中で茶会を開き俳諧連句の付け合いを楽しんだ記録もあるという。いずれにしても常に死と背中合わせの危険な役目であったに違いない。

 今はどの山へ入っても会う人達は中高年が多く大学の山岳部に遭うことは殆どない。以前と変わった点の一つが山で外国の人達と会うことが多くなったことであろうか?
日本を去るに当たってもっと日本の山を沢山登りたかったと言った人もいる。祖国にはもっともっと高い山が沢山にあるかも知れない。しかし、山高きが故に貴からず ではないが、日本の山は高さは兎に角として火山列島の故にか地形が複雑で、樹種が多くそこに四季の変化が加わり世界に類を見ない美しさであるといわれる。例えば紅葉の頃、槍穂高に抱かれた涸沢に行くと有名なななかまどの美しさに飽きることはないが、良く見ると微小気候の故にか同じ1本でも枝により色の付き具合が微妙に違いそれが紅葉に変化を与えている。 有名な漢詩の一節に南枝北枝の枝開花既に異なり とあるが、紅葉に就いても同じだと思う。

 森林限界を超えた高所では足元の眺めよりは展望の良し悪しが気になるが、そこに到るまでの登りで疲れを癒してくれるのは矢張り様様に枝を張り緑をたっぷりと与えて呉れる木々である。
 ある時外国の友人も含めて何人かで蓼科山へ登った時のこと、一服する度にタバコを吸う人がいて、後で外国の彼が 折角空気のおいしい山へ登ったのにどうしてあんなものを口にするのか理解できない といわれて返す言葉がなかったことを覚えている。新緑の頃、登山道を一杯に満たしている香ばしい山の霊気は貯まった俗世の疲れを一度に拭い去り身も心も蘇る。

 妙高山や、蓮華岳から七倉岳へいく途中や明神岳の下のひょうたん池へ登る途中、かなりの急斜面にダケカンバの大木を目にした。ヒトから見れば劣悪な環境にあってよくぞかくも成長したものよ と感激したが、その樹種にとってはきっと安心して枝を伸ばせる場所なのに違いない。

 劣悪といえば砂礫地のみに活路を見出して群落を形成するコマクサには感動する。蓮華岳の頂上付近の風の吹きすさぶ砂礫の緩斜面では足の踏み場も無いほどに密生し小さな岩片をかき分けても砂などありそうも無いのに、枕草子ではないが かくてもあられけるよ と可憐な花を競い合っている様は何故か生き抜く力を与えられたようで何かあると何時も想いだして励まされる。
コマクサの根は地上部からは考えられないほどに広く深くしなやかに延びており、又もしある年うまく結実出来なかった時の為に常に3年分位の予備の種を持っているとも聞いた事がある。色々と教えられる点の多い高山の花ではある。
 
世界100名山として選ばれた山々がある。何れも高くて大きな山であり木々の緑とは余り縁のない山々である。それらの山としてはかなり下から雪と氷に包まれており、眺めても写真に撮ってもただ白いだけである。従ってその峰峰が人々の注視を集めるとすればそれらが陽光の受け方により彩られる一瞬である。山は緑に包まれているのが常態と認識しているこの国の人人にとっては木々を養いそれらが四季折々の変化を見せ、見る人の心を和ませ、時としては神のいます所として崇められる存在。それが山である。
   


  

  
<第8回>

 われわれの日常生活で戦後最も変わった点は何であろうか?答えは視点により異なるが、誰もが異存のない大変化は身の回りから"木"の製品が減っていきそれらがプラスチックの品々に置き換わっていったことではないだろうか?
  
 住まいから始まって"木"なしには日本人の暮らしは成り立たなかった。それが現在ではわれわれを取り囲んでいるのはさまざまな金属やプラスチックを含めた化学製品であり、好むと好まざるとに拘わらずそのような日常に慣れてきてしまった。しかしそれらの"新"製品がもつ好ましくない点が次第に明らかになってきて、今はいわば反省期に入りつつあるといってもよいだろう。日常生活雑器から"木"が駆逐されたことが皮肉にもわが国の森林率を低下させない一因にもなったが、帰りなんいざ田園将に蕪せんとす ではなくて 森林将に蕪せんとす が現況であり森をまもるべき林野庁は如何に材を高く売るかに汲汲としていて民間の有識者が子や孫の代を見据えて如何に美林をのこすかを模索している。
   
 ありきたりの表現であるが"木"のもつぬくもりは何者をもってしても代え難いが"木"でない材料を"木"に見せかける技術も大いに進んだ。材を薄切し好ましい色に染めそれを"木"とは似て非なる材料に貼り付けるのである。日本人は器用だからそのような誤魔化しにも存分にその才を発揮している。
わが家で食事に用いている椀は木曽の楢川の名手が考えられない程に薄く刳った上に漆をたっぷりとかけた器であるが、外国のお客にその材料を何かと尋ねると殆どの答えは、なんでそんな判りきったことを聞くのかと言わんばかりに、"プラスチック"である。説明すると改めて感嘆しきりである。日本人にはそのような問いを発したことはないが、もしかして真面目な顔で同じ答えが返ってくるかもわからない。
   
 漆はjapan(普通名詞なのでJではない)であるとものの本には必ず書いてある。しかし日本人ですら漆がその日常から疎遠になりつつある現在、そのような認識は外国の人々からは更に薄れていきつつあり漆はかってはjapanであった。

  何時の頃からか螺鈿や蒔絵の美しさに魅せられて全国の漆器の産地を訪ね歩くことが始まった。通産大臣が指定して伝統的工芸品なるものが数多あるが、指定して保護策を講じなければ守れないということでもある。漆芸については北から津軽塗、秀衡塗、浄法寺塗、鳴子漆器、川連漆器、会津塗、鎌倉彫、小田原漆器、村上木彫堆朱、木曽漆器、飛騨春慶、高岡漆器、輪島塗、山中漆器、金沢漆器、越前漆器、若狭塗、京漆器、紀州漆器、大内塗、香川漆器、琉球漆器の22箇所である。どの産地でも手がけているのは日常生活雑器としての食器でありそれらに付随するものとして弁当箱、重箱、盆、皿、菓子器、茶托、膳、鉢、座卓、あと食器からは離れて花器、茶道具、建具、和家具、文庫をはじめとするさまざまな箱、調度品である。それらの内、私が旅をするのは文庫を求めてである。箱などいくらあってもその中へ入れる品がなければただもう住まいの限られた空間を不法占拠するのみで全く意味はないという家人の轟々たる非難の声を単なる雑音と聞き流しわが道を行かなければいかなる趣味も成り立たない。世の中には便器の蒐集を趣味としている御仁もいると聞いているから私など良い方だと自分に言い聞かせている。 
   


  

  
<第9回>

 昨年暮の新聞は北海道南茅部町の町埋蔵文化財調査団事務所から28日の夜半に出火しその建物が全焼し同所に保存していた町内の遺跡から出土した土器や装飾品など7万~8万点の大半が焼失したことを伝えていた。その焼失物の中で際立って惜しまれたのは世界最古級の縄文時代早期(約9000年前)の墓から2000年8月に発見された漆塗りの副葬品である。長い間漆は中国から渡来したと思われていたが遺跡列島日本が特にbubbleの崩壊前さまざまな工事でいたる所で掘り返された結果出土品の年代が諸事物についてどんどん遡って行き、漆についても同様で遂に9000年前までいってしまった。

 1992年に東京国立博物館で 特別展 曾公乙墓 があり観に行ったが、その時は曾公乙墓出土の最も重要な漆の作品といわれる墓主の漆棺は脱水処理を施してなかった為出展されず、その後日本も協力して中国古代の大型漆器を適切に保存する為の手段が講じられ遂に1998年7月から同じ東京国立博物館で 漆で描かれた神秘の世界―中国古代漆器展が開かれ8月15日に観に行った。

 曾公乙墓の棺は内外二重になっており外棺は展示されなかったが青銅製の枠に木板をはめ込み全体に彩漆を塗り、長さ3.2m,幅2.1m,高さ2.2mという。展示番号1番でその内棺があった。長さ2.5m,幅1.25m,高さ1.32m。深さ11m以上の墓坑が掘られその底には木材で東西20m、南北16m、高さ4.5mの槨(棺を納める部屋)がありそれと墓坑の壁との間は木炭で埋め、その上には10~30cmの厚さに水を通さない粘土を詰めさらにその上は異なる土を交互に突き固めて埋められた。その後の長い年月の間に槨内は周囲の木炭により浄化された水で完全にみたされた。その結果2000年以上前に作られた器物が錆びず、腐らずに保存され、われわれの眼前にあった。中原にも登場しなかった一地方の王の墓でさえかくの如き規模であるのはさすがに世界一の建造物といわれる万里の長城を築いた民族のなせる技と感嘆しきりであった。

 漆そのものを人がある目的で用いたのは今のところの記録では日本の方が古いかもしれない。しかし、漆芸としてある形を創り上げたのは矢張り中国であり、金銀平脱、螺鈿、研出蒔絵、蜜陀絵などの奈良時代の主要な技法は全て中国から導入された。

 飛鳥時代から奈良時代にかけて仏教伝来により各地に大寺院の造営が続き漆に対する需要は大いにたかまり、為政者は漆部司をおいて漆の増産を積極的に計りその為漆の生産は当時の一大産業と化した。
その後両国は漆工芸のうえでも絶え間のない交流を続けたが他の分野におけると同様に日本人は独特の感性により蒔絵といえば漆器、漆器といえば直ぐに蒔絵を連想する位に金銀蒔絵が日本の漆芸の主要な装飾となりやがてそれらはヨーロッパの諸侯が渇望する工芸となり鎖国の最中にあっても生産が海外の需要に追いつかない時代がやってきた。かくて漆芸の逸品が欧米の有名な博物館にも収蔵されることになったが、ギリシャ、ローマやエジプトから持ち帰った鉱物品とは全く勝手が違い漆という物質の持つ微妙さには、手には入れたものの時が経つにつれてその保存、修復に手を焼くこととなり施設によっては収蔵庫に眠ったままというところも少なくない状況となった。
    


  

  
<第10回>

 ヨーロッパの諸侯が日本からの漆器を思うようには入手できないと知った時自然発生的に自分の国又は近隣の何処かでの漆器の製作が始まった。かくして17世紀の特に後半に入ると"模倣漆器"の製作が活況を呈したといわれる。しかし漆の木は日本と朝鮮半島、中国南部、ベトナム、ビルマ、タイ、ラオス、ブータン等東アジアの諸国には生育するがヨーロッパにはない。それ故漆だけは輸入せざるを得なかった。

 その頃イギリスでは漆工の技法を"Japanning"と呼ぶ習慣が広まりつつあった。その職人は"Japanner"。その製品は"Japanned ware"あるいは"Japan"とよばれた。ヨーロッパにおける"japan"の誕生である。1688年には初めてヨーロッパでその技法に関する記述を集成して"ジャパニングとワニスの技法論"がジョン=ストーカーとジョージ=パーカーの著作で出版されジャパニングは職人の技であるばかりではなく、広く一般大衆の手芸として普及した。今風にいえば日曜大工とてずくなであろうか? 

 その書物の冒頭には"さて、絵画が我々の肉体のために立派な準備をしたように、漆塗りは家具と家の輝かしさと保全のために、それに決して劣らない方法を我々に教えた"で始まり"建物は我々の肉体のように絶えず滅び崩壊しがちで、常に新しい補給と手直しを必要とする。それらは一方で予期しない奇禍に襲われ、他方では時と天候による損傷も受ける"から"漆塗りは火に最も強く抵抗し、それ自体が不燃性であることが分っている"と現代の日本人も知らないようなことが書いてあり更に"それは堅牢耐久であるのみでなく、華麗で装飾的であることは言語に絶する。磨いた大理石よりも輝かしく又反射する漆で、我々の部屋を塗るほど素晴らしいことがあろうか?" "ヨーロッパ人はもはや、堂々とした宮殿、豪華な神殿、壮麗な構造物等で、全世界をしのいだという空虚な観念で得意がってはならない。古代及び近代のローマは席をゆずらなければならない。一つの国、日本だけの栄光が、美と荘厳さの面で、現在のバチカンと今のパンテオンのプライドすべてを凌駕した"(山崎 剛、日本の美術426号より)。

 その当時の日本はマルコ=ポーロの時代からかなり経っているのに未だに黄金の装飾に光り輝く国と思われていたようで、現在のように各種の情報が瞬時にして世界を駆け巡り国際交流が盛んに行われている時代にあっても国々の又世界の人々のありのままの姿が正しく認識されるのは容易ではないことを思えばその当時にあってはむべなるかな、である。日本の漆芸が大袈裟にいうとヨーロッパを席捲したようであるが爛熟期を迎えた日本の漆芸はかってそれを伝えてくれた中国や東南アジアの国々に逆に輸出され近隣の諸国からも高い評価をえた。

 始めにヨーロッパに渡った漆器は日本での漆工の極致を示す作品であったのだろうが、次第に中国漆器や李朝螺鈿などの様式が加味され、初期の発注者であるポルトガル人の好みも加わって和洋折衷的に変容し、日本国内で流通している漆器とは大きく異なるものとなった。
   

 

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