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私の”木”遍歴
  
第11回~第20回

 

 

  
<第11回>

 江戸幕府の鎖国体制下でも長崎の平戸から中国や東南アジアの国々、遠くはヨーロッパの国々へ向けて交易品が渡って行った。その中でも漆工芸品は最も高価でヨーロッパの諸侯にとっては垂涎の的であった。しかも17世紀末にオランダ東インド会社が日本製漆器の本国向け公式取引から手を引いた為、ヨーロッパに渡る日本製漆器の絶対量が減り価格は高騰し、それに取ってかわって出回ったのは中国製のより安価な漆器と、東洋風のヨーロッパ製漆器であった。

 18世紀の有名な女帝マリアテレージアはウイーンのシェーンブルグ宮殿内に"日本の間(漆の間)"を作りこの部屋に日本をはじめ東洋から輸入した漆器類を集めてハプスブルグ家の繁栄を誇示し、それらはヨーロッパにおける漆器の一大コレクションとなり、また、女帝死後財産分与によりその一部はフランス革命で断頭台のつゆと消えたかのマリーアントワネットのコレクションとなり現存する。

 1368年長らく中国を支配してきたモンゴル人の国家"元"が滅び漢族の"明"が成立した。その初代皇帝 洪武帝は中国皇帝の名において海外諸国の王の地位を安堵し(冊封制)それに応えてその王達は皇帝に忠誠を誓う意味で貢物を捧げる(進貢、朝貢)。こうした従属的な外交関係を結んだ国にだけ明朝は指定港にのみ出入りと貿易を許した。また明朝は自国民の海外渡航を禁じ、海外居住者の帰国を制限して一種の鎖国政策(海禁政策)をとった。当時の中国は世界最大の商品生産國でもあったから、魅力的な中国産品を入手する為アジアの多くの国々がその冊封体制に加わり、琉球王朝もその一つであった。 1372年洪武帝は使節団を琉球の中山王のもとに遣わし進貢、朝貢関係への応諾を求め王は直ちに同意したとされる。

 爾来約500年に亘りこの関係は維持され、1609年家康の出兵許可をとりつけた薩摩藩が琉球に侵攻してこれを統治することになったが、その後も中国王朝とのこの関係は薩摩からも幕府からも認められ存続した。中国の海禁政策のためもあって琉球は中国は勿論、朝鮮半島、東南アジアの貿易の中心となり鎖国政策をとっている徳川幕府にとっても平戸と共に欠かすことの出来ない重要な海外からの情報の入り口であった。琉球はかくして中国と薩摩藩を介しての徳川幕府の二重支配を受けていた。活発な交易の場としての琉球の存在はヨーロッパにも早くも知られており神聖ローマ帝国のカール五世は帝国の領土内に中国文化圏の一部として琉球諸島を取り入れる意図をもっていたという。

 東南アジア一帯に産する漆は夫々の国の風土に合ったいわば漆文化圏を構成していたが琉球はその立地とそれによる盛んな交易を生かして沈金、螺鈿、箔絵、堆錦、堆朱、堆黒、堆彩、彫木漆塗、蜜陀絵、漆絵、存星等の多彩な漆芸を開花させ近隣諸国は無論のこと平戸も介しながら遠くヨーロッパでのjapanの一翼を担った。

 列強の圧力に抗しきれず開国を余儀なくされた徳川幕府は版図を少しでも広げるべく"琉球"を併合し"沖縄県"を設けようとしたが琉球王朝は従わず、また中国もその帰属をめぐって強硬な態度に出たが、政府は1879年武力で首里城の明渡しを迫り500年に及んだ琉球王朝は崩壊した。また日清戦争で日本が勝利したことで中国の要求は消滅した。

   


 

  
<第12回>

 私は漆工芸品が大好き、殊に文庫(手箱)が!
それでわが国が鎖国の時代にあっても"漆"を介して中国や東南アジアの国々、更には遠くヨーロッパの国々とも平戸や琉球王国を拠点として活発な交流があったという歴史的な事実の一端を紹介したが、残念ながら現在の日本人の多くは漆の優れた特性を理解していないしどうみても国もこの優れた伝統工芸を保護発展させようとは考えてもいないと思われる。

 漆の最初の発見"者"は誰?  それは蜂だという。
地上に巣を作る蜂は漆の木によく集まる。蜂が巣を木の枝などに作っていく時、巣の柄の黒褐色の部分は自身の分泌物と漆の混合物で漆の持つ接着力、撥水性、固まった時の色々な力に対する強さ、非腐食性が巧みに利用されその巣が固定されている。人が漆を用いる様になったのは偶然に漆の木の樹液を知ったものかと思うが、蜂の巣作りを見ていた人がいてそれから漆の存在を知ったのかもしれない。人は初め漆を接着剤として利用し、使っている内にこの素材の持つ多くの優れた特性が明らかとなり時代とともに世界に類を見ない日本人ならではのさまざまな技法が駆使されそれぞれの産地の特色が、以前程ではないにしても、何とか保たれている。日本は"木"の国でありこの小さな島国が有する樹種の多さは世界に例をみないといわれるが、この国に住む人々は木目の多様性に慣れてしまってそれを当たり前のこととしか認識していないように思われる。だから木目などは皆似たり寄ったりと思っている外国の人にさまざまな条件の下で生育し織りなされた自然の造形を紹介すると本当に感動の意を表わす。

 木の箱に漆によるさまざまな加飾を施せばその内容により木目は隠れてしまうのでその木は漆と相性のよい加工し易い木がよいのだろうが、玉もくと通称される変幻極まりない木目はそれをいかす為には透明の漆を塗りそれにより更にその自然の造形を際立たせることになる。そのような木の代表は、欅、栃、楓、黒柿、屋久杉などであろうが、いずれの樹木もある大きさになると自重により木目に複雑な捩(よじ)れを生じ、玉もくは木にすればもがき苦しんだ結果の造形に違いないが、それが見る人に感動を与える。

 今、日本の漆工芸は他の伝統的工芸と同じく苦しい状況にある。木曽の楢川のように学校の机、椅子は全て自分の村の木で給食の食器はこれも全て自分の村の漆器、という訳には行かないまでも人々がプラスチックに汚染された(無論その素材を全面的に否定するものではないが)日常から漆器が日常生活の中でごく普通の什器であった時代への回帰を図ることが欠かせないと思う。

 と言う訳で今はこの不況も手伝って売れる当てもない漆に関する書籍は殆ど出ない。ことに漆工芸品を扱った原色本は、である。いきおいそれらを求めて神田の古書街を尋ね歩くことになる。新幹線効果で東京は近くなったとはいえ、こちらが行ける日曜祭日は大部分の店は休み。ある新聞社が毎年読書週間になると古書街の案内書をよく出すが、それには古書店の主は専門家で何でも親切に教えて下さることになっているが現実はさにあらず。自分の店になければ、知らない、扱ったことがない、で取り付くしまもない。平成11年5月に京都の老舗が"手箱"という豪華本(稀こう本)を創業記念として800部限定で出した。恐らく漆に関係した最後の豪華出版物であったろうか? その事業が重くのしかかり美術書で名を馳せた老舗の最後となってしまった。
 


  

  
<第13回>

 その豪華本"手箱"は出版されたが、その社が倒産して数ヶ月、新刊が定価の半値以下で手に入った。
今でこそ古書店の店頭に時々見かけるが、その時は特別のルートを持つ知り合いの古書店から連絡があっての事であった。老舗を倒してしまっただけあって見事な出来栄えで正に"飽かず眺むる"である。

 東京国立博物館のMuseum Shopに著明な漆芸研究家でその方の著作が沢山ある人の漆の豪華本がもう何年も売れることなく新刊書に混じって書棚にあった。函は変色し傷みもあって周りが新刊書だから余計に古書にしか見えない。でも国家の売店だから値引き等はあり得ずあくまでも新刊である。癪だから古書店でそれを探す。しかし今の所発見出来ていない。そのうちにその本は書棚から消えていた。どうなったか尋ねるのも答えが怖いから嫌だ。売れたと言われても癪、処分したと聞けば余計に癪、だから店員に口まで出かかっても尋ねない。

 そのMuseum Shopにこれももう何年も売れていない同博物館蔵、国宝八橋蒔絵硯箱(尾形光琳作)のレプリカがある。本物より一回り小さいが40万円。作者名の表示はない。美術工芸品の世界ではレプリカとは単に外見を似せて作ることであり、出きるだけ現品に近い材料、製作工程によりその再現を計る事を模造制作と言う由。その硯箱が大きさの違いのみで素材、制作工程で模造制作を念頭においた品であるかは店員に尋ねても判らない。現品は漆黒の地に橋を鉛の板、かきつばたの花を厚い螺鈿、葉を金蒔絵で表現し琳派の漆芸品の最高傑作といわれる。ガラスの陳列戸棚の中にひっそりと置かれてあり周りに人気のない時など一人で心ゆくまで眺めていると時の経つのを忘れる。周りに誰も居なくて非常に良好な鑑賞環境にあるが他面とても寂しい。ルーブルのミロのヴィーナスの部屋が観客でごった返している光景がふっと頭をかすめる。この硯箱も世界的な美術工芸品といわれるが日本人ですら殆ど知らない。これは教育の場での自分の国の美術工芸品に関する指導に欠陥があるとしか思えず第一教える側に知識がなさすぎる。最近は博物館も展示方法に色々と工夫を凝らすようになっては来たがまだまだ不十分である。というのはこの硯箱の外見もさることながら、硯箱の底と料紙箱の見込み全てに繊細な波文が黒漆の地に金蒔絵で埋めつくされている。目に見えない部分の凝りに凝った豪華さは原色図鑑でしか判らない。もし傍らに原色図版も展示してあればと思う。

 日本が世界に誇る正倉院の宝物は単に日本の財産ではなくて世界の宝物であり従って各界の名工の手により模造制作がなされており国が委嘱して作った品と工芸家が自分の腕を磨くべく自分の意志で取り組んだ作品とがある。前に模造品による正倉院展も開かれたことがあり見に行った。世界に類のない保存のよさとはいえ模造品に1200年の時の流れは要求すべくもない。

 私が求めているのは原則として木胎に漆を施した文庫であるが、専門家によると箱とは何かから問題になる。935年源順が著したとされるわが国最古の百科辞典"和名類聚抄"によれば"厨子に似て蓋を上に向けて開け閉めする器である"とされている。その蓋も身に対する関係から二つに分かれ最も普通には蓋が身から完全に離れる事が出来て、乗っかる、かぶさる型と蝶番等により蓋の一辺が身の相対する一辺に固定されている型とになる。文庫の定義は簡単には書類、紙、筆などを入れておく小箱 とされるが、手箱も今様の定義は身のまわりの小物を入れておく箱で通っている。が、歴史的には浦島伝説の主役である玉手箱から始まり、霊性のある神仙女との結合を可能にするタブーの箱、神仙としての浦島の霊性(不老不死)を斎い込めた箱の意がある。それから離れて平安時代の貴人の手回り品を納めた箱がその後の手箱の意味の主流であろうが、神宝(かむだから)としての手箱もありその辺を調べると膨大な内容になってしまう。
   


  

  
<第14回>

 毎年一回、日本伝統工芸展が開かれ日本橋の三越を皮切りに各地を巡回する。今年は発足50年にあたる記念展で、subtitleは"わざの美"であった。

 第二次世界大戦が終結し日本国民は物心両面で打ちのめされたが世界に向けては文化国家(非常に曖昧な言葉であると思う)として新しい道を歩むことを宣言した。しかし衣食足って礼節を知る訳だから一般国民にとっては伝統工芸どころではなかったに違いない。
昭和24年1月法隆寺金堂の壁画が火災により焼損する大事が起きこれがきっかけとなって貴重な文化財の保護が叫ばれるようになり、その翌年文化財保護法が制定公布された。第一回は無形文化財伝統工芸展の名の下に昭和29年に開催されたがその名の如く無形文化財に指定された人や団体しか出品できなかった。しかしその年の5月同法の一部が改正され、それまでの技術重視から芸術性も重視する方向へと向かった。その後日展内部の抗争もあったりしてその歩みは決して平坦ではなかったようであるが、現在の問題の一つは余りに芸術性重視に走る出品者が出てきて日常性が薄れて行くのではという点にあるらしい。

 それでは"伝統継承"とは何かについて第6会展の趣旨の中に
 「 "伝統継承"とは単に古い技術を習得しこれを墨守することではない。伝統は生きて流れているものであり、芭蕉の所謂 不易流行 である。換言すれば永遠にかわらない本質をもちながら、しかも流れる水のごとく一瞬もとどまることのないのが伝統の真の姿である。」
とあり、私も全国各地の漆工芸品の産地を訪ね歩くたびに多くの産地でその地での最も伝統的な作品をとお願いしても他と比較してどこがどう違うのか理解しかねる場合が少なくはない。現在のように物人の交流が盛んであれば上記の伝統の考え方ならずとも、また本質的な技法は変わっていなくても出来上がった品は外見的にはかなり似通った品が多くなってもそれはそれで"伝統継承"には反してはいないことがある程度理解できる。一目で何処の産と判るのはその産地特有の塗り方や模様、文様を持っている場合で青森の津軽塗りとか、宮城の秀衡塗り、新潟県村上の堆朱、堆黒、四国高松のキンマ、秋田能代の黄春慶、沖縄の堆錦等で何処の産地でも行われている塗り方ではそれからただちに産地を言い当てるのは難しい。例えば蒔絵、螺鈿、いわゆる根来塗り、(赤)春慶等である。

 今年の日本伝統工芸展では同展半世紀の歩みの総括として陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、その他の工芸の7部門において夫々の分野で指導的役割を果たしてきた(または、果たしている)名工中の名工の作品が厳選されて展示されておりどの分野も見ていて時の経つのを忘れるほどに感嘆と興奮の連続であったが小生の興味の中心は漆と木なのでそれらを主に観た。
漆芸では選ばれた出品者は27名の38点でこの内実の親子が3組、養子に入った方が1組、戦後生まれの方が7名、女性は最も若手の市島桜魚さんを含む2人。物故者が10名で何れも重要無形文化財保持者かそれに準ずる方達であり中々観る事が出来ない作品が殆どでただもうため息が出るばかりであった。輪島、金沢を含む石川県出身者が11名と最も多くさすがに層の厚さが目立った。

 巨匠松田権六は名著といわれる"うるしの話"(岩波書店刊)でも有名であるが、多くの有能な弟子を育てた。例えば田口善国は蒔絵を松田に日本画を奥村土牛に学ぶという英才教育を受けた。松田は既に昭和61年にこの世を去ったが、昨年8月、その"うるしの話"を襲名するような"漆の文化"という室瀬和美さんの著作(角川書店刊)が出た。松田の本とはまた違った意味でとても解りやすい。その室瀬さんの作品も選ばれて出展されていた。
            


  

  
<第15回>

 日本伝統工芸展50年記念展は発足以来の50年間に活躍された、又現在活躍しておられる各分野の名工中の名工の作品のオンパレードであった。漆工、木工、金工に限らず現在容易には観られない作品がその美を競うかの如くに陳列され、時間のないのが惜しまれた。"美"とは感激、感動だと思うのでよく判らない分野の作品も理屈を抜きにしてどれもはっと息を呑む美しさ、その前を立ち去り難く、作品によっては何度もとってはかえした。

 こういう展覧会を観ると時代とともに衰退しつつあるとはいえ、まだまだ日本の伝統工芸は幅が広く奥が深いと実感する。どの作品も気の遠くなるような細かい技の開陳であり他の分野でもそうであるように人間のなせる技は殆ど無限だと思う。染めも織りも漆工も金工も木工も飽くことなき"美"への探究心が殆ど神がかりとしか思えない色や形、配色、繊細な造形を具現し小さなある形の中に限りの無い宇宙が閉じ込められそれを見る人の感性に応えて果てのない"美"の世界へと導いてくれる。
漆芸の伝統的技法のなかに春慶塗りというのがある。これは透明塗りの一つで黄ないし紅色に着色した木材素地に春慶漆(透明度の高い生漆にえの油20%程を混合した透漆)を上塗りして、漆の膜を通して木地を表わす技法で紅春慶は各地に見られるが、黄春慶は能代春慶とも呼ばれて能代に細々と残っているだけ。昨年酒田へ行った際、急に思い立って能代まで足を延ばした。場所も定かではないのでJR能代駅の観光案内所へ行き尋ねたが要領を得ない。それどころか案内嬢は春慶塗りすら知らない様子。今日は日曜日だからお休みでしょう、くらいの返事。電話で確認すらしてくれない。これでも案内所かとがっかりする。

 なんとか店を探し当て、主人も在宅で色々と話を伺って望んだ品も入手できた。かつては中央での展示会にも出品した由であるが、今は自宅兼工房のここでしか売っていないとのことで、はるばる尋ねた甲斐があった。
国の伝統的工芸品にも指定はされていないので紅春慶しか知らない人も多いかと思われる。知っている人は買って下さるようであるがお客は次第に減って先行きは極めて悲観的のようであった。遠来の客に、もう御高齢のご主人は大変に嬉しそうで、如何にも頑固な職人の感があったが最大限のお愛想を振りまいている様がはしはしからみてとれここでしか手に入らないという品を得た嬉しさがこみ上げてきた。

 きんま(蒟醤)の技法で知られる香川漆器は本当に精緻でよくぞこれほどの細かな彫りが出来るものとただただ感心するばかりであるが、これはタイ、ミャンマー地域にその起源をもち、古く東南アジアとの交易で漆器はその代表的産品として輸入されていたが、千利休はきんま塗りの漆器を茶器として珍重したといわれ、後に江戸末期の漆工人であった玉梶象谷が、このきんまの技法を大阪に出向いて研究し、香川に広めたのが現在に至った由縁という。1996年に東京で"世界の漆、うるし展"という催しがありもしや原産地のきんまを見たり、即売で入手できたらと出掛けたが、展示はあったが、売っていたのはコースターを入れた蓋付きの入れ物位で無論文庫などあるわけも無くどっと疲れた。しかし正真正銘のきんまであり手が込んでいることには変わりはない。木曽漆器はきんまの原産地から研修生を受け入れて器本体の製作を日本人がやるようにもっときちんと作るべく指導をしているようであるが、国民性というか、彼の地では身と蓋がきちっと合わなくて少しくらいがたがたしてもそんなことは一向に気にしないようで、それを気にしていたら買える品はなさそうで、何時まで待っても手に入らない。

 原産地へ出向かなければきんまは手に入らないかと半ば諦めていた折、軽井沢で、それも今は女性専科となってしまったある店できんまを見かけ本当にわが目を疑った。東京に本店のあるその店の主が東南アジアの工芸品をご自分の趣味もあって輸入しているとのことで、それが軽井沢店へ回って来たのであった。
箱物はなかったが食籠や盆を入手できた。本当に細かな加飾でこれが肉眼で可能なのかと疑うほどである。この彫りは最年少で4歳から18歳ぐらいまでの女子の仕事とのことで少女にしてすでに匠の技であり、細かな模様の配列を見ながらただただ驚くばかりである。
   


  

  
<第16回>

 絢爛豪華で"動く陽明門"とも称される高山祭りの屋台。全部で23台あり、4月14,15日の春祭りに12台、10月9,10日の秋祭りに11台が見物人の「ため息」を誘う。

 飛騨は全く山ばかりの国で、耕地は狭く、林業の他には産業としてみるべきものもなく、律令の時代には下々の下国と位置づけられていた。
幾外諸国が布や絹等夫々の土地の特産品を貢納していたのに、飛騨はこれといった庸調もなく、山国ならではの工人や樵たちが都へと徴用されていった。そして都の造営に立ち働いていたが、仕事は過酷で逃亡者が後を絶たなかったと記録に在る。平安京造営の頃のことである。未だ後に"匠"と尊称される気配も見えず、造営に携わる職掌の最下位にあった。
都では大陸からの渡来人が持ち込んだ新しい建築技術が駆使されており、飛騨人達はただもうその下働きでしかなかった。漸く"三代実録"陽成天皇(在位 877~884)の条に、渡来人と肩を並べまたは彼らを凌駕する工人達が出始めたとの記述があり、以後"飛騨人"といえば飛騨の工(たくみ)を指すまでになっていった。

 1990年秋始めて高山祭りを見に行って宿へ帰る途中、既に閉じていたが、とある家具店の中を覗きこんで心がときめいた。欅をはじめとしてさまざまな木工品が目に飛び込んできたからである。次の日早速その店の主に会うことが出来いろいろと伺うことができた。

 主はただの家具屋ではなかった。まず、山持ちでさまざまな材が自由に使える立場にありただの小売りではなくいわば製造直売店であった。高山にはある有名な家具メーカーの工場がありそこへ気軽に出かけていきご自分の考えを述べたり、気に入った品を仕入れたり、家具の流通に関しても極めて恵まれた状況にあった。最も特筆すべきは優れた骨董の蒐集家で、いわゆる"目利き"であり、その方の所持品がその分野の雑誌や全集にいくつも載っており、どんどん蒐集品を増やすのではなくて、時々手持ちの品を手放しては更に価値のある品を手に入れるというやり方で、思い切りのよさがますます鑑識眼を確かなものとするという蒐集のいわば鉄則を教えて頂いた。
 
 その後高山祭りの時であってもなくてもこの方にお会いする為の"高山詣で"が始まり、まだ今の安房トンネルが出来る前の峠を何度も往復した。帰りはもうとっぷりと闇に包まれての山越えも屡であった。こうして何回かお訪ねしている内にもっと驚くべき事実が明らかになった。たんなる高額骨董品の蒐集は一面で、もう一つの顔は民具の収集家でもあったのだ。自宅の離れの古くなった建物がいうなればその民具博物館で今は幻と化したさまざまな民具が足の踏み場もないほどに満ち満ちており、それらの品々の入手の由来などを話してくださる時の表情は嬉々として正に法悦の境地にあると思われた。こういう時を持てるということが人生においてどんなにか大切で必要なことであるかも教えて頂いた。

 お店の二階が大形家具の置き場で、それまで見たこともないような大きな一枚板の座卓などがありさまざまな材の見事さには伺うたびに息を呑んだ。なかでも最も目を見張ったのは巾1mを越す松の一枚板で、その大きさもさることながら、あんなに"やに"の多い木がどうしてこんなにすべすべして白い美しい板に変身してしまうのか未だに信じられない。この板は主も大変な自慢の種のようで小生が感嘆の声を繰り返し発するのをむべなるかなと言わんばかりの面持ちで極、満足そうにみやっていた。

 計画から長い年月を経てようやく開通した安房トンネル。さてこれから楽に高山詣でが出来るぞと張り切っていた矢先、その主は天に召されてしまった。
     


  

  
<第17回>

 戦国時代、飛騨を取り巻いては甲斐の武田、越後の上杉、越前の朝倉、美濃の斎藤、尾張の織田といった大名が割拠しその抗争はこの山奥にも波紋を広げた。こうした状況のなかでいち早く飛騨の統一を目指して勢力の拡大を計ったのは三木である。天正10年頃には白川郷を除く飛騨一帯はその支配下に入ったといわれるが、それも長くは続かず、天正13年秀吉の命を受けた越前大野城主金森長近により滅ぼされてしまった。長近がこの地を支配したことが今日の高山の基礎を築いたのであり、またその支配が木とも深い繋がりがある。

 長近は都振りの粋人で城下町を築くに当たっては京のつくりを模した。町の東に連なる丘陵の裾を東山と名ずけ、多くの寺社を配し、上、下それぞれの一之町、二之町、三之町には古く立派な町家や土蔵が当時の面影を遺し、現在小京都を名乗る市や町のなかの筆頭である。因みに本県の小京都は飯山、松本、飯田でたくまずして北、中、南に位置している。
金森治世六代100年余、元禄5年(1692年)飛騨の山林の豊かさに目を付けた幕府は金森を出羽の国上の山に移封し、以後飛騨を直轄地(天領、幕領)とした。これにより、武家屋敷地は町人地へと転換していき、高山は町人の町として繁栄することとなる。

 飛騨の裕福な町人達は、豊富な森林資源を背景にその財を惜しげもなく建物の造作につぎ込んだ。その旦那衆と呼ばれた町人達は高山の城下町建設で財をなし、それで両替屋等を営み、農民達が抵当にした土地で地主となり、また財政の逼迫した諸藩へも"大名貸し"を行いその利益は莫大なものとなっていった。しかし旦那衆は利益を上げる一方で町(民衆)へ還元する事も心得ていた。特に祭り屋台の建造には力を入れ、そのために巨費を投ずることで民衆の支持をとりつけた。屋台は後のものほど豪華となり、金森時代の京の雅と、天領となってからの江戸山王祭りの屋台の影響も受け、東西の文化を融合させてこの山あいの都は初めに長近が居城をおいた古川とともに独特の文化を発展させた。

 高山市の北隣が国府町でその隣が古川町であるが、古川の町も高山と同じ藩主のもとで高山に負けず劣らぬ歴史的な遺産を今に伝えている。古川の祭りは毎年4月19,20日に行われる気多若宮神社の例祭である。19日の夜半から20日の未明にかけて行われる日本三大裸祭りの一つ、起こし太鼓でそのクライマックスを迎える。この太鼓を見ているとまだ寒さの残るこの地の夜なのにこちらまで汗ばんでくる。屋台は9台、矢張り絢爛豪華である。

 古川では明治37年(1904)大火がありそれ以前に遡る建物は殆どなく、多くは大火後に建てられたものだが新築でも木造、切妻平入り屋根、真壁造りの伝統的な様式の建物が多い。

 古川の町を歩いていて楽しいのは"雲"と呼ばれる軒下に突き出た小腕(肘木)に施された装飾で、それを手がけた大工の名詞代わりという。"雲"は一般的に白く塗られたその装飾或いは小腕全体を指し、唐草、ひげあるいはたんに模様とも呼ばれている。"雲"の歴史は意外と浅く昭和29年頃、藤白徳太郎さんがつけ始めたものが古川大工の間に拡がり、その後競って形や様式を考えるようになって、大工は自分だけの"雲"を持つようになり、ある調査では355軒につけられていて、189種に分類されたという。古川は人口の割に大工の多い町で、殆ど町内の大工が家を建てること、また"相場くずし"を嫌う風土があり、施主も大工も相場(一定の基準)から大きく外れないように自主的に規制しているとのこと。高山とは違った意味で家並みが美しい。ここにも"木"を大切にする日本の建築が生きている。
   


  

  
<第18回>

 紀州漆器の根来塗りとの出会いを求めその発祥の地根来寺へも行って来た。
根来寺は新義真言宗の総本山でその歴史は平安時代に遡る。隆盛を極めた天正年間には住僧五千九百、僧坊二千七百、寺領七十二万石とその石高は大大名並であった。その勢力の強大な様は当時日本へ伝道に来ていたイエズス会の宣教師によって記されており、曰く、"一大共和国の如きもの"であり、"その仕事は絶えず戦いに従事すること"であった、と。これは正に中央政府に敵対して自主独立を貫こうとする闘う寺院であり、中央からみれば誠に癪に障る存在で、中央政府は色々と譲歩を迫ったようであるが、いつも拒否される憂き目にあっていた。

 その"共和国"の中で日常生活雑器としての根来塗りの什器類がせっせと作られていたのかと思うと、金やダイヤモンドのような主役ではないにしても、それらを巡って闘う現代のアフリカの国々がふっと頭をよぎる。
このような一大勢力は天下統一を目指す織田信長にとっては大きな障碍であり、天正4年(1576年)にこれを攻撃したが、遂に果たさず和を講じた。 その後天下人となった羽柴秀吉は天正13年、総攻撃をかけ、それによりさすがの大寺も大伝法堂以下の僅かの堂宇を残し一山ことごとく灰燼に帰した。

 根来山内で作られた漆器が、根来塗りあるいは根来ものと呼ばれていたのは間違いないが、後世その名声が大いに広まったためか、朱漆塗りを指してすべて根来塗りと呼ぶ傾向が生じたといわれる。本来は長く使い込んでいるうちに下地の黒が顔を出してきてそれがあの朱と相俟って何ともいえない色合いを呈し2色でありながら多くを語る塗面が人々を惹きつけて止まなくなる。根来塗りの定義はかくして甚だ難しいとされ、一応朱漆を主とした塗りで、それに朱と黒漆、朱と透漆の組み合わせも此れに含まれるということのようである。

 現在も根来塗りは各地で作られており根強い人気を得ているが、本来根来塗りは神饌具、仏具、飲食器、茶道具、文房具、武具等多岐に亘り、いずれにしてもそれらがそれぞれに所を得、長い年月を経てあのえも言われない朱と黒の混和が醸し出される。現在の紀州漆器が特に根来塗りを主にしている訳でもないし、予め連絡をとり然るべき品を揃えてくださるようお願いをしておいてから海南市の漆器会館へ行ったが陳列品は他の漆器産地のそれとそんなに違う様子もなかった。
かっての根来寺は大きな堂宇を連ねてきっと壮観を極め、その中のどこかで根来塗りがせっせと作られて日常の生活雑器として誰もそのうつわの存在を気にすることもなく時が流れていたのだろうが、運命の日を最後に莫大な数の塗り物は灰燼に帰した。

 緩やかな斜面に間を置いてゆったりと佇む堂宇の間を行き来しながら、"せっせと武芸に励む僧侶達"や、異国の僧をして"一大共和国"と言わしめたその寺がもし、今そのままの姿でここにあったらなどと夢想するとなんともいえず楽しかった。高野山が観光客でごったがえしている様をその後で体験しただけに、根来寺はいつも色々と想像を掻き立てるのに正にかっこうの寺である。漆芸をたずねての旅で訪れた浄法寺は偶々天台寺に住職の瀬戸内寂聴師がみえる日と重なり混雑していたので想像を掻き立てる舞台とはなりにくかった。しかし主不在の日のひっそりとした天台寺はきっと素敵だろうと思う。

   


  

  
<第19回>

 根来寺はもと大伝法院と呼ばれ新義真言宗の根本道場で興教大師覚鑁(かくばん)の開山である。その当時(現在は宗教的中立の点からあり得ないことであろうが)時の天皇の行幸を仰ぐことはその寺にとってはこの上もなく名誉なことであったばかりでなく天皇上皇貴族の参詣は堂宇の築造寄進やさまざまな高額の品々の寄進を伴ったから寺にとっては名実共に歓迎すべきことであった。

 弘法大師空海は819年(弘仁10年)高野山金剛峰寺を草創。然し835年(承和2年)その工事半ばにしてこの地で入定。その52年後、空海が草創を決意してから約70年にして密教諸堂伽藍が完成した。しかし何分にも海抜約900mの山中にありしばしば落雷により堂宇は焼失した。高野山金剛峰寺は現在の日本における最大の寺院であり最も多数の塔の林立する仏教聖地である。わが国における木造塔が、火災は別として、何故しばしばの大地震でも倒壊しないかは建築学上からも非常に興味深い事柄のようでそれについては幾多の解説考察の書がある。

 覚鑁は鳥羽天皇の信任が極めて厚くそれに対する高野山衆のねたみや教義上の対立もあって1140年に高野山を去り根来へ移った。多くの僧徒がこれに従い鳥羽天皇の手厚い保護もあってたちまちにしてこの地に大寺院が出現した。室町時代には足利氏の援助もあって寺は隆盛を極め戦国時代には寺院数2700,所領72万石、僧兵1万という巨大な勢力となった。
覚鑁はこの地に移って2年後に48才で亡くなっているので巨大化した根来寺を知る由もない。

 天正1年(1573年)信長は高野山に和州宇智郡の砦の撤去を求めるも拒否され、同9年には高野聖1383人を捕らえ京都や伊勢で殺害、高野攻めを開始。同13年秀吉が高野山に帰伏を求め高野攻めを仕掛けるも秀吉の寺領の返還などに相手が応じたため和議が成り以後秀吉はかなり高野山を援助した。他方根来寺に対しては同年3月和泉にあった紀州の防衛線である諸城を攻略し根来寺に向かった。しかし寺衆の殆どは秀吉軍の到着前に逃亡し、云われているような焼き討ちもなかったが何処からともなく出火し、大伝法堂、僧坊80等だけが残った。まだ老僧衆50~60人が残っており焼け跡へ出てきて秀吉に詫びたとのこと。秀吉も不憫に思い彼等を免じて食料などを与えた。この時焼失を免れた大伝法堂は秀吉がその後大徳寺に信長菩提のため天正寺を創建しこれに移築する予定で解体搬出されてしまったが天正寺の建立は実現せず、積み込まれたまま朽ち果ててしまった。その大塔の造りは堅牢で解体にはかなりてこずった由。時の学頭栄性は紀州徳川家の手厚い援助を受け文政4年(1821年)この塔の普請に掛かり同9年頃には完成したらしい。いずれにしても現存する唯一の中世の大塔である。徳川幕府も積極的に根来寺を支援したが信州出身の栄性は根来寺復興の為に尽力した人として知られる。

 この動乱の際、根来寺で漆工に従事していた工人達は多くが現海南市の黒江地区に逃れそこで漆工を再開した。現在の紀州漆器(黒江塗り、根来塗り)の始まりである。江戸時代は紀州藩の保護と豊富なヒノキ材を背景に一大漆器産地として名を馳せた。昭和53年指定の伝統的工芸品の条件として木地はヒノキ、トチ、クスノキ、ケヤキ、セン又はこれらと同等の材質を有する用材とすること とある。長野県も森林県であるが、木曽漆器の昭和50年伝統的工芸品指定の条件では、木地はヒノキ、カツラ若しくはトチ若しくはこれらと同等のうんぬんとあって具体的な樹種の指定では紀州、"木"の国の方が多い。全国22箇所の漆芸の伝統的工芸品認定産地のうちヒノキの指定が出てくるのは6箇所である。
    


  

  
<第20回>

 根来寺で目を瞠ったのは大塔と呼ばれる大きな多宝塔。かって石山寺で見たことがあるがそれよりは格段に大きく現存する中世の唯一の大塔。多宝塔は二層で下層が方形、上層が円形の塔を指すが下層の平面は一辺が三間。層塔(日本各地に残っている三重塔、五重塔やかって存在したといわれる七重塔や九重塔等をひっくるめてこう呼ぶ)が舎利塔(釈迦の骨を納める)であるのに対して多宝塔は必ず仏像を安置する。多宝塔の大形のものを大塔と称し平面の一辺が五間ある。歴史的には大塔が先に造られ多宝塔はそれの省略された形とされる。現存数4基。

 平安時代の初め空海、最澄の二大名僧が出て夫々高野山、比叡山に大寺院を建立するがその時高野の山中に根本大塔が出現する。それを始めとして全国に多宝塔が造られるがその分布は高野山から離れるほど少ない。身近な所では善光寺雲上殿が鉄筋コンクリート造りではあるが、大塔を別にすれば日本最大の多宝塔である。

 空海が金剛界曼荼羅図にある宝塔を基に構想を練り没後に実現させた高野山創建大塔は四度の焼失に遭いその姿は未だ明確ではないというが、天保14年(1843)に焼失したままになっていたのが昭和7年(1932)再建にかかり同12年に完成した。根来寺大塔でも巨大と思うのに根来寺の後、高野山で観光客の喧騒が去りそろそろ山上の霊気が蘇る頃その大塔に向かいあった。正に巨大な木造建造物であった。
こうしたいわば二階建て木造塔も構造的には面白い点が多々あるが、更に興味を惹かれるのは、上田市周辺に多く見られるような木造層塔である。

 根来寺大塔では他の大塔もそうであるように、上層の円柱が、断面が正方形である下層の立体に乗っかっているのではなくて、下層の立体の中にドーム状の構造物が入っており、そのドームが円柱に移行する部が亀腹(かめばら)と呼ばれる、漆喰で白く塗られた、四分円環のような部分である。だから大塔の基本的な構造はドームと円柱を組み合わせたものである。大塔の大きな、深い軒を支えるための木組みは層塔のそれと基本的には同じであるが根来寺大塔の場合はそれでも軒が下がるのを防ぐために4本の支柱が見られる。
巨大木造建造物といえば、平成12年4月29日の各紙は"出雲大社に高さ48mの本殿があった"と伝えていた。大林組が長らくプロジェクトチームを組んでこの件に取り組んでおりその過程は既に何度も出版されてきた。

 明治41~42年の"神社協会雑誌"上でその高さについて当時の建築(史)学の泰斗2人が数回に亘り論争を繰り広げ山本、伊東両博士とも高さ32丈(96m)説は疑わしいとして採り上げなかったが16丈(48m)説については伊東氏は常識的に考えられないとして否定。

 一方山本氏は東大寺にあった七重塔を造る為には高い足場を造ったのだから可能と主張。もう一つ山本氏が主張の根拠として引用したのが"口遊(くちずさみ)"である。これは源為憲(ためのり)が970年に書いた貴族の為の教科書で、当時の有名な事物を暗記する為の言い回しを集めてある。その中に"雲太、和二、京三"というのがあり、雲太とは出雲国城築(きづき)明神の神殿で、現在の出雲大社、和二は大和の国東大寺大仏殿を指し、京三は京の大極殿をいう。

 これは塔を除いた殿屋の高さだけの比較で、今回のこの巨大な柱の発見は出雲大社が木造高層神殿であったことを証明した。

   

 

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