<第19回>
根来寺はもと大伝法院と呼ばれ新義真言宗の根本道場で興教大師覚鑁(かくばん)の開山である。その当時(現在は宗教的中立の点からあり得ないことであろうが)時の天皇の行幸を仰ぐことはその寺にとってはこの上もなく名誉なことであったばかりでなく天皇上皇貴族の参詣は堂宇の築造寄進やさまざまな高額の品々の寄進を伴ったから寺にとっては名実共に歓迎すべきことであった。
弘法大師空海は819年(弘仁10年)高野山金剛峰寺を草創。然し835年(承和2年)その工事半ばにしてこの地で入定。その52年後、空海が草創を決意してから約70年にして密教諸堂伽藍が完成した。しかし何分にも海抜約900mの山中にありしばしば落雷により堂宇は焼失した。高野山金剛峰寺は現在の日本における最大の寺院であり最も多数の塔の林立する仏教聖地である。わが国における木造塔が、火災は別として、何故しばしばの大地震でも倒壊しないかは建築学上からも非常に興味深い事柄のようでそれについては幾多の解説考察の書がある。
覚鑁は鳥羽天皇の信任が極めて厚くそれに対する高野山衆のねたみや教義上の対立もあって1140年に高野山を去り根来へ移った。多くの僧徒がこれに従い鳥羽天皇の手厚い保護もあってたちまちにしてこの地に大寺院が出現した。室町時代には足利氏の援助もあって寺は隆盛を極め戦国時代には寺院数2700,所領72万石、僧兵1万という巨大な勢力となった。
覚鑁はこの地に移って2年後に48才で亡くなっているので巨大化した根来寺を知る由もない。
天正1年(1573年)信長は高野山に和州宇智郡の砦の撤去を求めるも拒否され、同9年には高野聖1383人を捕らえ京都や伊勢で殺害、高野攻めを開始。同13年秀吉が高野山に帰伏を求め高野攻めを仕掛けるも秀吉の寺領の返還などに相手が応じたため和議が成り以後秀吉はかなり高野山を援助した。他方根来寺に対しては同年3月和泉にあった紀州の防衛線である諸城を攻略し根来寺に向かった。しかし寺衆の殆どは秀吉軍の到着前に逃亡し、云われているような焼き討ちもなかったが何処からともなく出火し、大伝法堂、僧坊80等だけが残った。まだ老僧衆50~60人が残っており焼け跡へ出てきて秀吉に詫びたとのこと。秀吉も不憫に思い彼等を免じて食料などを与えた。この時焼失を免れた大伝法堂は秀吉がその後大徳寺に信長菩提のため天正寺を創建しこれに移築する予定で解体搬出されてしまったが天正寺の建立は実現せず、積み込まれたまま朽ち果ててしまった。その大塔の造りは堅牢で解体にはかなりてこずった由。時の学頭栄性は紀州徳川家の手厚い援助を受け文政4年(1821年)この塔の普請に掛かり同9年頃には完成したらしい。いずれにしても現存する唯一の中世の大塔である。徳川幕府も積極的に根来寺を支援したが信州出身の栄性は根来寺復興の為に尽力した人として知られる。
この動乱の際、根来寺で漆工に従事していた工人達は多くが現海南市の黒江地区に逃れそこで漆工を再開した。現在の紀州漆器(黒江塗り、根来塗り)の始まりである。江戸時代は紀州藩の保護と豊富なヒノキ材を背景に一大漆器産地として名を馳せた。昭和53年指定の伝統的工芸品の条件として木地はヒノキ、トチ、クスノキ、ケヤキ、セン又はこれらと同等の材質を有する用材とすること とある。長野県も森林県であるが、木曽漆器の昭和50年伝統的工芸品指定の条件では、木地はヒノキ、カツラ若しくはトチ若しくはこれらと同等のうんぬんとあって具体的な樹種の指定では紀州、"木"の国の方が多い。全国22箇所の漆芸の伝統的工芸品認定産地のうちヒノキの指定が出てくるのは6箇所である。