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私の”木”遍歴
  
第21回~第30回

 

 

  
<第21回>

 出雲大社の創建を古事記や日本書紀、出雲国風土記などの奈良時代の文献は神代にありとし、大化の改新をその終りとする古墳時代までにこの社は出来上がっており、すでに奈良時代には創建が非常に古いこと、神殿が特大であることの二点は周知の事実とされていた。
出雲大社千家國造家(せんけこくぞうけ)に伝わる、大社本殿の平面図"金輪の造営の図"は今回の巨木3本を束ねた直径3mの柱の発見により本殿の柱の配列はその図面どうりと判断されるにいたった。

 この大社の本殿は平安時代の中期から鎌倉時代の初期にいたる200年余りの間に7回も倒壊している。これは本殿がいかに高く、いかに不安定であったかを物語っている。加えて大社のある地域は地盤が非常に軟弱でそのため100mもある階段部分の地盤の弱さから沈下を起こしそれに引きずられるように高い高い本殿が"明らかな理由もなく"倒壊したと推定されている。
色々な考証によるとこの本殿からは海に向かって長い長い橋がかかっており、これはこの社に鎮まります大国主神がその橋を渡って海へ遊びにいかれるためとのこと。神代の時代には今の大社のある所は島であったようで地形の変化が激しく国引き神話の舞台になった土地でもある。その橋は引橋と呼ばれ推定、長さ約109m、170段あったといわれる。

 創建当時よりはかなり小さくなったとはいえ東大寺大仏殿は世界最大の木造建築物である。われわれの先祖は木を用いてよくもこれらの巨大建造物を造ったものとただただ驚くばかりである。

 さて上田及びその周辺は層塔に恵まれている。長野県には由緒ある塔が京都奈良以外の地域では多いほうで、特に東信地区に集中しており、なかんずく安楽寺の八角三重の塔は現存するわが国唯一の木造八角塔であり五重塔こそないものの木造層塔の観察には事欠かない。

 全国の塔は311基、内 多宝塔は118基、三重塔133基(内国宝13、重文43)、五重塔38基(内国宝11、重文27)、十三重塔1基である。わが国の木造塔は中国にその起源を持つが現存するかの国の木造塔は僅かに1基しかなく、韓国も同様の由。インドで起こったスツーパが塔の原初でそれが層塔へと変化を遂げ中国でもガンダーラでも塔は盛んに建造されたようであるが、戦火が絶えなかった中国では木造塔は標的ともなって破壊され、火災の犠牲となって永続性がないことから次第にその材料は石や?(せん 粘土でつくり、素焼きして瓦や煉瓦などに加工したもの)へと変わっていった。

下り列車が京都駅へと入って行くすぐ前に窓から東寺の五重塔が目に飛び込んでくる。現存する日本最高の塔であり54.84mある。塔は木による高層建築であり、中国と韓国に僅かに残るのを除いては世界に例のない建造物である。特に上田地区には多くの塔があり見慣れた我々にとってはごく当たり前の風景であるが、塔は城郭とともに日本人は勿論、外国からの旅行者を魅了して止まない。この地区の塔は一般的な構造とは異なるものがあり、前山寺の塔は初層に四天柱、心柱がないし、新海三社神社の塔は二層以上にも四天柱がなく、大法寺の塔は四天柱に相当する柱は2本しかないなどである。城郭も本体は"木"であるとしても"木"の占める割合からすれば塔には遥か及ばない。

 塔の構造を少しでも理解するとその絶妙かつ繊細な仕組みにはただ驚きと感動あるのみである。多くの日本人が塔を当たり前の構造物としてしか見ていないのは残念であり外国からの客人にもその驚くべき構造を説明できないのは当たり前である。

   


 

  
<22回>

 層塔の構造を知って驚く一番はその心柱(しんばしら)についてであろう。あの心柱は塔を支えてはいない。それどころか、働く力の向き、大きさによってはゆらゆらと動くという。心柱はあの塔の最上部に立つ装飾性の高い、しかし塔の持つ宗教性の根本を示す構造物(こればかりは木ではないが)である相輪を支えるためにのみある。

 世界最古の木造建築物である法隆寺、その法隆寺の五重塔の心柱は掘建て柱(直接地中に埋めた柱)であったため1300年もの間に朽ちてしまい基礎の部分は宙ずりである。腐食によるばかりでなく塔によっては心柱が初めから吊り下げられているものすらありこれらを見ても心柱が塔を支えてはいないことが理解できる。

 では塔はどうして倒れる事もなく立っているのか?
それは支柱があるから! しかしその柱は初重(一階)から最上部まで貫いてはいない。何故なら強度の均一な長い木柱を多数確保することは不可能である。継ぎ足して補強しても荷重には耐えられない。鉄筋コンクリートや煉瓦であれば同一平面の立体を造ることは容易であるが長い柱を確保できない木にあっては高さに応じて床平面の逓減(少しずつ減少すること)を計るしかない。その結果、心柱の外側に立てられる四天柱(してんばしら)、と更にその外側で建物を支える側柱(がわばしら)、は何れもその階どまりである。層塔をみると初重から二重、三重と重ねる毎に平面が小さくなって行く(逓減)。だから初重のできるだけ外側に柱を立てた場合、それが垂直であれば逓減により上の階では建物の外へでてしまうことになる。という訳で層塔は箱の積み重ねであり、それを補強するためにさまざまな材や支持装置によりそれらの箱を固定している。

 各重から延びる大きな軒の重みはかなりなものになり軒は常に下がろうとする。それを防ぐにはその基部で固定しなくてはならない。そのため軒を作る骨組みとなる材(垂木 たるき)の基部に四角な枠をのせ、その上に上重(じょうじゅう そこより上の階)の支柱を載せてゆく。このいわゆる"天秤"効果により下がろうとする軒はおさえられ、軒の重みが上重を持ち上げるように働いて下重へかかる重みを軽減してもいる。

 層塔に地震波が作用すると各重(階)はお互いに反対方向への動きを示すという。初重が東へ動けばその上は西へその上は東へという具合である。この動きにより地震のエネルギーは相殺されて減弱し、又 塔を支えている細かな組み物が地面から上に向かうエネルギーを吸収する。これも木造ならではの特性とされている。塔の持つ高い耐震性を昭和35年に開かれた第2回世界地震工学会議で棚橋博士は以下のように要約された。

1)塔は、一般の構造物に比べて、極めてゆっくりと揺れる。
2)塔、は単位面積当たりの木材使用量が非常に多く、水平力に対する抵抗が大きい構造になっている。
3)塔、は変形に耐える極めて大きい性能を持っている。
4)塔は、木の組み物が特徴的であるが、これが振動を緩和する性質を持っている。

 木造層塔は正に木の特性を生かした"柔"構造である。阪神大震災の後、改めてこの"柔"構造に注目が集まり地震国日本では鉄筋コンクリートの高層建造物をいかにして地震から守り倒壊による二次災害を最小限に食い止めるかが果てることのない課題である。木を用いた建造物では層塔がその極致であり単に日本のためばかりではなく地球上のさまざまなかけがえのない大切な文化(財)の一つとしてわれわれもそれをよく理解し外国の人たちにもその絶妙な造りを説明できればと思う。
 


  

  
<第23回>

 これまで層塔で地震により倒壊したものはないといわれ、塔を建てる職人の心意気は幸田露伴の小説 "五重塔" にもえがかれているが、層塔は言うなれば 緩く固定された箱の積み重ね であり、現在よく使われる表現の"柔"構造をもつわが国が世界に誇れる建造物である。
歴史上、多くの塔が戦火で焼失し、また明治に入っての廃仏毀釈により多くが取り壊されたが、それにもかかわらずこの地震国で建造以来千年を超える木造塔が残っているのは素晴らしいことであり、われわれはこの貴重な文化財を大切に保存して後世に伝えねばならない。それもできればその構造をよく理解しての上で、である。

 ここでも"木"の特性が遺憾なく発揮されている。"木"は他の剛性の高い高密度の材料に比して捻りに強くこれが素晴らしい耐震構造を生んでいる。何年か前、あの有名な室生寺の塔が台風で倒れてきた木により損壊され塔に関心のある人たちをはらはらさせたが、確かに大木に取り囲まれて立つ塔には二次災害的な被災の危険が常にあることをこの件は教えてくれ、警鐘を鳴らしてくれた。

 中国に現存する木造多層塔は巨大な建造物というがこれは底面積を大きくとることにより安定性を増し倒壊を免れているのであり、わが国の多層塔がさまざまに考案された組み物を駆使して柔構造を取っているのとは根本的に異なると理解され、中国でも原初の塔は木造であったのであろうが絶えない戦火で相次いで焼失してしまうことから石造塔へと変化していったものであろうか?

 これも何年か前アメリカからhome stayをされたかなりお年の男の方がいた。日本の歴史を勉強してらして、車で県内の古い社や塔を案内したが、あちらこちらにある火の見櫓に大変に興味を示されて、色々と質問され、自分の不勉強を恥じた。国際交流の基本は外国を知ることではなくて、先ず、自分の国、郷土に関して必要かつ十分な知識を持つことから始まるのではないかと自問した。その方は"続日本紀" とか"えみし"とかを口にされ、まるでこちらの知識が試されているようであった。 "続日本紀"などはその名前すら知らない日本人が大多数ではないかと思う。 爾後、その方面の書籍を揃えて勉強中である。今は古代史ブームで記紀、続日本紀の時代といってもよいほど、人々の関心がそちらへ向いているようで良い風潮だと思う。だからその気になれば、その方面の良書がいろいろ刊行されている。

 国際交流の基本は異文化を積極的に理解し、自分の国、地域の文化をまず自分が理解して相手に理解をして貰う努力を欠かさず、その結果として相互理解を深め、お互いを尊重してよりよく共存を図り国際平和を達成することと理解しているが、残念ながら現在の初等教育では自国や郷土の文化に関する時間が少なくて、外国の方にいろいろ尋ねられても殆ど説明できない場面を生むことになる。

 せんころ、大英博物館展を見に行った時のこと、後ろで大学生と思しき女性の2人連れが"やっぱり(日本とは)スケールがちがうわねー"と口にしていた。目の前にあるのは世界を席捲していた頃、その力に任せてギリシャ、ローマなど他国から収奪してきた品々である。
大英帝国の歴史の一面ではあろうが、これはその国の文化とはいい難い。文化とは先人たちが営々として築き上げ有形無形、何らかの形をとって後世に遺したあるもので普遍性よりは国、民族、地域特異性の高い、あるものであると思う。この女性達は恐らく正倉院を、日本の塔の完成された姿を、蒔絵をしらない。原初は模倣であってもそれを消化し、殆ど異質なものといっても良いほどに形を変えたものは最早その国の文化と呼んでよいと思う。
   


  

  
<第24回>

 わが国に仏教が入って来てきらびやかな仏像や、朱や緑に彩られた木部と白壁よりなる伽藍は当時の人々を大いに驚かしたようであるが、塔は名実ともにその伽藍の中心であった。何故なら寺院の信仰の中心的対象である舎利は相輪の基部に納められていたからである。その後舎利は塔の心礎に収められるようになっていったが、いずれにしても、塔の内に舎利があることに変わりはなかった。
塔は日本の木造建築の精華と評価されているが、多くの塔が戦火を含めた火災により、また高い山中の塔にあっては落雷によりしばしば焼失した。しかし、人々は執拗にそれらを再建した。伽藍の中心的存在であるから当然というだけではなさそうである。
 
 洋の東西を問わず塔はより高きを目指す人の精神の高揚を表わしているとみなされ、それ故それが様様な理由により焼失、損壊した時はそれの所有者である寺社のみでなくそれを朝な夕な眺め信じできた人々にとっても日常のなくてはならない存在として、再建は当然のことであった。

 塔が生の高揚を表わすという考えに対して哲学者、梅原猛はこう考察する。"塔には生への意志とともに、死への省察が含まれている。限りなく上昇しようとする強い生への意志と、それにもかかわらず、人間を根源的に支配する死の意識が、すべての塔の中で、はげしく戦っているのである。この生と死の戦いは、人間存在を構成する基本的なものなのである。 われわれは、塔の中に生と死の争いを見る。そこで生が死にいかに勝ち、あるいは死がいかに生を制し、あるいは、生がいかに死と親しんでいるかという、人間存在の根源にかかわる知恵が示されているのをわれわれは見る"だから塔を単に究極の木造建築などと安易な目で賛美していてはいけないのである。

 さて現存するわが国の木造塔205基の分布をみると全くないのが北から、北海道、岩手、宮城、群馬、山梨、三重、鳥取、高知、佐賀、長崎、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄である。
塔の多い順に、京都26、兵庫22、岡山19、奈良18、愛知12、和歌山11、そしてわが長野県の10基であるが、本県ではその内9基までが東北信にあり、特に上田地区に集中して4基あり、いつも塔を眺められる地区に住んでいる人は深い哲学的考察を抜きにして、ただそれが昔からそこにあったという認識だけであっても幸せである。

 過日のNHK Specialで、岡山県の山間のある集落に胴回り9m、高さ18m、樹齢1000年という桜の巨樹があり住民は全10戸の24人で姓は全て"春木"さん、どの家からも見ることができる位置にあるこの巨樹がいかにここの人々の日常と関わってきたか? 現在は? 未来は?というルポを放映していた。今のように過疎ではなかった時代の方が長かったと思うのでこの1000年余の間にどれほど多くの人がこの木の"いつもと同じ春"をそれぞれの思いで見遣って過ごしてきたかを思うと、この1本の木が人々の生に与えたものは有形無形膨大な何かであると興味深かった。

 日本古来の宗教である神道は多神教であり今でも巨樹信仰は健在である。それは巨樹には注連縄が張ってある場合が多く、場合によってはその傍らに祠が作ってある場合も少なくはなく、日本人は人々のそのような巨樹に対する接し方をみても誰も違和感を覚えないと思う。それは即ち自身もそれを是としている証拠であり、われわれは何か大きなものには神性を感じ、それを称え、なにかの折にはそれに対して願い事を打ち明け、感謝を伝え合掌しまたは頭を垂れる。
 
 大きな建物が立ち並ぶ都会の混沌とした中に今にも押し潰されそうに小さな社がありそこにけやきのような大きな木が辛うじて生き延びているのを見ると、本当に救われた思いとその木その社に思わず手を合わせたくなる。それは何時も木々に囲まれた田舎に暮らしているからというだけではなく、木がわれわれの心の深奥に迫る何かを発散しているからだと思う。
            


  

  
<第25回>

 全てのものに神が宿ると信じてきた日本民族にとって、巨樹はその代表的な存在であった。
1998年に当時の環境庁が巨木を定義した。それによると、地上約130cmの高さで幹周りが300cm以上の木とある。その高さで幹が複数に分かれている場合はそれぞれの幹周りの合計が300cm以上あり、かつ主幹の幹周りが200cm以上あるものとされている。
日本全国の巨樹は55,798本、しかし調査不能地などで計測されていない巨木が約68,000本あると推定され、合計124,000本以上の巨木が日本に生育していることになる由。
樹種別の本数の順位では、スギ、ケヤキ、クスノキ、イチョウ、シイノキ、タブノキ、マツ、カシノキ、ムクノキ、モミ、エノキ、サクラ、カヤ、ヒノキと続く。ことに一位のスギは二位の8,538本にたいして13,681本と桁が違う。

 長野県は森林県であり里でも、山に入っても巨樹に出会う機会は多い。 巨樹研究家の牧野和春は人と木(巨樹)の関わりを次の5つに纏めている。

1)自然木のまま巨樹となり、人知れず大自然の中で枯死してゆくもの。 
2)自然のままではあるが、人間とのかかわりを持つことにより、人のくらしになんらかの機能を有するもの。 
3)用材として建造物や橋など、人間生活に役立っているもの。 
4)人間の芸術表現上の対象として写真、絵画、エッセイなどのモチーフとして生きている観念上の巨樹。
 5)神秘なるもの、聖なるもの、ある場合はデモーニシュなものとして人間の意識や深層心理上に蠢き、生きている巨樹。

 巨大なものを日常目にするという点で、塔と並び城郭がある。これはその存在意義が塔とは全く異なるから哲学者といえども、この建造物に対して精神性を与えることは難しいと思う。松本で過ごしたのは約25年であったが、住まいが松本城の東で市街地の外れのあたりにあった。今の様に高い建造物は殆どなかったから、城は何時でも二階から遮るものもなく見遣ることができた。しかも高校が城を挟んで市街地の北西の丘陵地にあったから、3年間は否応なしに城のすぐ下を通ることになり、太鼓門から入り北門へ抜けて登校した。本当に贅沢な通学路であった。

 それと創建当時わが母校はお城のすぐ近くにあり、運動場はお城の中庭であった。だから野球部の応援歌の一節に"天守閣まで打ち上げろ"と当時の状況が今に伝えられている。
また、お城が明治初年、廃仏毀釈のあおりを受けて5円で売りに出た時、母校の初代校長等が私物とはしないで長く大切に保存すべきという運動を起こし、松本城の築城以来最大の危機を救ったといういきさつもあり、お城の存在は私達の心に一般市民におけるよりは色濃いものがあると思う。
さらに個人的には私の先祖は廃藩置県まで松本城出入りのくすしであった。だから今でも父方の親戚は歴代の城主を松本様と呼んでいる。そして父の卒業証書には氏名の上に士族と書かれてあった。

 上田へ転じて、塔はいくつもありその点ではとても嬉しかったが、自宅からは少し離れていて何時も目に入るという立地ではない。また松本では城とその背景に連なる常念山脈や少し高みからは目に入った日本アルプスの本峰の連なりも上田ではなくなってしまい、それから高きを求めて山歩きやできる限りの塔巡りが始まった。精神性などという高尚な動機はないが、日常高いものを目にして育つとそれがない環境は何時も何かが欠けているという思いがあり、それを満たそうという欲求が、それと意識した訳ではないが頭を擡げてきた。だから松本に居れば山も登らなかったかもしれないし、寺社巡りもしなかったかも知れない。その点でも上田へ転じたことはささやかな人生をある程度豊かにしてくれ、高きものがわが人生を変えてくれた。 
   


  

  
<第26回>

 今、「里山」の見直し、復活を巡る議論が賑やかである。
広辞苑によれば「里山」とは"人里近くにあって人々の生活と結びついた山、森林"とある。
最近「里山」に関して大著を表わした有岡利幸氏によると、「里山」の語の使用の最も古いものは宝暦9年(1759)6月の名古屋徳川藩の"木曾御材木方"という文書の中という。木曾地方における山林の名称を掲げて解説しており、「里山」の熟語は御留山、御巣山、御留山御巣山、新囲、明キ山、草山に次いで6番目で、その解説は「村里家居近き山をさして里山と申候」などとあるとのこと。

 「里山」に対して「奥山」があり、かくてわが国の山は大きくこの名称で二分されることになる。
かって黒部川の下の廊下を遡行した時、その水平歩道の脇に関西電力が、送電線の鉄塔を立てるために国有林を借用している旨を記した標識が鉄塔に付けてあり、そこに「黒部奥山」とあったと書いたことがあるが、この「奥山」は黒部に連結されて、最早固有名詞と思う。なぜなら越中藩の中に奥山見回り役があってそれは黒部を指していたからである。あそこまで入れば奥山も奥山、それこそ命がけの奥山である。

 子供の頃は里山に囲まれて育った。家の裏からすぐ山になり、そこから流れ出るせせらぎは夏もことのほか冷たく長く手を入れていられない程であった。山葵が自生しており何時も香辛料の一つとして利用された。山と反対の方にはすぐの所に川があり、カジカを捕るのは本当に楽しかった。岸に近い流れの極めてゆっくりとした所で息を殺して石を持ち上げる。その石をそっと置いて、その時逃げられなければ、さっと両手を伸ばして掬い上げるようにして捕まえる。しかし相手は素早い。難なく捕まえられそうに見せかけてさっと砂を濁して消えてしまう。

 流れが深くなって淵をつくっている所では、上から岩魚が何匹も回遊しているのが見えた。
釣りの得意な里人からはよく囲炉裏で燻製にした岩魚を貰った。寒冷地だったから米はあまり取れずそば、ひえ、あわは大切な主食であり、白米は"はれ"の時のお御馳走であった。既に禁止されていたと思うのだが、渡りの季節にはつぐみやあとり等がいただきものとして食卓に上がった。また、殊に冬、罠で捕られた野ウサギの肉もおいしかった。

 冬は猛烈に寒く子供も大人もあかぎれ、しもやけから逃れることはできなかった。そんな時大事な"くすり"は熊の脂だった。子供の片手にはのらないくらいの大きな四角に切ったのを毎日朝に夕に患部に塗りつけた。勿論猟師からの戴きものであった。 
家の前、道を挟んでゴヨウ松の大木があり大きな球果をいっぱいに付けた。その水滴を押し潰したような形(倒卵形)の種子はとても香ばしく子供にとっては自然が与えてくれた大事なおやつの一つでもあった。この木は大きなものでは高さ35m,直径1m位にもなるというが兎に角そのすくっと直立した幹の先の方は幹に張り付くようにして上を見ても互い違いに出て行く枝で見透せなかった。数年前高山市の馴染みの山持ちの家具店で幅1mはあろうかと思われる松の板を見せて頂いた。そのお店へは何年も通い、さまざまな顔付きの欅には何度もお目にかかったが、やにがすっかり抜けて際立って色白の松の巨大な板を目にしたのは後にも先にもその時だけであった。やにどころか粉をふいたようにすべすべで、これが盆栽や庭木で複雑な枝振りを発揮して主の自慢の種となる松の仲間かとなかなか信じられなかった。今は故人となられた、骨董の方でもかなりの目利きとして名をなしたその店の主の風貌を思い出す度に、また、そこから頂いた家具類を見る度にあの松のすごい板は今ごろ何処でどう使われているのかなーと気になって仕方がない。
     


  

  
<第27回>

 「里山」は、そこに暮らす人々と密接に関わった環境でありヒトはその一構成員であるがしかし主役を担ってもいる。つまり「里人」の意識、認識如何で「里山」ができたり、崩れたりもする。
 
 同じような地理的環境であれば、諸外国にも「里山」はありうる訳であるが、山からのきれいな水がありそれによる水稲栽培が行われており、近くに森林があり、ということになると日本のように余り大きくはない地域に構成要素がうまく揃っているという所は余りないことになってしまうらしい。私が子供の時過ごした山里も水稲栽培がなかったわけではない。ただ寒冷地で現在のように品種改良が十分効果を上げてはいなかったから、稲作に関しては労多くして実りの少ない地域であった。色々な虫達が沢山にいてマムシも人里で見ることも稀ならず、ヤマカガシに到ってはありふれていて蛙を丸呑みしてあの長い胴の一部がぼこっと膨れていたり、がさがさっと音がしたと思ったら足元を悠々と通り過ぎて行くなどは一寸山へ入れば極普通の事であった。またカラスヘビというその名のとおり黒っぽいドレスに身を包んで粋で小柄な貴婦人然としたのもよくいた。

 少し入った山の中の沼沢地には大きなガマがいてこれも全然慌てる風もなく、毒々しく一寸他にはないような配色の重苦しいドレスを纏った出で立ちでのそりのそりとあるく様はとても貫禄があり相手が子供だからと馬鹿にされているようで、彼等の方がヘビよりも余程不気味であった。毒々しいといへば配色の多様さで蛾や蝶に及ぶものはないであろう。殊に蛾である。昼間木立の疎らな草地を歩いている時など突然目の前に大きな派手な色合いののがばさっと落ちてきたりして本当にびっくりさせられた。人を驚かせる為にやっているとしが思えない。という訳で子供にとっての里山は肝を冷やすことの少なくはない、必ずしも快適な場所ではなかった。

 さて我々は「森」と「林」を漠然とは区別している積りであるが、「林」とは殆ど同じ樹種で構成され、林冠もほぼ揃って育っている樹木の集団、植生を総称し林業用語では単層林という。だから例えばブナの純林などという訳である。一方「森」の方は林の上にもう一つ突き出た樹冠をもつ樹木が生育している状態で林業用語では複層林という。
「森林法」では、「森林」とは「木竹が集団をなして生育している土地及びその土地の上にある立木竹及び木竹の集団的な生育に供される土地」である。そして「里山」は「森林法」では「森林」である。 だからそこに、又はその近くに集落があろうとなかろうとそれは問わない。けれども「里山」とは"集落と接し、里人と生活を共にしている山"を指すから人が住んで居なければ「里山」とはいえない。

 平成13年10月、環境庁は絶滅危惧種が5種以上生息する地域のうち、動物で49%、植物で55%が里山いるとの調査結果を発表。また調査ではメダカの69%、ギフチョウの58%、トノサマガエルの62%、オオムラサキの55%が里山に生息していた。その里山はわが国土の約40%を占める。

 色々な本に「里山」は最近の造語であるかのように書かれているが、事実は既にあった語の復活である。その語が初出する「木曾御材木方」では、総体的に里山では、木の生立が悪く、地際より一間ほど上より枝が多いため、御材木等にはできない。前々より里山の内には百姓自分控えと称し、その持ち主の他は屋作木、薪等も採らない場所があった。ところが、享保9年(1724)より百姓控えというさだめでは木曾表では古来より無しとの由の御吟味を以って、御引き上げにあいなった。即ち一統の明け山(江戸時代、藩の管理する山林のうち、住民に利用採取を許した山。逆は留山)となった。
   


  

  
<第28回>

 前々回、高山で見た松の大きな一枚板にふれたが、最近、偶々松を用いた家具の展示会があった。
「信濃の国 森世紀工房」という団体があり、初めて耳にする名前であるが、正式名称は「長野県建具協同組合開発事業部」という。そこが主催で軽井沢で2日間だけ展示即売会があり、その時、これも偶然、以前上田にもいたNew Zealandのオスカーが9年振りに来ていて、国では家具の設計製作をやっているというので同道した。
旧軽井沢の真中にあるあるホテルのロビーを借り切っての展示であったが結構賑わっていた。

 今年の主題は"マツ"で、椅子やtableが多かったが戸棚などの箱物もあった。現在では材質を損なわないでヤニを抜く技術も進み加工する上でもたいして問題はないらしい。一般に「マツ」は世界中に分布し、人類にとって最も身近な木の一つである。例えば林道などを作るとき山を切り崩すと最初に生えてくるのがマツで、人が山に入って土砂を切り崩すと天然更新でマツがどんどん生えてきてマツタケが沢山採れるようになる。今日本のマツはマツクイムシの被害で危機的状況にあるがこれも一つには人が山に入らなくなったためとも言われている。好ましい里山を作ることがマツタケを増やし、マツクイムシを減らすことにつながるようで、青木峠の山のように汚らしいビニール紐で囲って留山だから入るべからずとやってもマツの木の更新を図らなければマツタケは採れなくなるばかりではないだろうか? 

 マツは人が切り出した後、きちんと手を入れてあれば大径に成長し、強度があって粘り強く、欅に次いで密度が高い。つまりめり込みにくいしつぶれにくい。そのため、寺社、城郭などの大きな建造物ではマツは多用されており、その補修のための大径の材の調達が文化財の維持管理の点から現在及び今後の課題のようである。なお、長野オリンピックのために作られたM-Waveはカラマツの集成材である。また、国宝 松本城の天主1,2階の主要な柱は殆どがマツという。
この展示会はオスカーにも色々と参考になったようで、無形のお土産となった。

 私がこの会(団体)を知ることになったのは、約一年半前の信毎に伊那のAさんという建具屋さんが里山の木64種をその引出しの表の面に用いて薬箪笥を作った、と載っていて、その後Aさんを尋ねて行き色々と教えて頂いた。そのAさんがこの会(運動)を積極的に進めておられる方で、今回の展示会のお知らせを頂いた次第である。

 当然のことながら、建造物の材種もその時々で変化するのは言うまでもない。なによりも我々の日常生活でも使っている器具の材料の変化はより顕著でかっての木の文化はプラスチックに駆逐されて久しい。

 平成10年夏、高岡漆器を見るため富山県高岡市へ行ったが丁度その前の年の12月に、加賀藩二代目藩主前田利長の菩提寺である瑞龍寺が富山県としては初めての国宝に指定された後であった。
利長は高岡に築城しこの地で亡くなったが、利長より加賀百万石を譲られた義弟三代利常は深くその恩を感じ、約20年の歳月をかけて利長の菩提を弔う瑞龍寺が1663年に完工、寺域3万6千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭を彷彿とさせるような大寺院であった。しかし1746年、浴室より出火し山門、禅堂等を消失したが約4年程で復旧した。国宝仏殿は総欅造りで名工山上善右衛門が最も心血を注いだ力作の一つといわれ堂々とした見ごたえのある建物である。一方、国宝法堂は総檜造りでこれも仏殿同様単一材の建造物としても見れども飽きることがない。しかし第二次大戦後の農地解放によりこの寺は3万6千坪あった寺域のうちなんと3万坪を失った。

   


  

  
<第29回>

 又、正倉院展の季節が巡ってきた。ありがたいことに昭和62年(1987)の第39回公開以来欠かす事なく毎年拝観に奈良へ行くことができている。以前は往診先に重症の患者さんがいるとどうしようもなかった。開催期間中に大体3回の日曜日と文化の日を加えて行くことが出来る日が4日はある。その間どこかである1日が緊急医に当たっていたとしても3日はある。初めの何回かは奈良へ日帰りした。朝早く松本まで車で行き6:59発の"しなの"に乗れば11時頃には奈良へ着き、少し前までは近鉄特急に車内販売があったから柿の葉寿司を求めて昼食とし、丁度食べ終わる頃奈良へ着くので、直ぐに国立博物館へ急行しゆっくりと観て、そのあと近在のお寺を巡って奈良を夕方の5時頃発てば10時までには上田へ戻ってこれた。
その後家内も行くと言い出し、又、折角奈良まで行くのに日帰りはいかにももったいないということになって、休診にして一泊ないし二泊で行くようになった。

 正倉院のすごさは、数え方にもよるが、約9000件といわれる宝物の収蔵と、更には量よりその中身である。可燃物である木や紙、布、皮、そして木を初めとする植物繊維等を素材とする品々が"鮮度"良く保存されていることは世界に比するものがない。しかも全ては伝世品であり土中(地中に埋もれる事)していた品ではない事である。墨痕鮮やかな文書、時の東大寺別当良弁等という自署、写経生たちが疲れたのか戯れに書きあった落書き等も生々しく1250年も経っているとは思えない。これこそ真のtime slipと言うべきであろう。

 万葉集を全部通読した時、一大歌集であると同時にこれは歴史書でもあると実感したが、それは文字を通しての理解または推理である。ところが正倉院の品々となれば全ては多弁に語りかける物であり、知識を持って臨めばその語りは尽きるところを知らない。 諸外国の見学者も多く、この展観は他の多くの博物館、美術館以上に大きく国際交流に寄与している。よく正倉院はシルクロードの終着駅と云われるが、舶載の品もあれば、国産の品もあり、未だその何れとも結論のでない品も少なくないようであるが、遠くシルクロードを介する交易に関わった国々と、それを受け止めた東の最果ての地、日本における外来文物の実態とそれを摂取して自分の物にして行こうと励んだ日本文化の揺籃期の姿が生々しく迫ってくる。

 現在は宝物は耐震耐火、至適な温度湿度の調節がなされる現代の校倉造りとも云うべき新収蔵庫に入っており、本来の正倉院はその意味ではその役目を終えた。新宝蔵は鉄筋コンクリート造りで東西二棟、東が昭和28年、西が昭和37年にそれぞれ完工。しかし本来の正倉院の建物自体が無二の宝物であり、現在は常時開放ではなく、彼方からしか眺められないが、未だ自由に近づけた頃その建物の1200年を経た柱に触れ、頬を寄せ、その高床の下を自由に歩き回る事が出来た時代があり、そのようにした。間口33m、奥行き9.3m、総高14m、床下の高さ2.4m、檜材による寄棟造り。40本の円柱が高床を造って宝庫を支えている。その円柱は別に加飾はしてないし、建立以来補充はないといわれるから、削り跡も生々しく、これらが1200年間の時の流れをじっと見詰めてきたのかと思うと感激する。時に宝物を持ち出した為政者もいたり、武器が足りないからとここから武具を持ち出した武将もいたり、名香木蘭奢待を密かに削り取って行った高官がいたり、生々しい時の流れの裏を静かに見ていた1200年前の檜がここにある。あの檜特有の香りは表にはでないが、多くの宮大工が証言しているように、柱の内部には芳香を秘めているに違いない。
 
 何時も思うが国際交流の基本は先ず己の国の文化を、又、その文化の来たりし由縁を知ることから始まると思うので、正倉院宝物は正にそのための格好の材料を提供していると思う。
    


  

  
<第30回>

 正倉院の宝物の内、木製品に就いての本格的、系統的な調査が行なわれたのは戦後のことで昭和47年から50年までの4年間に亘り各分野の専門家4人により、秋期定期開封中に行なわれた。

 調査項目は構造、材料、技法、意匠、保存の状態、その他であった。収蔵品をその用途から分類すると、物を収納する容器の類、物をのせる几台の類、家具調度の類、楽器の類、遊戯具の類、その他の類となり、舶載して来た源である大陸からの品々を手本に、彼の国々とは比較にならないわが国の樹種の多さを活用して多様化、和風化がみられるとしている。

 材料となった木の種類は、広葉樹では桜、楓、欅、桐、桂、朴、桑、黒柿、椋、樫、栃、楢、などで、特に欅、桐、朴、桂などは生育も早く針葉樹材とともに重用され、また桑、桜、楓、黒柿などは夫々の特性を活かして高級な細工に用いられてきた。
針葉樹では檜、杉、松、樅などで、主に建築、建具、一般的な家具調度のほか、特殊な家具調度類にも用いられているが、木理の美しい杉、一位、松は特に愛用品に用いられている例がある。

 木を主要材料とした品は全部で195点、その内箱類が最も多く70点を占め、その材料では杉、檜で42点に及び、あと、几台類、楽器類、遊戯具類、武具類、家具調度類、食器類と続く。

 今年の展示木製品の目玉は"緑地彩絵箱"であった。
これは杉を用い、蓋の縦横が夫々38.5cm,35.2cm, 高さ4.4cm、身は縦横は蓋と同じ、床脚を含めた高さが9.8cmで蓋を含めた全高は14.2cmの印籠蓋造の箱である。呼称のように蓋、身の外面は緑、それに赤、朱、紫、白、藍などの色で複合團花文に蝶文を配し、各稜の周縁には金箔を押した黒斑のタイマイを貼ったものである。
この類をほかで目にしたことがあるかと問われれば、ない。ただ、何年か前近世現代の作家達がどこまで正倉院の宝物に迫れるかと製作した模造品展を見たことがあるが1200年の時が醸し出した美しさにはどうしようもないと感じた。それが時の重みであろうから同じ色が出る筈はない。

 木製の優品の他の一点は楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(かえですおうぞめらでんそうのびわ)で全長97.0cm.楓にすおう染めを施し、槽の全面に宝相華唐草文に飛鳥文、飛雲文を螺鈿で飾り、紫檀、タイマイ、金箔などが用いられている。正倉院の四弦の琵琶五面の内で最も旧態を留めていて、より完備した名品といわれる。美術工芸品は言うまでもなく百聞一見に如かずであり、それらを現在ではガラスを隔てた向こうにある距離をおいてため息をつきながら見遣っているのであるが、1200年前は、庶民のものでは無いにしても聖武帝と光明皇后が身の回りにおいてごく日常的に手にしていたのかと思うと、そのような過去の事実が夢のようである。

 もう一つ、はっとする程に美しく輝いていたのは、朽木菱形木画箱(くちきひしがたもくがのはこ)と呼ばれる献物箱で、縦21.0cm,横30.0cm,高さ14.8cm。箱の素地をイチイ材で作り、濃淡様々に朽ちたような茶色に黒がさまざまな模様を描く黒柿材を菱形に切って素地の上に石畳のように敷き詰めるように張ったもので、各面の境にコクタン材を貼り更に稜角とコクタンで境された面の内側には象牙を張ってあり、面とそれの境をなすコクタンと象牙が織りなす凛とした美しさは筆舌には尽くし難い。黒柿の作品はいろいろ所蔵しているが、黒以外の部があのように朽ちた色に変化するのには千年以上もかかるのかと、いや、長い年月を経るとあのような色合いに変化するのかと、木の持つ魔力に後ろ髪を引かれる思いで奈良を後にした。

   

 

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