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私の”木”遍歴
  
第31回~第40回

 

 

  
<第31回>

 正倉院展はこれで18年間連続して見学することができた。
なんとしてもという執念に近いものもあったかもしれないが、宝物には人を惹きつけて止まない、限りも無い何か、が潜んでいて、その"何か"が毎年その季節になると奈良へ向かわせたのだと思う。しかし"運"が良かったと言えばそれに尽きるようにも思われる。

  "木"も"繊維"も"紙"も夫々に1200年という時を経て今に生きつづけて、その背後にあるこの国の歴史の一面を時にははっきりと、時には彷彿と示してくれる。全くの素人でも感激極りないのだからその道の人々にとってはその価値は如何ばかりならむと思う。夫々の専門家にとっては1200年前の文物の研究にはこの宝物でしかなされ得ないわけだし、逆に世界にここにしか無い膨大な宝物があるからそれらを対象として"正倉院学"ともいうべき学問が起こった。

 昭和62年(第39回)の正倉院展を観たのが始めてであった。その時の目玉はかの有名な漆胡瓶(ペルシャ風の水差し)であった。 一定幅の細い帯状板を用い、輪積み、もしくは巻き上げ手法で成形し、それに黒漆を塗り、銀平脱文装飾を施した鳥頚型水注。平脱とは正倉院宝物の目録の台帳に出てくる言葉で、平文(ひょうもん)の唐名。金銀又は錫、鉛などの薄い延べ板を模様の形に切り漆塗りの上に貼る技法で、現在では平脱は唐名、平文は和名と理解されている。胡は隋唐の人たちが西方の国々を指して用いた呼称で、唐の都 長安は当時世界最大の国際都市であったとされているが、奈良の都も国際色豊かな日本における国際交流の中心であった。現在のように眠っている間に北京や上海へ着いてしまうのとは違うからその交流は命がけであったが、往来が容易ではないこともあって外国からの人たちを鄭重に遇して住まわせ、彼等の生活を保障した上で彼等が持つ様々な技術を習得した。その意味では現在よりも濃厚な国際交流がなされていたとも言える。

 この胡瓶の表面を飾る銀平脱文は、胴体部が山岳・鹿・羊・鳥・蝶・草花文を散らし、把手や台縁には花文をめぐらしている。木製漆塗の胡瓶としては伝存する唯一の遺品という。
私の子供の頃は戦中戦後の物の無い時代で庭を掃くのには箒草の茎を乾燥させて作った草箒が専ら使われていたが、なんと同類が宝物に中にあった。子日目利箒(ねのひのめどきのほうき)がそれで、子の日の儀式は、年の初めに天子が鋤を用いて田を耕し、皇妃が箒を用いて蚕の部屋を掃くという中国の古式にならい、わが国では孝謙天皇のときに始まった。天平宝字2年(758年)正月3日の初子の日に、内裏での儀式に用いられた手辛鋤と目利箒など一連の品が同日大仏に献じられ、宝庫に伝わる。目利箒の名はその材料と目されためど萩による。1230年前の草箒が今作ったかと思われる程になまなましく目の前にあった。

 ほかにその時の木製品としては、聖武帝の御冠を納めた箱といわれる赤漆八角小櫃と光明皇后の御冠を納めたとされる赤漆六角小櫃が展示されていた。いずれも杉材を用いた被せ蓋造りの箱で、表面はすべて木地の上に蘇芳(すおう、マメ科の小高木でインド・マレー原産の染料植物、黒味を帯びた紅色)を塗り生漆をかけた赤漆(せきしつ)仕上げ。
ほかにサクラ材で造られた蘇芳地金銀絵箱と呼ばれる約30.3×21.2×8.6cmの箱があった。箱の本体部分は全面赤褐色の下地を塗って研ぎ、上から蘇芳を塗り重ね、その上に金銀泥で絵模様を描いた箱である。
また、99×68×48.4cmのスギ材による櫃も出展されていた。

   


 

  
<32回>

 昭和63年(第40回)の正倉院展の目玉は、32年ぶりというかの有名な「鳥毛立女屏風」全6扇が3か年を費やしての修復の後、一堂に公開されたことであった。屏風は縦135.7~136.5cm,横56.0~56.5cmで六扇が連なっている様は壮観で、これをこのような形で拝観できるのは自分にとっては最初にして最後であろうと立ち去り難かった。

 この回の木製品のうち最も華やかな品は紺玉帯(牛の薄皮を縫い合わせ、黒漆を塗ったベルトで、幅3.3cm,現在長156.0cm 紺玉とはラピスラズリのことで青金石ともいい、アフガニスタンが主産地でシルクロードを経て中国にも盛んにもたらされ珍重された)を納めるための螺鈿玉帯箱で、木製轆轤びき成形の円形黒漆塗りの合子(ごうす 蓋つきの入れ物の総称)。 蓋の表は、唐代に流行したといわれる、正倉院の宝物によくみられる花枝文を主とした華麗な意匠で、中心に二重花文をおいてこれに三葉蕾文八茎をめぐらし、その外圏にはさらに花枝文八枝を花輪状に連ねて飾る。文で表現すると難解の印象を受けるが一見すればなんだあれかと誰でもどこかで目にしたことのある

 有名な文様である。側面は蓋が花枝と霊芝雲をそれぞれ六個ずつ交互に配し、身は花枝と飛鳥を蓋同様交互にめぐらしている。宝庫の螺鈿は木地に施したものが主流であり漆地螺鈿の完全な品はこれが唯一とのこと。螺鈿が盛んに行なわれるようになりそれが主流となる次の平安時代の流行の先例となる品として美術史上も価値の高い一品の由。

 次は漆彩絵花形皿(うるしさいえのはながたざら)と呼ばれる刳物盤で宝庫には29基伝存するという。 カツラ材と思われる一枚板を複雑な花葉形に刳りぬいた皿で縦41.3, 横39.0,盤高3.0cm.中央に四弁花形、四方に三葉形を配する。裏面には四箇所に鉄製の金具を取り付けそれに蕨手形の脚を差し込んでいる。こうした中央の花形から四方へ花葉を展開させてゆく華やかな意匠は唐・天平時代の装飾文様の一典型といわれる。

 宝庫にただ一点という白檀八角箱というのがあった。径34.0, 高6.6cm。この香木を木工の用材にするのは珍しくただ一点という貴重な箱。長い年月の間に酸化されてか表面は全体に薄い茶色であった。
この時も今回と同類の金銀絵木理箱がでていた。サクラ材を下地として蘇芳で染め蓋表および身の四周に紅梅の樹皮を含めた木肌を朽木貼りのように貼り、金泥で木目文を描きだしている。地味のようでいて手のこんだ華やかな箱。

 他に几(き、机のこと)が2点。
一つは仮昨黒柿長方几(げさくくろがきのちょうほうき)と呼ばれるもので、天板はヒノキ材、四周の縁に黒柿材を用い、天板裏表には墨で斑を描いて黒柿に似せている(げさく、偽、又は擬作の意味)几と、粉地金銀絵八角長几(ふんじきんぎんえのはっかくのちょうき)と呼ばれる長径44.7短径28.8cmのヒノキ材の几。各稜は中央が少しとがった弧をなし、6本の脚が下面に固定されてついている。これらの几はいずれもその上に献物を載せて仏前にそなえた台である。
金銀絵は、金泥、銀泥を膠液にといて、器物に文様を描く方法で、後に盛んになる蒔絵がまだ一般化していなかった奈良時代に流行した。

 これらの宝物は正倉院事務所が編集した「正倉院宝物」(全3巻)に倉別にでているし、日本経済新聞社が出した「正倉院の木工」及び平凡社からの「正倉院の漆工」にくわしい。これらはいずれもかなり前の出版物で古書店で探すしかないが稀覯本(きこうぼん、稀本、稀書)のこととて高価である。
 


  

  
<第33回>

 第41回の正倉院展は平成になっての最初の展覧であった。
出し物の目玉は「金銀平脱八花鏡」(きんぎんへいだつのはっかきょう)。白銅鋳造の八花形鏡で、鏡背は黒漆地。それに金・銀の薄板の裁文で加飾した、金銀平脱鏡である。

 鏡背の平脱意匠は円形紐座(紐を通すための高まった部分)を中心に内・中・外のおおよそ3圏に分けて裁文を配するが、内圏は宝相華風(ほうそうげふう インドに発したとされる花文様で、西域から中国に入るにつれ、次第に想像性豊かな意匠に変化した)の唐花唐草文を団花状に整然と飾り、中区をなすその周囲には含綬鳥(首飾りやリボンなどをくわえた鳥の総称)四羽を配し、その外側には花喰鳥、おしどり、雁、蝶、草花を散らし、外圏は花枝をくわえた鳳凰文を四方に配しその間を霊芝雲、唐花、花枝で飾っている。この種の平脱鏡は中国はもとより韓国の遺跡からも何点か出土していて、唐の時代にはかなり流行していたと言われるが、発掘品ではなくて日常使用されていた品(伝世品)としては、これが唯一といわれ、この一点だけをとって見ても正倉院の宝物のすごさを思い知らされる。しかもそのような伝世品が多種多数遺されている訳だから尚更である。

 この年の展示の木製品としては、子日手辛鋤(ねのひのてがらすき 儀式用の鋤)が遺っていて、奈良時代には正月の初子(はつね)の日に行なわれた天子が自ら田を耕して祖先神を祭る儀式に用いられた。柄はカシ、鋤代(すきしろ)はカエデでその先に後補の鋤先が付く。 柄は一材を用いて二段に屈曲させ、木部は淡紅に彩色し蘇芳で木理文を描いてあり、その形は現在でも諸国の農耕民で用いられている鋤に共通する。これを見れば使い勝手の良さと形とは車の両輪の関係にあり夫々の民族が古い時代に考え出し伝えてきた道具類は同じ目的で使う物であれば大体似通った形に落ち着くことが理解できる。

 次にこれも極めて合理的な作りをした御床(ごしょう 寝台)である。 宝物には二帳ありその一つが展示されていた。ヒノキ材製の長方形四脚付きの床で厚手の材で枠組みを作り、その内に八本の堅材を一段低くすのこ状に組み込んで畳の受けとし、対する二脚から長めのほぞが出てすのこを挟み込み、さらに二脚の間に夫々梁を渡すという堅牢な構造を取っている。庶民の物ではないにしても作った人の発想は、材料は異なっても、現代の好ましい寝台と構造は共通しており、この長さ237.5, 幅118.5, 高さ38.5cmのそれは、今の世でも好んで木を使う人は同じような構造を考えると思われ、ただ違うとすれば現代のわが国の住宅事情を考慮して脚を折りたたみ可能にするか否かくらいの点だとおもう。未だ今のような畳はなかったとみえて天子といえども御床の畳は、丈の長いマコモ製の筵(むしろ)三枚を重ねそれを二つに折って六重にし、裏に白麻布を貼った藺筵(いむしろ)を重ねている。これをしっかりと縫い合わせれば今の畳に近い物になるのだろうが、畳が過度に湿気を吸うとととても面倒なことを考えると扱いが少し厄介な面もあるが筵を重ね合わせたこの作りの方が合理的と思われる。この御床を二張並べた場合のベッドカヴァー(御床覆 ごしょうのおおい)もあった。

 聖武帝が政治生命を掛けて取り組んだ大仏建立が成って天平勝宝四年(752)四月九日に執り行われた東大寺大仏開眼会に際し用いられたといわれる皆同形の漆鼓(うるしのつづみ 鼓の胴)十九口の内の一つがあった。何れもケヤキの一木を厚手に刳り抜いたもので中央のくびれた部に三条の凸帯があり、長さ42.0, 口径14.8cmの腰鼓である。調緒(しらべお)で両端を結び、懸緒(かけお)で頚から吊って両掌で打った。

 伎樂は飛鳥時代に伝えられた外来の樂舞で飛鳥・奈良時代には寺院の法要などで盛んに演じられたという。その面の内の二種が出ていた。崑崙(こんろん)と酔胡従(すいこじゅう)である。宝庫には伎樂面171面が伝えられているが、それらは何れも14種の伎樂面の何れかに分類されるもので、大仏開眼会のためにつくられた。
   


  

  
<第34回>

 前回、聖武帝とその妃、光明皇后の御床に触れたが、現在われわれが用いている(畳)はその原型は「たためる筵」であったことがこれから理解される。今の"畳"は畳みようがない。

 伎樂面"崑崙"は木心のあるキリ材から全体を彫り出し、顔面は漆地に丹を塗り更にその上から朱を重ねてある。眼は白目の部分が緑青、黒目の周りに金泥の輪郭を描き、唇は朱、歯と牙は緑青で彩る。伎樂の最後にはイラン人系の酔っ払いの一群が登場して賑やかな演技を繰り広げて行列を締めくくる。それらは酔胡と呼ばれた。いずれも下に延びた長い鼻、ひげをたくわえ、見るからに異人の面相である。酔胡一組は王一人と従者八人とからなる。このような行列には滞在していた異国の人々も参列したのであろうか? それとも酔胡のような形でその面・装束だけが加わり、踊ったのは和人だったのであろうか? 唐の都、長安は当時世界一の大都会でまた国際都市でもあったと言われるが、それを摸して造営されたわが国の都、平城京も長安には及ばないまでも多くの外国人が暮らしていて国際交流もその後の時代よりも盛んであったらしい。

 如意と呼ばれる僧侶の持物がある。正倉院の宝物中には九枚のそれがあり玳瑁(たいまい ベッコウ)、犀角、斑犀、鯨鬚などの珍材を使用している。如意は初期仏教の頃から僧侶の日用品であった。

 元来は孫の手のような道具であったが、後には説法論議の時には講師が手に持って威儀を整える儀式的な用具となった。如意そのものも贅を尽くした素晴らしい品々であるが、鯨鬚金銀絵如意(げいしゅきんぎんえのにょい)を収めている箱"黒柿蘇芳染金銀絵如意箱(くろがきすおうぞめきんぎんえのにょいばこ)"は本当に美しい作りであった。名の示す通り黒柿を用い全面を蘇芳染めにしてシタンに見立て、外側は蓋表、側面ともに金銀泥で唐花文を描く。主たる文様と副のそれが色違いに交互に配され規則的な文様構成をなし、身・蓋の内面および脚の部分には金泥にて木理文をあらわす。

 仏教、殊に密教の法具で三鈷杵というのがあるが、これは本来インドの武器で煩悩を打ち砕く象徴として仏教に取り入れられた。宝庫には白胴製と鉄製の二口が伝えられ、後者の方が展示されていた。鋭利な鈷と逆刺(さかざし 釣り針の先にあるような刺さったら抜けないようにとの逆向きの突起物)を持ち武器としての原初の形がみられた。それを収めるのが素木(しらき)の三鈷箱で丁度亜鈴のように中央部を細くし上下を花形にかたどり、蓋・身とも一枚板。身は三鈷杵の外形に合わせて彫り込んであり、把部中央に穿った円孔と蓋にある太柄(だぼ"だぼそ"とも云い木材や石材を継ぐとき、両方の材に跨ってはめ込み、ずれを防ぐ小片)とで蓋と身が固定できるようになっている。収納箱としての機能と形とが相俟っている美しい一品。

 1200年余の時の流れを見せつけたのが木笏(もくしゃく)。笏はもともと中国で官位にある者が礼装した時に手に持ち、または帯の間に挟み持ち、備忘のために用件を書き留めた一種のメモであったが、後には威儀を整えるための持物となって官位ごとに形や材質が定められた。わが国では唐の制度にならい、養老三年(719)職事主典以上にはじめて笏をとらせ、五位以上には牙笏、六位以下には木笏をとらせることとした。その木笏が出ていた。しかし傷みが激しく一見すれば長さ36.0, 幅(上部)4.5, (下部)5.1, 厚さ(上部1.5)、(下部1.7cm)の何の変哲もない板であった。その後、幅は上下が逆転し現在まで上部の方が大きい。この"笏"の文字は漢音でコツ、コチ、呉音でブン、モンでシャクの読みはない。「コツ」の読みが「骨」と通ずるのきらい、長さもほぼ一尺であることから慣用的に「シャク」になったとある。「勿」は漢音ブツ、呉音モチで"勿怪(もっけ)の幸い""勿体無い""勿憂 ぶつゆう うれえるかれの意""勿論 ぶつろん、もちろん"と他の多くの漢字と同じく漢音、呉音の両方の読みがおこなわれており、われわれが日常なにげなく用いている"漢字"が実は"呉字"でもあることを教えてくれて興味は尽きない。
            


  

  
<第35回>

 その"勿"に色々な冠やへんが付くと日常頻用されている文字から、滅多には使われない文字まで沢山の漢字が出てきて面白い。例えば"?"の字、漢音、呉音でそれぞれコツ・コチ、ブツ・モチと読んで「夜明け」「暗い(冥)」の意で"勿"が、はっきりとは見えないの意味をもち日へんが付いて夜明けとなる。"勿"を持つ漢字で最も頻用されているのは"物"であろうか?"天地間に存在する形あるいっさいのもの"の意のほか、"なくなる、死ぬ"の意の「物故」、"なんとなく"の意の「物悲しい」、"苦情"を表わす「物言い」、などなど。"刎"はフン、くびをはねる、きるの意となり「刎頚の交」はよく知られた言い回し。「自刎」は従って自ら死すること。"吻"はくちさき・ことばつき・くちびるであり「口刎」は口角・語気。議論好きの人は「吻士」。「吻合」は医学用語で非常に大事な言葉で、例えば消化管のある部分を切り取った際、残りの断端をつなぐことであり、また、正常な状態では、動静脈吻合などと用いられる。"?"となると音はコツ・コチで意は丸のまま・そっくりそのまま・完全に、となる。"忽"は音は同じで、たちまち・ゆるがせにする・ぼんやりとして定かでないさま、の意で、「忽然」がよく使われる。"惚"も音は同じで、うっとりする・ぼける・ほのか・恋い慕う・放心する等の意となり、「恍惚」がある。"?"は同じ音だと"忽""惚"とほぼ同義であるが、ブツ・モチとなると、野菜の仲間、かぶらの類となり「惣菜」の起源が知れる。白川静の労作"字訓""字統"や漢和辞典を読んでいると、昔の日本人がいかに熱心に中国の文字を取り入れたかが思われて胸がじーんとしてくる。これぞわが国の基礎を作った国際交流だと思う。気(木)を抜いた訳ではないが、門外漢なりきに漢字の世界は本当に深遠だと嘆息するばかりである。

 より良い国際交流のためには先ず己を知ることだと思う。つまり日本という国のおおまかな歴史、地理、現況、言語、それに日本文化の特異性について外国の人に尋ねられても相手を満足させられるようなある程度の答え、説明ができないと、相手はただ失望するばかりである。この国の中にいて安穏としていては外国のことが判らないで一生を終えることになる。勿論、人それぞれの生涯だから死の床にあって、わが人生に悔いなし、と言い切れる人も多くいるだろう。しかし外国を旅して異文化に触れるとものの考え方が大きく変わることも事実である。アメリカのある一つの州にもその面積では遥かに及ばないこの小さな国、毎日当たり前と思っている茶飯事が外国の人から見ると限りなく珍奇であったり、滑稽だったり時にその人に大きな教訓を与えたりする。それが極めて曖昧ではあるがその国特有の"文化"というものだと知った。だから必死の思いでアメリカを垣間見てきた明治維新の担い手たちは当時の祖国のありようを見て世界の潮流から取り残されるという危機感を抱きそれが維新の大きな推進力になった。逆に外国をほんの短期間旅するだけでも自国の良い点、好ましくない点が見えてくる。そして自分の国を嫌いになる人、逆に益々好きになる人が出てくる。それはいずれの国についてもいえることであろう。

 リービ英雄という人がいる。1950年アメリカに生まれ。1967年日本に移り住み以後日米往還を繰り返しプリンストン大学・スタンフォード大学の日本文学教授を務め、1982年「万葉集」の英訳により全米図書賞を受賞。最近、勿論日本語で「英語でよむ万葉集」を出版。各紙の書評で賛嘆の言葉で評された。われわれの母国語である日本語が世界の数多ある言語の中でもいかに特異な存在であるかを教えてもくれる。リービ英雄は日本語を学ぶうちに興味の尽きることのないこの国の言葉の虜になったのだと思う。殊に古代語の持つ繊細さ、微妙さ、多様性にである。その宝庫の一つが万葉集なのであろうか? 万葉学者の中西進さんも日本の古代語に際立って造詣の深い学者だと思うが、私如きに好かれても象にとまった蚊にもならないとしても、私の大好きな学者の一人である。最近すっかり有名になったtennis playerのシャラポアは日本食はかなり特異だといっている。日本語に就いても興味をもってくれるかどうか?
   


  

  
<第36回>

 さて、平成元年、第41回目の正倉院展に戻って、他に木製品で興味を惹いたのは、今では殆ど見ることがなくなった墨つぼである。大工が製材などの際、線引きに用いる道具で墨を含んだ糸を目的の部に張り糸を引っ張り上げて放すと一瞬にして線が引かれる。子供の頃よく製材所に遊びに行って、その操作を飽かず眺めていたのを想い出す。長さ約30cm,幅約9cm, 高さ約11cmの銀平脱龍船墨斗(ぎんへいだつりゅうせんのぼくと)と呼ばれる品で、舟形の墨池の船首に龍頭を飾る墨斗で、寄木造の素地に麻布を着せ、黒漆で仕上げ竜頭の一部と船形の上半の斑文、船形の下半の花菱形裁文はいずれも銀平脱の技法によっている。龍の顔面には白色を塗り、耳と口には朱色を点じ、眼も朱彩、目玉には金箔を貼る。色は褪せたとはいえ見ていて楽しい造形である。伝世の墨つぼとしてはわが国最古といわれ、その彩りの美しさからは、実用品というよりは儀式用具と見なされている。

 紫檀小架(したんのしょうか)と呼ばれる高さ46.3cmの優品がある。長六角形の基台に、鳥居形の柱・笠木(鳥居でいうと2本の柱の上に乗る材)・貫(ぬき 笠木の下でそれと平行の材、柱までで止まっているものと、柱を貫いて出ているものがある)を取り付けたもので貫は柱止まりである。柱・笠木・貫はいずれも紫檀で断面は四花形。これに象牙の柱頭装飾、唐草透かし彫り装飾、前後各一組の鉤形突起が付く。柱座は蓮弁文を表わした紺牙撥鏤で朱彩を点ずる。基台が見事で、天板は柿材に紫檀を貼り、その周辺を木画(紫檀、黒檀、つげ、色染めの鹿角、象牙、金属片など、色彩の異なる材をモザイク風に組み合わせて象嵌し、さまざまな文様を表わす技法)による市松文・矢筈文・斜行文の界線で囲み、その区画内を金箔押玳瑁の薄板を貼る。その天板と畳摺(たたみずり、畳に接する底の部分)の間を唐草形の象牙の脚が支え、畳摺は柿材に紫檀を貼り、鹿角の界線と木画で飾る。これも一見に如かず。

 有名な紫檀木画箱(したんもくがのはこ)があった。縦23.3,横42.3,高15.3cm。床脚を備えた長方形の箱で、心木はけやき材という。表面は矢筈文(やはずもん)、甃文(いしだたみもん)、を組み合わせた木画で整然と区画し、紫檀の薄板を貼るが、その周囲や稜角には、さらに象牙の界線を施す。内面・底裏は甃文の木画で町形に区画し、つげの薄板を貼っている。畳摺には矢筈文の木画を施す。

 柿厨子(かきのずし)というもの入れの四角な箱があった。幅89.2, 奥行37.6, 高59.8cm。
書籍や道具類を入れる置戸棚とみられ、正倉院の宝物のカキ材は黒柿や斑(まだら)柿が多いので、普通の材であるのが却って珍しい。観音開きの扉がついて、扉が前面の約2/3を占める。

他に木製品では、紫檀小櫃(したんのこびつ)、漆櫃(うるしのひつ)、赤漆欟木小櫃(せきしつかんぼくのこびつ、「かんぼく」はけやきのこと)、黒柿蘇芳染花形台(くろがきすおうぞめのはながたのだい)、金銀絵長花形几(きんぎんえちょうはながたのつくえ)があった。

 かっては黒柿の茶箪笥などの家具はそう珍しいものではなく、今でも古い家具のなかに黒柿の製品を目にするが、前から"黒柿"という独立した種があるのか疑問に思い木工に携わる方達に尋ねてきた。答えは「ある」という人、「ない」という人、さまざまであった。というのはある樹木の図鑑に常緑である常盤柿(トキワガキ)を別にトキワマメガキ、クロガキとも呼ぶ、と記されていたからである。しかし、最近樹種に精通したある木工作家に教えて頂く機会があり、結論は"独立した種としてはない"。何れの柿も生育条件(含、養分)によっては、その材があの独特の黒い斑紋を呈する可能性がある、ということが判った。それ故、その図鑑のクロガキはその材には関係のない呼び方で、その小さい実が初め黄色で後に暗褐色に変ずる点に関連しての謂いではないかと判断された。
国会議員も何々族などと分類されるが、生物の分類はなかなか面倒な作業である。
     


  

  
<第37回>

 木の断面が示す多様な模様は正に自然の造形の一つであり、木を表から観ていてその内に秘めている杢をある程度推定できる場合もないとは言えないかも知れないが、大部分の木においては切ってみて初めて判る自然の神秘ではないだろうか? 

毎年開かれる伝統的工芸品展では島根県のある木工品製造店から黒柿の作品の展示があり、ある年、これまでのところその時の一点しかなかったが、黒柿の文机の展示がありそれを手に入れることが出来た。いまだにそのような黒柿の机を目にしたことはない。また、違う年のその工芸展で江戸指物のある方と知り合いになり、その方が黒柿で手箱を作って下さった。同じ手箱を作るにしても指物師の作る品は本当に手がこんでいて、薄い板を専門の技術を駆使して組み合わせる様は見事というしかない。
指物をやる人も次第に減っていくようであるがこのような匠の技もなんとしても後の世に残したい、又、残していかねばならない日本の伝統工芸の技の一つである。

 徒然草の第167段の結びに「一道にまことに長じぬる人は、自ら明かに其の非を知るゆえに、心ざし常に満たらずして、ついに物に誇ることなし」とある。さまざまな工芸の分野に励んでこの道にこの人ありと世上の評価が定まったような人は、みな謙虚な方で、私如き素人のとんでもないような質問にも丁寧に答えてくださり、芸の深まりが人を磨くのか、「その非を知るゆえに、心ざし常に満たらざる人」がそのような匠の域に達するのか、きっとその両方であろう。

 その江戸指物の匠がある時、「手箱を作るまでの材はないので茶箱は出来ました」と見せて下さった。さらに言葉を継いで、「これは貴殿を念頭に置いて作りました」といわれた。私は別に御願いはしてなかったので、一瞬戸惑ったが、「これまで作って差し上げた手箱は一般的な作なので、これの方により思いが込められております」とのこと。黒柿の墨のような黒が薄茶の地の上を美しい波を描いてまるで躍動するかのごとくに幾條にも亘って競うように流れ、しかも四つの側面にその波が連続するように組んであり、どの流れを辿って行っても箱を一周するのである。いろいろ説明して下さったが複雑な技でよくは理解できなかった。 これを目にしたどなたも"さすが江戸指物"と賞賛しきりである。日頃木を扱っておられる方々が異口同音に称えて下さるのだからきっとすごい技なのだろうと嬉しくなってしまう。材料さえ手に入れば日本各地で黒柿の製品は見られるが、ペン皿、筆箱、筆立て、小箱などで、大きなものはあまり見られない。

 次にその木目の多様さで人気の高い"欅"であるが、山林に自生しているだけでなく、神社、公園、住宅地にもみられ、植栽用として出荷規格に合った数量はソメイヨシノに次いで二位という。主な供給県は茨城、栃木、埼玉でこの3県で50%を占める。巨木になると身をよじるように幹はねじれ、大小のこぶをつけ、幹の根元のほうには洞ができたりして、樹齢1000年にもなんなんとすると大変なんだなーと崇敬と同情の念の入り混じった複雑な感情が去来する。

 高校への通学路に大きな欅があった。松本城の中庭を斜めにつっきって北の門へ出て少しのところの神社の境内とその前に大木がありその時はお堀端の道は欅の南側だけであったが、車が増えるとその欅が道を塞ぐことになってしまい、結局大木を挟んで道となった。しかし木にとっては劣悪な環境であり近いうちになにか保護策が施される由。遅きに失したがでもよかったと安堵した。シューベルトの菩提樹に謳われている菩提樹とこれからマイスターへの道を歩む為その木に別れを告げて旅立つ若者との関係ほどではないが、3年間朝な夕なに見やり触れた欅であってみれば、何時までも元気で松本城の越し方行く末の黙した生き証人であり続けて欲しいと思う。
   


  

  
<第38回>

 松本城の北、堀を挟んで位置する神社の欅の巨木も忘れられないが、あと印象深く心に刻み込まれている欅は材としてのそれである。平成10年の夏、漆器を見るため富山県高岡市へ行った。紹介された漆器店を見て、その後瑞龍寺へいった。瑞龍寺は富山県としては初めての国宝にその前年の12月に指定されたばかりであった。この寺は前田家二代目利長が建てた法円寺を三代利常が利長の冥福を祈る菩提寺として17年の歳月をかけて大改築し完成させた。寺運は隆盛であったが、1746年(延亨3年)11月、山門北脇の浴室より失火。山門、七間浄頭、禅堂を焼き尽くしてようやく鎮火。山門の復興は藩の財政上の理由から少し遅れたが、全体は1818年(文政元年)ようやく復興。諸々の伽藍の内、仏殿、山門、総門が総欅造りである。ただ、総欅造りというだけではなく、木目の配列にまで意が用いられていて例えば相対する柱の木目が対称的になっているなどである。江戸時代初期の禅宗建築として貴重な建造物と評価されているが、それにも拘わらず国宝指定が遅かったのは、江戸時代になると寺社建築の仕事が増え大工が多忙を極めて一般的に仕事が雑になったとの評価が災いしたとのこと。

 木とも国際交流とも直接は関係はないがこの大きな建物、仏殿に関しては前田家の深謀遠慮が隠されている。というのは、この建物と金沢城の石川門の屋根は鉛葺きである。何故? というに、もし戦いが始まり鉄砲の鉛弾が不足した場合には即座にそれに転用する心積りであった。それ故仏殿の屋根は重さが47トンもあるといわれる。

 高岡でもう一つ忘れられないのは"万葉歴史館"の存在である。なぜこの地にそれが? と思われるかもしれないが、勿論、万葉集の成立に大きく関わったと見なされている大歌人、大伴家持のこの地との関わりの深さに拠るからである。 家持は天平18年6月(746年、29歳)、越中の国司に任命され赴任した。富山へ行くと内陸まで晴れているときには砺波平野が山によって尽きる所、立山連峰の最奥に鋭く天を突いてそびえる剣岳が見遣れる。家持が詠んだ「立山の賦」とそれに続く長歌の反しは4001 立山(たちやま)に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神(かむ)からならし(貴い神故であろう)4004 立山に降り置ける雪の常夏に消(け)ずてわたるは神ながらとぞ(神そのままの山だからという)である。立山を当時は「たちやま」と呼んだ。そこから「たち」は「剣」であり故に「たちやま」は「立山」ではなくて「剣岳」を指しているという解釈がある。

その頃奈良の都では幾多の困難を乗り越えて、聖武帝が政治生命をかけた大仏建立のための本体の鋳造作業が始まり(天平19年(747)9月)、鋳終わったのが天平勝宝元年10月であったが、鍍金の金が不足し帝をいたく悩ませていた。当時、金は全て外国からの献上品でわが国では産出しないと信じられていた。そこへ陸奥の国で金がとれたとの朗報が届き黄金900両が献上された。帝は大いに喜びこの瑞祥を広く全臣民に分かとうとの意を表明され、歴代の功臣の忠誠によって皇統の安泰が保たれてきたことを賞する宣命を発せられた。とりわけ大伴氏は佐伯氏とともに親衛隊として朝廷を守護してきた功労を高く評価され、大規模な叙勲があって、家持も従五位上に昇進した。宣命の中で賞賛された大伴家の当主として、越中へ転じてから何となく気分が優れず歌作も途絶えがちであった家持の中で眠っていた「ますらお」の血が騒いだ。家持は感涙に咽びつつ「陸奥国に金を出す詔書を賀く歌一首」を詠んだ。これは家持にとっての最長編で万葉集中でも3番目に長い。その中に第二次大戦中軍部に悪用されたかの有名な「海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の へにこそ死なめ 顧みは せじ」がある。この部は天皇家にたいする大伴家の誓詞であり大伴家の長い歴史と伝統のなかで歌い継がれてきた古歌謡であった。

 天平勝宝3年(751)、家持は少納言に任ぜられ満5年に亘る越中での暮らしを終えた帰京することになった。しかし喜び勇んで戻って来た都は政争の嵐のなかにあった。

   


  

  
<第39回>

 胸を膨らませて戻った都は政争の渦中にあり、家持も否応なしにそれに巻き込まれて作歌の意欲も萎えがちであった。その間兵部少輔として防人の検閲にあたり多数の防人の歌の記録に努めた。

天平宝字2年(758)因幡守に左遷され、悶々として日々を送ることとなる。その翌年のこの地で初めて迎えた正月の賀宴の席で家持としても、万葉集としても最後となる

「4516 新(あらた)しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)」
が詠まれた。これは家持およびその一族の復権を願っての歌であろうが、重苦しい背景を知らなければ、雪を吉兆とみての喜ばしい新年の歌ともとれる。この時家持42歳。
 この後家持としての記録された、表に出た歌は一つもなく大歌人の終焉である。その後各地を転々とし冠位も上下しながら65歳で陸奥按察使鎮守将軍を兼任し多賀城へ赴き、その地で没した。時に68歳であった。42歳以後の26年間大歌人家持は本当に歌を忘れてしまったのだろうか?

 高岡市の万葉歴史館は毎年3月に年一回ずつ万葉論集を出しており今年で8冊になった。主題は初めから夫々、水辺の万葉集、伝承の・・・、天象の・・・、時の・・・、音の・・・、越の・・・、色の・・・、無名の・・・ である。

 欅がとんでもない方へ行ってしまったが、郷土が生んだ大歌人、島木赤彦は雪国に訪れた春の歓びを欅に託して
       高槻のこずゑにありて頬白のさへづる春となりにけるかも

と詠んだ。これは万葉集にある志貴皇子の有名な歌「石(いわ)ばしる垂水のうへのさわらびの萌えいづる春になりにけるかも」を念頭に置いているといわれる。槻は古くは欅のことで万葉集にも見える。地名では大阪府高槻市がある。ところが、世の中はうるさいもので、頬白は高い所ではさえずらないもの、だからこの歌はこの鳥の習性を知らないで詠んだものだ、などの批評が出て論争になった由。結局、この鳥は秋冬には低い所で鳴いているが、春になると高い梢で囀るのだ、として決着がついた。
すっかり葉を落とした欅の冬を詠んだ歌として
       青葉かぜゆたかにありし大けやき 冬あお空にしづかなりけり   谷 鼎

がある。欅を使った品はさまざまにあるが、最近杢が素晴らしいからといって神代欅の手箱を買う羽目になった。神代で有名なのは杉であるが、欅も長年土中にあると、その年数、そこの土質(岩石の含む化学物質)、温度、水分などの左右されるのだろうが、概して濃い灰色に変化する。これが地上にでて十分な酸素に触れているとどう変化するか興味のあるところである。

 土中していても容易には変化しそうもないのが屋久杉ではないだろうか? 屋久島で色々な土埋木から作った家具をみたがそれらが地上に出て未だ年数が浅いためか、皆同じような色をしていた。
屋久杉は脂が飛びぬけて多いといわれるから、それが変化を防ぐ被膜を作っているのか、それも皆鮮やかな、今切られたばかりのような表情をしている。何年も前に屋久島で求めてきた屋久杉の文机は年数が経つとともに益々色艶を増して、経年変化など何処吹く風の如くであるが、屋久杉にとってはそれが経年変化なのでしょう。本当に不思議な木である。
 上海の骨董屋へ行った時、欅の小さな箱を見たが主はその木目の美しさの故に中々値段交渉に応じなかったが、それは欅としては日本ではごく普通の木目であった。
    


  

  
<第40回>

 平成2年、第42回目の正倉院展では、光明皇后が聖武天皇崩御の77回忌にあたる天平勝宝8年(756)に東大寺大仏に献納された御遺愛の品々の目録「東大寺献物帳」(国家珍宝帳)が全面公開され、有名な金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)をはじめとする華やかな宮廷生活を彷彿とさせる名品が多く展覧されていた。

木工品ではまず、紫檀木画挾軾(したんもくがのきょうしょく)が人々の足を留めた。"きょうしょく"は肘つきで、大名達がそれに肘をのせてふんぞりかえっているあれ。しかし、膝の前に置いて使用されたというから、その時の姿勢は前屈みである。帝はこの上に両肘(腕)をのせ身を乗り出すようにして臣下の上奏に耳を傾けたのであろうか? 聖武帝にとって最も気になっていたのは日本古来の神々をさし置いて仏教を基本にして国政を行なうと宣言し国家経済を破滅に追い込むほどの金(きん)を費やして巨大な大仏を造り、わが国の歴史にはっきりとのこる最初の国際的な大セレモニー、大仏開眼会を執り行なったもののその後の民の暮らしや、庶民の仏教に対する考え方がいかであろうか、という点にあったのではなかろうか? その帝の悩みを少しでも解消せむとするかのように、兎に角豪華な品で、その名のとおり天板の中央で2枚の紫檀を継ぎその両端に床脚を付け、天板の両袖を金銅線で区画しそれにベンナン(クスの木の類)を貼る。各部の縁と面取りの中央部は、白と緑染めの鹿角で二重の枠をめぐらし、面取りの両袖部はシタン・ツゲ・クロガキ・鹿角などを用いての矢羽根文木画で縁取りされている。床脚も見事で各2本の脚が刳り形の御座に載りその下に敷板がある。他の品々同様文では表わせない。

漆花形皿(うりしのはながたざら)があった。カツラ材といわれる方形の一枚板を刳って、縦、横夫々41.3, 39.0cm、高さ9.1cmの黒漆塗りの脚付きの花形皿である。中央に四弁花形、それを囲んで四方に三葉形の皿が接している。宝庫には同形のものが29基あるという。

投壺(とうこ 投げ矢)は中国から伝わった儀礼としての遊戯であった。これを和名では"つぼうち"と言った。 壺は金銅製であるが、投壺の矢が美しかった。長さ約74cm. その彩色には2種あり、一方は矢羽を濃い褐色・蘇芳・白の3色で塗り分け、矢幹(やがら)は樺巻き、矢鏃(やじり)は木製緑青塗り。もう一方の矢羽は黄土の地塗りの上に金銀泥で羽線を描き、矢幹は蘇芳色で仮斑竹(げはんちく)に表わす。矢鏃には木製と水牛角製とがあり、丹や緑青で塗る。

肘掛と背もたれを備えた大形の四脚椅子、赤漆欟木胡床(せきしつかんぼくのこしょう)があった。
欟木はケヤキのことで、木地を蘇芳で着色しその上に透明な生漆を塗る赤漆の技法を用い木目の美しさを生かしている。

儀式用である漆高机(うるしのたかずくえ)があった。全面黒漆塗り。天板の下に左右1本ずつの座をつけ、これに?穴(ほぞあな)を開けてそれぞれ9本の脚を差し込む。脚の下部の地摺(じずり)にも?穴を開けて脚を差している。両側とも両端から2本目の脚が天板を貫通しその4本で全体の脚の補強を図っている。宝庫に伝来する他の多足机にも共通して見られる構造とのこと。

北倉からの古櫃(こびつ)があった。スギ材製。被蓋造りの長方形の唐櫃で蓋の縦、横がそれぞれ71.0,102.3cm. 全高が50.5cm. 本体は赤漆塗り。本体の側面にそれぞれ2本ずつ、4本の脚が付き、脚には中ほどの高さの部と下に紐を通すための穴が開けてあった。

   

 

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