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私の”木”遍歴
  
第41回~第50回

 

 

  
<第41回>

 平成2年、第42回正倉院展の木工品で最も特筆すべきは、漆金箔絵盤(うるしきんぱくえのばん)の出展であった。 その配色、形態等宝庫の彩色品の中でその華やかさの点でこの品を凌ぐものはないとさえ言われているからである。これは仏前に供えて香を焚くための炉盤の台座である。

 岩をかたどった木の台の上に各段8枚の蓮弁を4段、互い違いに魚鱗葺き風にめぐらし中心に半球状の蓮肉を据えた蓮華座で蓮弁を台に固定するための銅版を除いては全て木製。蓮弁は何れも漆塗りで外面は金箔のほか、鉛白・朱・丹・えんじ・緑青・群青・藍・藤黄(オトギソウ科の常緑高木。東南アジア原産。果樹のマンゴスチンと同属。高さ18mに達し、樹皮は粗く茶褐色。その樹皮を傷つけて得られる樹脂。水には溶けないが乳濁液となり、黄色絵の具として日本画に用いる。―広辞苑より)墨など多種の色料を用いて様々な文様を描き、内面にはほぼ同色を用いてうんげん文様を描く。せめて図鑑だけでも目にすればうなずけるが文だけでは難しい。

 蓮弁の文様は中央の円形の輪郭の中には獅子・鳳凰・迦稜頻迦(梵語、妙音鳥、好音鳥などと意訳。仏教で雪山または極楽に住むという想像上の鳥。妙なる鳴き声をもつとされることから、仏の音声の形容ともする。その像は人頭・鳥身の姿で表わすことが多い―広辞苑より)。その輪郭の外には宝相華(唐代、また奈良・平安時代に盛んに装飾として用いた唐草文様の一種。花文様のように見えるのでこう呼ぶ ―広辞苑より)だけのもの。花喰鳥や鳳凰、鴛鴦(えんおう オシドリ 鴛は雄、鴦は雌)と宝相華を組み合わせたものを交互に置く。本当に目もくらむような華やかさ。その全体としての大きさは径が56.0cm, 高さ17.0cm。このような華やかな細工品を見た後ではどんな品も地味に見えてしまうが、ヒノキで作られた縦27.9cm, 横17.5cm, 高10.6cmの碧地金銀絵箱(みどりじきんぎんえのはこ)はその呼称のように極めて渋い配色の箱。蓋表と身側面は群青を塗り、金銀泥で文様を描く。蓋表には一対の花喰い鳥を中心に、花卉と鳥・蝶を一杯にめぐらし、身側面から蓋側面には各面に一対の尾長鳥と花卉や鳥・蝶・雲を配する。蓋と身の稜角は蘇芳色の縁を取り、金泥の五弁小花文を並べてある。床脚は四角と長側中央に付き刳りを施して格狭間(壇の羽目や露盤・器具などに施した特殊な刳形の装飾 ―広辞苑より)を形作り、鉛白を塗って黒で縁取る。これは献物箱という。

 やはり、献物箱で縦23.5, 横33.0 , 高11.1cmの色と木目が規則的に変わる檳榔木画箱(びんろうもくがのはこ)があった。ヒノキの心材の表面を木画で飾ってある。蓋表はコクタンの界線で区画し、面取り部にはビンロウジュを嵌め、中央部にはビンロウジュ・クワ・ツゲ・シタンの菱形の小板を嵌めて石畳状の幾何学文を表わしている。

 このような技法は洋の東西を問わずpatchworkとして現在も広くおこなわれている。今年の第52回伝統工芸展の木工の部に檳榔樹菱文木彩箱という作品がありこれは短辺の側面の処理は正倉院のこの箱とは異なるが基本的なpatternは共通であり将に現代に蘇る正倉院という思いがした。

 木製品に限らずこれらの膨大な数量の宝物が国産なのか? 輸入品なのか? は既に江戸時代から論じられたと言われ、調査が進むにつれてその由来は次第に明らかになりつつある。その素材が明らかに国産であるもの、はっきりとした銘により国産であることが証明されているものはよしとして、研究者の中には、いかにも精緻な作りの品々は輸入品と考えなければならない、と結論づける人もいて由来の不明な品々も多いようである。宝物の由来が明らかならずとも、わが国を東端として、唐を中心とした国際交流がいかに盛んであったかの証としてもこれらの宝物の持つ意義の大きさはその由来の論議をかき消して余りがある。




 

  
<第42回>

 正倉院の宝物に多く見られる木画の技法は寄木細工(よせぎざいく)であるが、patch workとしてのこれらの技法を更に複雑にそして基本patternや配色を殆ど無限にしたのが、伝統的工芸品としての箱根の寄木細工である。江戸時代の後期にこの地で確立されたとされるこの技法は、材の種類の多いことではわが国でも屈指と言われる箱根山の存在がその背景にあり用いられる材は40種以上。

 色とりどりの材料となる木材をその断面が希望の大きさ、形になるように選択自由な固定用の台に挟んで鉋で削り、これらの基礎材を束ねて接着しその断面が様々な模様になるようにする(単位模様という)。この単位模様を輪切りにして2cm位の厚さの板を作りそれらを寄せ集めて種木を作り意図する幾何学模様を組み立てる(種板)。これを鉋で薄く削り経木状のズクとよばれるfilamentがつくられる。この薄膜を目的の木地その他の対象物に接着、アイロンで延ばせば完成。今では平面のみでなく、球面にもこの薄膜が貼られた製品がありそれらを見ているとこれが伝統の技というものかと感心する。

 正倉院展にお目見えするあまり日常的ではない品に伎樂面がある。伎樂は呉樂(くれがく)とも呼ばれるように、もと中国南部の呉の国で行なわれた古代樂舞の一つである。伎樂は推古天皇の20年(612)百済の帰化人によりわが国に将来されたといわれ、爾来、仏教の興隆と共に盛んになり、飛鳥・奈良時代には頂点に達したが、その後は急速に衰退し、今日では中国は勿論、日本でも全く廃れてしまっている。従ってその研究は遺された面と衣装などを通してしか途はない。

 現在わが国に遺っているその面は東大寺、法隆寺に各30面、その他若干といわれるが、正倉院にはなんと171面(内木製135, 乾漆36)もあり、これらの面を見ていると大仏開眼会の盛会の様などが想像されて何となく楽しい気分になってくる。

 天平勝宝4年(752)の大仏開眼会では四部構成の大規模な伎樂の上演があったといわれる。伎樂では、獅子・獅子児・治道・呉公・金剛・迦楼羅(かるら)・崑崙(こんろん)・呉女・力士・波羅門(ばらもん)・太孤父(たいこふ)・太孤児・酔孤王・酔孤従という14種の仮面が使われる。

 これらの登場人物の役割は、獅子児は獅子を引く少年、治道はは行列の先頭か獅子児の次に加わり先導的な役割を持つ。治道という言葉は"露払い"を意味しているという。呉公は呉女(優美な女性として表わされる)に対応する名称であり、その相好も男性的な威厳をもつ。金剛は仏教に由来し、開口、閉口両種の憤怒面相をもつ。迦楼羅はインド神話に出てくる想像上の霊鳥で仏教に取り入れられて天竜八部衆の一つになっており、面は鳥形である。崑崙は美しい呉女に懸想するが、力士によってさんざんに打ちのめされる筋担っていて、崑崙の身の程も知らない大真面目な恋が、美女と力士の前で却って滑稽感を醸し出すことを眼目に置いている。崑崙という言葉には幾つか意味があるようであるが、この場合は南方の黒人の意味という。呉女は伎樂面中ただ一つの女面であり、崑崙、力士との寸劇の主人公である。年若い美女として表わされる。波羅門はインド四姓の最上位を占める階級で、それに属する高徳者を指し、微笑をたたえ、皺の深い上品な老人の面相である。太孤父は身寄りの少ない哀れな老人であるが、正倉院や東大寺の太孤父とみられる面には、鬚をたくわえ、頭に三角状に尖った帽子をかぶるものもある。太孤児は太孤父にかしずく少年であり、やや憂いを湛えたおとなしい表情。酔孤王は酒の酔った胡人(西域諸国の特にイラン人のこと)の王でいかにも王者らしい威厳があるとともに、頭に高い帽子をかぶっている。

 


  

  
<第43回>

 昨年、平成17年、第57回の正倉院展はこれまでない程の混み様であった。
会場で毎年お手伝いをしている方から、その方が中心になって発行しているある雑誌の件で手紙を頂いたが、これまで無かった位に観光バスが押しかけて、開催期間中は週末といわず毎日混んでいたとのこと。日本の人たちが急に正倉院の宝物を一目見ようとその存在に気付いた訳ではなくてこれは一にも二にも広報(宣伝)にその原因があったらしい。平成16年までは後援団体に入っていたA新聞社が17年からY社に替わったのである。昨年秋、JR東京駅の構内の太い柱という柱には正倉院展の大きなポスターが華々しく張り巡らされ、これまでこの季節にはかってなかった光景であった。

 そんな光景を目にしてからしばらくして奈良へいった。会期末が近かったせいかとも思ったが、兎に角切符を買うのに長蛇の列、入場に又、長い列。やっとの思いで会場へ入れば中は人、人、人、、、、。もううんざりで、何時もの様に説明文を丹念に読む気力も失せてそんな自分を疎ましく思いながらも如何ともせんかたなくこれまでになく早く会場を後にしてしまった。

 多くの人が真剣に観てその宝物のすばらしさを感得できれば、それにすぐる展示の効果はない。しかし、観光バスで押し寄せて大した感慨もなく限られた時間内に会場を通り過ぎてしまったのなら、これは毎年一回その日を楽しみに遥か遠方からやって来た見学者にとっては邪魔な存在でしかない。

 宝物の曝涼の一環としての展示であるからこれは他に例をみない特殊性を持っている。勿論、いわゆる団体さんの一人として訪れたこの展観に惹きつけられ、その後機会を作っては観に行きたいという人が出ればそれはそれで非常に意義のあることであり、自国の、又、シルクロードを介して交流した沢山の国々や民族の、今は正倉院でしか見ることが出来ない品々を目にすることの大切さは計り知れない。何故ならこの小さな島国、日本の文化は歴史的にも、それ故にその流れの上にある現在でも本当に多岐に亘る。しかし、恥ずかしいけれども、自分の国の文化(極めて曖昧なこの言葉、ここでは有形無形の全てを含めて)について本当に何も知らない。国際交流で相手の国やそこに住む人々の暮らしのほんの一端を知っただけでも、この交流は意味があった、これからも続けよう、もっと他の国ともそのような機会を持とうと、意欲を燃やすのは何もしないよりは遥かに意義のある事。

 ただ、相手をよりよく知ろうと思えば、自分を更によく知るべく努力を積み重ねることが肝要と思う。確かに日本だけが特殊な国では決してないのかもしれない。しかし、この小さな国が育み守ってきた"文化"は他の多くの国々とは比較出来ない程に多様であることは確かだと思う。
ほんの少しそのある部分に興味を持つだけでも、ああもう時間がない、どうしようと焦り、絶望感に襲われる。自分は別に研究者ではないから、先人達の遺した結果を垣間見ているに過ぎないがそれでも、"日本文化"の燦然とした輝きと、その奥の深さ、そして色々な分野の面白さに捕らわれた人達の多いのに驚かずにはいられない。

 例えば我々が日常何の疑問もなく用いている漢字、これは、世界の古い文字はかってはそうだったと思うが、その殆ど全てが滅びて、唯一命脈を保っている象形文字。その漢字の成り立ちの尽きない面白さに捕らわれた研究者は沢山いるが、自分の視力を犠牲にしてまでも一生をかけて"大漢和辭典"を完成させた諸橋徹次、そして現代の漢字博士、白川静。これらの偉人達はその魅力にとりつかれその結果として夫々の金字塔を打ち立てた。滅びてしまった象形文字を解読した偉人も沢山いる。しかし、漢字は生きている象形文字である。自分が評議員をしているある小学校で国語の授業を参観した時、その漢字の成り立ちを教えていた。しばし心が和んだひとときであった。




  

  
<第44回>

 平成3年、第43回正倉院展の目玉はかの有名な"螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)"と"鳥毛てん書屏風(とりげてんしょのびょうぶ)"、"鳥毛帖成文書屏風(とりげじょうせいぶんしょのびょうぶ)"、それと長方形の銅板を透かし彫りにしてそれを四枚、蝶番で縦に連結した、手のこんだ金工の"金銅幡(こんどうのばん)"であったろうか?

 木工品では余り華やかな品はなくて、白檀を一木より刳り出して身とし、これに別材で蓋を作り、それを蝶番で留めた"素木如意箱(しらきのにょいばこ)"があった。これは非常に豪華な、長さ78cmの"斑犀如意(はんさいのにょい)"を収めるための箱である。斑犀は白と黒の斑のある犀の角で、細長くて、先へ行って開き曲がる爪形の部分(掌部)の表の基部と柄の掌部と反対側の先(総部:ふさの部分)に「東大寺」と朱を点じた鮮やかな銘が刻まれていた。こういう品を目にするとこれが千年以上も前のものとは俄かには信じがたい。

 "灌頂天蓋骨(かんじょうてんがいのほね)"があった。これは天蓋の内側を支え、上方から吊るすのに用いた、いわば交叉した2個の衣文かけのようなもので、全て欅製という。ろくろ挽きで軸部を作りその上下に鉄製の遊環を付け、それに4本の、先へ行って弓形に曲がる腕木(骨)を差し込んだ構造である。
目録には亀の頭とされているが、後、獅子頭とも考えられ、現在では鳳凰の頭と結論付けられた"平脱鳳凰頭(へいだつのほうおうのかしら)があった。長さ28.6cm, 高さ9.5cmで大半が桐の一材。用途は不明の由であるが、かなり塗りが剥げて頻用された品なのかなーと思ったり、千年も経てばかくもありなむと肯いたりもした。

  我々が日常用いている棚と殆ど変わることの無い"棚厨子"が出ていた。長さ239.0cm, 幅56.8cm, 高さ140.3cm。スギ材を用いた前後、左右とも吹き抜けの三段の収納棚で頑丈な作り。もともとは厨房で食器や食材を収めるのに用いたというが後には室内調度品にもなった。棚はその使い途によりけりだけれど、特に外見を気にしなければ、又、閉じ込めを嫌わなければ吹き抜けの方が多用途的。現代の住まいに運び込んでも全く違和感のない感じの品であった。

 天板の縦、横が夫々94.5, 48.3cm、高さ40.1cmの"榻足几(しじあしのき)"があった。榻とは長椅子、とか寝台の他、牛車を使わない時、轅(ながえ:本体を牛に取り付ける為の部分)のくびきを載せて置く台の意。これは言わば供物台で几はスギ材製。現在我々が目にするその類は、仏前では朱とか黒塗りに金で模様を施し形も様々であるが、神事で見るそれは白木の簡素な作りでこれは基本的には神事のそれに似る。宝庫には全部で21基が伝存するといい、頻用されていたことを裏付けている。その他、"赤漆桐傷櫃(せきしつのきりのこびつ)天板、縦、横、高さが夫々64.4, 39.2, 29.0cm。これには錙子(さす:門扉や箱などに取り付ける錠前のこと)がつく。錙子は宝庫には銀製1、金銅製14, 鉄製28具の全43具が伝えられている由。4種類の錙子が展示されていた。

 昨年の展示の目玉の一つは宝庫に3基伝来している内で最も華やかに装飾されている"木画紫檀棊局"と美しい碁石であったが、これではない棊局が出展されていた。"桑木木画棊局(くわきもくがのききょく)"で、盤面は象牙で縦横各19本の界線を施しクワの板でその中を埋める。昨年のその棊局よりも、この方が盤面も少し大きく高さも高かった。この年の棊局が少し地味な感じであったのに対し、"紫檀木画双六局(したんもくがのすごろくきょく)"は、盤の側面の装飾が美しく絵画的な木画作品の代表作の一つと言われているものであった
   

  

  
<第45回>

"お水取り"はよく、古都、奈良に春の訪れを告げる行事と云われる。
"お水取り"とか"お松明(たいまつ)"というのはこの行事の深遠で過酷なまでの"行"のほんの表面的な現象の極一部を指しているに過ぎない。従って多くの人が押し合いへし合いながら二月堂の前で見上げているのは将にこの表面的なあるものである。

この行は正月に行なわれる法会「修正会」に対して、旧暦の二月に行なわれることから「修二会(しゅにえ)」と呼ばれる。しかしその呼称は行なわれる時期を表わしてはいるが本態を指してはいない。
これは十一面観音菩薩の御前で僧侶の日常における過(とが)を悔い改め(悔過・けか)、滅罪生善の如法(仏の教えの通りに行なうこと)の生活を営ませるために厳しい修業を課すもので、この行はまた、地上の生きとし生ける一切有情のために、「大悲者」観音菩薩の慈悲を乞い奉り、ひたすら、至福到来を祈念することでもある。このように十一面観音菩薩に諸罪障を懺悔し、安穏豊楽を願う行であるから「十一面観音悔過法」と呼ばれる。その大変な行がお堂の中で執り行われようとしている時、その外での松明の動きだけを観た。午後7時から始まるというので、その1時間前に二月堂に着いたが前の広場は既に立錐の余地も無い超満員。臨時の派出所からは繰り返し、押すな、すりに注意しろ、等とこの聖なる行いを汚すような注意が繰り返される。こんな神聖な場ですりなどはたらいたものなら、それに対する仏の罰は、計り知れないのではないかと思ったり、中では悔過の行が行なわれているのだから、今ならそんな悪行も赦されるのかな、などと思っている内にやっと定刻となり、広場の証明が消されて、晴れてはいるが未だ月は出ないので程よい暗さとなる。

二月堂西側の斜面の下に参籠宿所があり、練行衆(かって26名、現在11名)はそこを出て、平衆(ひらしゅう)と呼ばれる下位の僧から2、3人ずつが登廊に並び、長さ16間ある登廊の階段を燃えさかる上堂松明に先導されて初夜上堂となる。先導を終えた松明は堂の高欄に沿ってぐるぐると回されながら移動する。今夜は殆ど風がないがそれでも堂の軒に燃え移るのではないかとはらはらさせるくらいに高々と掲げられた松明から火の粉が時々大きく飛び散り、その都度その下に陣取った人の群れがどよめく。その火の粉を浴びたり、燃え殻を拾って大切にしておくと次のお松明まで無病息災で過ごせるとの俗信があり上堂が終った後も人々はそれを求めて右往左往する。

先にお堂に入った平衆は床を踏み鳴らして内陣に駈け入り四職(ししき)の上堂が終るまで行道する。
その音が外まで聞こえてくる。ある作曲家は、この一連の行を様々な音が交錯することから交響曲に見立てた論を発表しているが、喧騒が去って堂の外に佇めば、全部ではないにしてもそれらの音が聞き取れるだろう。

修二会で参籠の僧侶を練行衆と呼び、その顔ぶれの発表は前の年の12月16日に行なわれる。それはこの日が東大寺を開いた良弁僧正の祥月命日に当たっているからで、この日、開山忌が執り行われる。その法要の直前に華厳宗管長からその顔ぶれが発表になる。11名は東大寺の僧侶を主とするが末寺からも選ばれる。東大寺は通常でも穢れを忌む傾向が強いと言われるが、修二会の場合には特にそれが厳しく、服喪中の人は参籠に加われないのは勿論の事、二月堂の結界(ある寺院、宗派の僧尼の秩序を保つ為ある一定の区域を区切ること)の中に立ち入る事も許されない。

(今回と次回は"木"とは直接関係は無いが、念願かなって"お松明"を拝観することが出来た為、また非常に興味をそそられる行事である為、修二会について書かせて頂きます)





  

  
<第46回>

この修二会は実忠和尚が天平勝宝4年(752年)に創始したと言われ今日まで一度として中断されたことはなく、従って本年は1255回目に当たる。将に驚嘆に値する回数・行事である。11人の練行衆に、修二会がとどこうり無く行なわれるよう様々な用に就く"三役"を加えて参籠衆とよび人員の面ではこれが全てである。11名の練行衆は、役職者である"四職(ししき)"と諸役を分担する"平衆(ひらしゅう)"とからなる。

四職は和上(戒和上、練行衆に戒を授ける)、大導師(修二会の最高責任者として法会を統括する)、咒師(しゅし、密教的修法を司り、神道的な作法も行なう)、堂司(どうつかさ、法会進行上の監督責任者)からなる。
平衆は総衆之一(そうしゅうのいち)または北衆之一(きたしゅうのいち、略称 衆之一)、南衆之一(みなみしゅうのいち、南衆・なんしゅう)、北衆之二(北二・きたに)、南衆之二(南二・なんに)、中灯之一(ちゅうどうのいち、中灯・ちゅうど)、権処世界(ごんしょせかい、権処・ごんしょ)、処世界(しょせかい、平衆の末席)の七役からなる。
三役は堂童子{(どうどうじ、礼堂・外陣・閼伽井屋(あかいや、aquaとはラテン語で"水"のこと、それが梵語でもその音がそのまま取り入れられ、英語では綴りもそのままである、e.g. aqua-lung他沢山、お"水取り"と称される香水・こうずいを汲む若狭井を覆う三間×二間の小さな建物であるが、大仏様の技法を色濃く残す遺構として建築的にも重要)等を掌握し練行衆の勤行に付随する外縁作法を担当}、小綱(しょうこう)兼木守{(こもり)法会の会計・雑法務の担当者}、駈士(くし、湯屋を掌握し、雑法務に携わる)。

この行の間に用いられる松明はその名称からは14種あり、その内で12日の最終日にだけ用いられる大きな籠松明は各自が初日の1日から作り始める。

二月堂の悔過法要は毎日6回ずつ{日中、日没(にちもつ)、初夜、半夜、後夜(ごや)、晨朝(じんじょう)}勤修されるので「六時(ろくじ)の勤行」ともいわれる。六時とも法要の次第や内容は同じだが、唱句やフシに異同があり六時の勤行の一つ一つにも正式と略式の形式があり日を追って変化し全く同一の行ではないので練行衆にとっては容易ではない由。簡単にいえば毎日6回同じ行が行なわれているがそれらは全く同じではないということである。19時からの行を初夜と呼び、その時の練行衆の上堂(じょうどう・お堂に入ること)に用いられるのが上堂松明でそれを多くの人達が見上げている訳で、12日の上堂松明が籠松明である。

三月十二日はいつもの行に加えて、数取懺悔(司の数取りで規定の数の礼拝行を行なう。四職、平衆の上臈(ろう)、平衆の浅臈の3段階に分け、浅臈ほど礼拝の数が多くなる。これは修業の浅い者ほど罪悪を犯しがちであるという認識による)、走り、水取り、達陀(だったん)が行なわれる。

水取りは後夜の勤行を中断して行なわれる。咒師以下六人の水取り衆は十三日の午前1時55分頃堂童子や童子、庄駈士などを従えて行列を作り閼伽井屋に向かう。中に入るのは咒師と堂童子と閼伽棚を荷った庄駈士だけで、北二以下の五人が入り口を厳重に警護する。香水(こうずい・くみ上げられた聖水をこう呼ぶ)は二荷ずつ三往復して二月堂に運ばれ、内陣に残った練行衆が受け取る。この水は仏前の閼伽香水として、また信者に頒つ浄水として一年間用いられる。無事香水の汲み上げが終ると咒師は堂童子を伴って閼伽井屋を出、再び行列を整えて二月堂にもどりこれで水取りの行は終了する。


  

  
<第47回>

 この深夜の行、"水取り"は、あかいやに入った3人以外には井戸から水を汲み上げる行の所作を誰も見ることは出来ず秘儀である。水取り衆が内陣に戻ると中断されていた後夜の勤行が再び続けられる。しかし、この間にも次に来るこの法会のクライマックスである"達陀"の準備が密かに進められている。
三月十三日の午前3時35分頃、この法会の諸々の行事の中で最も華麗かつ躍動的な行である
"達陀"が始まる。かって達陀衆と呼ばれていた8人は現在は"八天"とよばれる。その八天の持つ呪物で法会の場を清め加持し、かつ松明の火の強力な呪力で除災招福を願う。

先ず、司と平衆が八天となり、交互に正面に走り出ては火の粉、香水、ハゼを礼堂の撒き散らし、楊枝を飛ばし、鈴・錫杖を鳴らし、太刀をかざし、法螺貝を吹いて走り帰る。この間に和上と大導師が達陀松明に点火する。それを火天が抱えて正面に現れ、酒水器と散杖を持った水天と向き合って躍り上がるように礼堂に向かって飛び出し、飛び退る。貝・鈴・錫杖の音が荒々しい行の伴奏となる。十回ほどの跳躍の後、火天は松明を引きずって内陣を一周しては、また、正面に来る。内陣は炎に染まり礼堂は熱気に包まれる。こうして松明の加持は十回余りも繰り返され、漸く火勢が衰える頃、咒師の合図で内陣出仕口に立てられ、礼堂にどうと投げ倒された後、再び垂直に立てて床を打ち、内陣に運び去る。(東大寺お水取り 昭和60年 小学館刊)

"達陀"の語の起こりに就いては定説はない由。最も単純明快なのは、練行衆は本行の際は差懸と呼ばれる畳表の付いた歯のない下駄を履いているので、それで床を踏み鳴らす音から来た一種の擬態語とする説。しかしもっと深遠な意味があり「鬼追い」との関連を重視する説もある。

若狭井の起源は、「神名帳を読んで諸神を勧請した時、若狭国遠敷(おにゅう)明神は魚を取っていてそれに遅れた。明神は行法の内容をきき大変に感激してあかみずを献ずることを約束した。
丁度その時黒白二羽の鵜が地中より飛び出し、そのあとから香水が湧き出た」ことによるという。

若狭には遠敷川(鵜の瀬川)がありその鵜の瀬と呼ばれる地点でお水取りに先立って"お水送り"の儀式が行なわれる。かって若狭を訪ねた時それを司どっている神宮寺へ行ったが注連縄を張ったお寺でその名もさることながら、神仏習合の色濃いお寺であった。その若狭の水がこの井戸へ通じているという考えで、それがイランの地下通水路を彷彿とさせ、その水といい、松明といい、修二会を始めた実忠がペルシャ系の渡来人ではないかと考えて、この法会はゾロアスター教と深い関連があると説く人もいる。
三月十三日にも深夜に走りと達陀が行なわれ、十四日にはそれに加えて数取懺悔と結願作法が行なわれ、十五日の午前4時30分頃、「練行衆の満行下堂」となって二月堂は閉鎖される。
判らない事ばかりが多くそれ故に多くの人達の想像を掻き立てて止まない修二会ではある。

水取りや 籠りの僧の 沓の音 芭蕉
   


  

  
<第48回>

 平成4年、第44回正倉院展で展示された木工品では、北倉から大仏開眼会に聖武天皇と光明皇后が着用され、後に献じられたとされている「御冠残欠(おんかんむりざんけつ)」が目玉の一つであった。
その冠を納めた赤漆八角小櫃(せきしつはっかくのこびつ)と赤漆六角小櫃、その中に入れて冠を受けたヒノキの素木で作られた冠架(かんむりかけ)があった。八角の方が天皇、六角が皇后用である。櫃はスギ製で天皇用が高さ高さ49.0cm, 蓋短径55.6cmで、皇后用は夫々46.4, 58.0cmであった。

中倉からの「木尺」(木のものさし)があった。ビャクダン製で、長さ44.5cm, 幅3.0cm, 厚さ0.95cm。長軸方向の中央に一条の線を刻み、一分・五分・一寸の目盛りを刻み銀泥を入れ、一分の目盛りは三寸(一寸は十分)毎に対側に交互に移し、両端から五寸目の位置には、それも銀泥で花蝶鳥文を描き目盛りだけの単調さを救っている。本品の一尺は29.7cmで天平尺の基準値である。

宝庫には十背の馬鞍があり、後世の例えば、戦国時代の武将のそれに比すれば、いたって簡素でなんの飾りもない。ごつく大きくて、前後のアーチにあたる前輪、後輪(しずわ)にクワ、その前後を連結して乗る人を支える居木(いぎ)はカシ材からなる。居木の上に前輪、後輪が乗っかる形である。

宝庫には梓弓三張と槻弓二十四張が伝存。いずれも自然木を削って加工した丸木の長弓で、長さは梓が186.0cm, 槻が265.5cmある。素木もあるが多くは赤や黒の漆をぬってある。漆は優れた塗料であるが、一方では補強作用もある。この年は各種の矢、矢入れ、かの有名な金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)、黒作りの大刀、拵え(刀剣の外装、柄、つば、鞘などの刀身を納める装飾的な部分)のない刀身のみの無荘刀や鉾など武具が多く出陳されていた。宝庫には大刀・刀55口、手鉾5口、鉾33口、刀剣類87口が極めて良好な状態で保存されているという。

しからば何故正倉院に様々な武具が納められたのか、については結論はでていないようである。これらの武具の中には「東大寺献物帳」に記載があり、従って北倉に納められ、早い時期から勅封の対象になっていた一部の品と多くは中・南倉にあった。天平勝宝八年(756)五月二日聖武天皇は崩御された。葬儀はこれまでの皇室の例と異なり仏式で行なわれた。初七日に始まり都の諸寺院において七日毎に法要が行なわれた。その七七日(なななのか、七七忌、四十九日)に当たる六月二十一日には興福寺で法会が開かれ、参加した僧千百人を越える盛儀の当日光明皇太后は太上天皇遺愛の品々を東大寺に施入した。その願文の終わりに重臣達五人の署名があり、その筆頭が従二位大納言兼紫微令中衛(しびれいちゅうえい)大将近江守 藤原朝臣仲麻呂である。紫微中台は天平勝宝元年(749)光明皇后の命令を諸官に分かち下す職掌。唐の中書省と尚書省を改称した紫微省と中台に倣って名づけられた。光明皇后は娘孝謙天皇を即位させ皇后宮職を皇太后宮職に拡大改組することにより孝謙天皇に代わって甥であり事実上の為政者としての藤原仲麻呂の政治的主導権を確立する意図があったといわれる。

当時、宮廷の警備兵は800人、神亀五年(728)に新設された中衛府の軍人が300人、右兵衛府が400人、左兵衛府が400人、それに加えて完全武装の士官が100人といわれ、有事の際、それらの兵団が使えるための武具を、特定の高官しか取り出せない正倉院に備蓄したのではないかともいわれている。藤原仲麻呂は大変な中国通で紫微中台は当に仲麻呂好みの役所名であった。孝謙天皇は母、光明皇太后が崩御された時は上皇であったが、母亡き後は孤立無援となってしまい、鬱状態に陥ったといわれ、その時弓削道鏡がその治療にあたるとて上皇に近づき、光明皇太后の死によって後ろ盾を失った仲麻呂は上皇と道鏡の間を離そうとしたが、仲麻呂に謀反の動きありとの密告があり、道鏡と上皇派により殺害された(藤原仲麻呂の乱)。仲麻呂は中国風の恵美押勝(えみのおしかつ)とも名乗っており"恵美押勝の乱"ともいう。かくして自分の警護のために蓄えられた武器が道鏡によって利用されわが身を滅ぼす具となったのは歴史の皮肉であり、正倉院宝物の中には血生臭い品もあるということであろうか ? 但し、武具は消耗品であり持ち出された大部分は戻ってはこなかった。

   


  

  
<第49回>

 平成5年、第45回展観の木工製品では、南倉からの有名な平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう、らでんの鏡)を収納する木製黒漆塗の箱があった。蓋径41.5,総高7.0cmの円形の箱で蓋板と底板はいずれも4枚の板を矧いで円形とし、側面はヒノキの薄板を筒状に成型した曲げ物である。全面に布を着せ、下地を施し、銀平脱の技法で飾ってある。平脱文は、蓋表では、連珠文帯で内区と外区に分け、内区には大きく羽を広げた二羽の鴨を対称に配し、外区にはざくろのような実をつけた花枝文を六方に配している。この品は木製部分よりも内区を飾る銀裁文が有名で径17.8cmに及ぶ大きさはこの類の細工品としては宝庫の平脱作例中では最大級といわれる。

北倉からの新羅琴(しらぎごと)が出ていた。長さ154.2, 幅30.6cm。十二弦の朝鮮半島の民族楽器という。槽はキリ材ではっきりと浮き出た木目が長い年月を黙して語っている。スギ材で作ったこの琴の櫃もあった。檜和琴(ひのきのわごん、やまとごと)もあって、長さ208.5, 高さ6.8, 幅18.5~23.0cm。
"あずまごと"ともいわれ、わが国固有の六弦楽器である。

かの有名な"木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく・碁盤)"が出ていた。これは昨年(平成17年)の目玉としての出陳品の一つで昨年のその時期の新聞にも大きく紹介されていた。一辺49.0cmの正方形で、高さは12.6cm.宝庫に伝わる三面の碁盤のうちで最も技巧をこらしたた品としてしられている。材は紫檀で、盤面の界線は象牙。三つ目毎に配された17個の花形の星は、花芯をつけ、花弁を象牙で表す。各側面は四区に分かれ、象牙を人物・動植物などの形に切り抜き、毛彫り・淡彩を施して嵌め込む。床脚の刳り面には象牙を貼り、畳摺は象牙で縁取。この碁盤の側面左右の対角線上の各一区は、金銅の鐶をつけた引き出しとし、内部に碁石入れの亀形器がある。この引き出しの一方を引けば他方も同時に出る細工が有名である。染象牙の碁石もそこに彫られたかわいらしい花喰鳥の文様とともに有名になった。この碁盤を収めるための箱(棊局龕・ききょくのがん)も美しい品であった。箱の内外とも全面が塗装でおおわれるため、材の樹種は不明という。その愛くるしい碁石の入れ物(銀平脱合子、ぎんへいだつのごうす)は蓋径11.4,総高4.5cmのヒノキの曲げ物を素地として全面に布着せを施した上に漆を塗って仕上げた品である。二合が出ていたが、そのうちの一つが紅牙撥鏤棊子(こうげばちるのきし)の容器。蓋表の中央に象を配し象の脚元にある岩石から花枝が円形状に象を取り囲むように延びている。銀平脱{漆工芸の装飾技法の一つで、金や銀の薄片を文様に切って漆面に貼り、さらにその上から漆を塗り込めた後、一面に研ぎ出すか(研出法)、文様部分の漆膜を刃物で剥ぎ起こして(剥取法)文様を表出させる技法}の銀板の多くが長い年月の間に剥落し、現在のものはほとんどが後補という。

中倉からの密陀彩絵箱(みつださいえのはこ)があった。縦46.5,横60.7,高14.6cmの長方形の浅い箱で、四隅は角を取り角丸(すみまる)としてある。底板以外は全てヒノキの一枚板を用い、布着せし、内外とも黒漆を地として仕上げられたがこれも長い年月の間に暗褐色に変わってきている。内部と底板は無地。蓋表は、中央にふり返る大きな鳳凰をおき、そのまわりに八つの花枝と、つる草をくわえた四羽の鳳凰を右回りに飛翔させ、四隅に大花紋を配し霊芝雲(れいしうん)を散らしている。蓋側面の文様は中央に花枝、その左右に対称的に飛雲・飛鳥・小花枝を配し、身の短側には、花枝にとまる鳥を中にはさんで飛雲・飛鳥・小花枝を対称的に描いている。身の長側面はこれより複雑でそれらの文様に加えて尾長鳥や蝶が配されている。

これらの宝物の精緻な芸を見ていると、何時の時代にも、そして洋の東西を問わず、卓越した美術工芸品が生まれるためには、作者に充分な時間と生活の保障が必須であることが理解される。

    


  

  
<第50回>

 平成六年、第四十六回目の正倉院展には木工品が多く出陳され、しかも目玉となる品があった。その第一が北倉からの、「国家珍宝帳」に載っている"百索縷軸(ひゃくさくるのじく)"である。これはいわば"厄除けの糸巻き"で、その由来は中国にある。かの地では五月五日(端午の節句)に赤・青・白・黒・黄の五色の糸(縷)をひじに巻きつけて、邪気を払い長命を祈る風習が昔からあり、それが奈良時代にわが国に伝わった。その糸を"百索縷"と言い、それを巻きつける糸巻きが"軸"である。
中央が膨らんだ長い糸巻きで長さ32.9cm, 中央の最も太い部で直径5.4cm。エノキかと推定されている二材を中央で?(ほぞ)で接(つ)いでいる。紡錘形の両端が最も細く撥型(ばちがた)になっており縷は失われている。その縷は長命縷・続命縷・百福百寿索などとも呼ばれた由。
彩色は両軸端(じくばな)部に、白色下地を施した上に軸部は緑系のうんげんの帯に、花芯が緑、花弁が赤のうんげんの五弁花を配し、軸端の頂側を紫系うんげん、胴側を赤系うんげんで挟んでいる。頂面は、中心に緑系うんげんの四弁花を置き、赤系うんげんの九枚の花弁で囲み、さらに表が緑系、裏が紫系うんげんで先端が翻る六枚の花弁で囲み、緑系うんげん帯で縁取ってある。

中倉からの二十八足几{(にじゅうはちそくのき)多足の机}があった。縦54.0, 横104.5, 高さ98.5cm。宝庫には他に十八・二十二・二十四・二十六・二十八・三十・三十二・三十六足と種々あるが形は共通している。用途の明らかなものとしては、三十足几に「卯日御杖机」とあり年中行事の儀式用に用いられたことが判るが現在でも神社で供物・祭壇用として用いられているのを観ることができる。地摺りや脚、天板の断端には白・蘇芳・白緑(びゃくろく)・丹等の諸色で花卉文が描かれている。

次に南倉からの刻彫蓮華仏座(こくちょうれんげのぶつざ、 蓮華座)長径22.5, 高さ8.4cmがあった。 ビャクダンと思われる材から刻出されたもので、上部の蓮華座部と下部の框座部(かまちざぶ)との二材からなり、素木のままで彩色はない。蓮華座部の蓮肉上面には周りに蘂(しべ)、内側には蓮子(れんじ)を密に配し、その外側に蓮弁をめぐらし、下に反花(かえりばな)を彫り出す。框座部は六稜楕円形の二重框座で框の間に仰蓮(ぎょうれん、先端が少し捲れあがって連接している蓮の花弁)を挟む。蓮華座部と框座部との間は二本の鉄製のほぞで接合され、それとは別に蓮肉上面に二箇所のほぞの跡がある。この上に何が載っていたかは不明。

ベン楠箱(クスノキの箱)があった。クスノキのうちでも、特に珍しく変わった杢を示すものをべん楠という。箱は縦30.0, 横26.7, 高11.4cm。それに縦、横、高さが夫々30.3, 27.3, 5.2cmの床脚が付く。四隅を大きく丸めた撫角(なでかく)の方形で蓋は大きく面取りをしてある。正面の錠と背面の二個の蝶番、床脚付台は明治年間に補修したとのこと。本体は当時のままのわけで、複雑な流れるような杢は言いようもなく美しく自然の造形もよくぞここまでと立ち去り難かった。

両面開きの戸棚、黒柿両面厨子があった。総高52.0, 幅65.5, 奥行34.5cmの黒柿特有の縞模様のある両面に観音開きの扉のある厨子で、床脚付き。大破していたが明治26年に補修され源の姿を取り戻したとのこと。今は黒柿の材の大きなものはなかなか手に入らないようで、何年も前、ある展示会で島根県の木工店から文机をやっとの思いで入手したが、それ以後黒柿の大きなものにはお目に掛からない。少し古いお宅では、黒柿の茶箪笥を見かけることがあるので、かつては、黒柿はさして珍しい材ではなかったのかも知れない。まだまだ日本は樹種の多い国とされてはいるが、きまった樹種のみを植林していれば日本の森の前途は暗い。


 

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