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私の”木”遍歴
  
第51回~第60回

 

 

  
<第51回>

 平成7年、第四十七回目の正倉院展は、戦後この院展以外に3回、宝物の展覧会があったことからそれらも含めると50回目に当たっていた。それに因んで第一回正倉院展(昭和21年)で公開された33件の宝物を中心とした展示が行われた。

木製品としては、まず中倉からの、紫檀木画双六局(したんもくがのすごろくのきょく、すごろく盤)があった。この品は平成3年の第43回展にも出陳されていたがその時の文では品名を挙げただけであった。この双六盤は、縦30.6、横54.5、総高17.8cmで周囲に側板をつけ、四隅と長い方の側面の中央に計六個の床脚を立て地摺が付いている。側板の稜角・四隅の床脚の角・地摺の稜角に象牙の角貼(かどばり)が施されている。盤面は、両長辺中央部にツゲの木口(木の長軸方向に直角の断面)材の三日月形を入れ、その月面に木画で唐草文が入っている。それらの左右にそれぞれ各六個づつの花文木画が並んでおり、この花文は双六の駒を配する位置を示している。側板外面には、花唐草文を主として、その間に飛鳥・飛雲および、鳳凰に乗って飛ぶ人物の姿があり細やかな文様が精緻に表現され、さらに、床脚にも花唐草文と雲文、地摺には上面には花菱文、側面には小花文を配している。宝庫にはもう一面これとほぼ同工の双六盤が伝存しており、これも後に拝観したが何れも優劣つけがたい、ため息の出そうな細やかな工芸品であった。

矢張り中倉からの青斑石硯(せいはんせきのすずり)が出ていた。これは昭和62年、第39回展で観た品であったが、その時の展示を扱った拙文では触れなかったので今回それについて記す。

縦14.8、横13.5cmの須恵器の硯が正六角形の青斑石の床石に嵌め込まれており、それが長径30.5、 総高8.0cmの木製台の上に据えられている。その台も正六角形で、天板の芯はホオノキという。床石の周りを囲む上面は紫檀が貼られ、縁に甃(いしだたみ)文木画をめぐらしてある。側面には中央に矢筈文木画(やはずもんもくが)、その上下に甃文木画を配し、稜線には象牙を貼る。床脚は紫檀製でツゲ材を裏張りし、刳形には象牙を貼る。畳摺も紫檀製で、上面と側面を矢羽文等の木画で飾り、稜線には象牙を貼ってある。この木画は緑に染めた角、象牙、紫檀、ツゲ、黒檀、錫を組み合わせたものといい、硯及び床石もさることながら、この木製台の美しさが須恵器と石を一層引き立てている。

中倉から蜜陀彩絵箱がでていた。これは平成5年、第45回展で拝観し、その時の拙文で触れた品と同名であるが、これはそれよりも深くしかも床脚がついているので総高が21.3cmと前者より約cm程高い。文様も異なるが、一番の違いは由来がはっきりしていることである。この箱の蓋表に貼紙があり、"納・丁香青木香・会前東大寺"の墨書により、これが大仏開眼会の前に丁香(ちょうこう)と青木香(せいもくこう)を東大寺に献納した時の容器であることが判る。中に丁香が少量残存している由。

蘇芳地金銀絵箱が中倉から出ていたが、これは昭和62年、第39会展でも拝観し、その時の文で触れた。蓋表には宝相華唐草を全面に描き、中央に領布(ひれ)を翻して舞う半裸の童子と、その下で縦笛と鼓で奏楽する二童子を表す。蓋表の左斜め下から、二童子の辺りにかけては何かで擦ったような文様の剥落が目立つ。

平成4年、第44回展でも出ていた粉地彩絵八角几(ふんじさいえのはっかくき)があった。

この品は宝庫に伝存する多くの献物几の中で最も華麗で保存のよい品の一つといわれ、奈良朝暈繝(うんげん・gradation)彩色の工芸品の代表的な遺例と評価されている。




 

  
<第52回>

 平成八年、第48回正倉院展の木工製品では、中倉からの"未造着軸(みぞうちゃくのじく:巻物の軸)が出ていた。長さ29.7~30.8cmまでの11枚(巻物の一部とみなして一本、二本とは数えないらしい)で、書巻や経巻の巻末に取り付けて料紙を巻き取るための軸である。軸端の形は、先端が開く撥(ばち)型又は銀杏(いちょう)型と呼ばれるものと、棒状の二通りがある。軸木はスギが多く用いられ、稀にヒノキがまじる。軸端の色が面白く、色ガラスのものと木製のものがある。

色ガラスの品は瑠璃軸と呼ばれ、黄・茶・紺・緑の四色がある。緑は銅、黄と茶は鉄、紺はコバルトによる発色で、紺色のみがアルカリ石灰ガラス、他は鉛ガラスとされている。宝庫内では黄が104枚と最も多く、紺の60枚、緑の19枚、茶の5枚とつづく。木製の軸端では、金泥で花卉文と飛鳥を描いた彩絵軸や朱漆を塗ったものがある。兎に角全ての宝物が彩りと文様に溢れていて、それらがまた精緻。

南倉から蜜陀絵盆(みつだえのぼん)が出ていた。小生が正倉院展に足を運ぶようになってからでは、平成二年の第42回展にも2枚出ていた。宝庫には同趣の盆17枚と残片が若干伝存する由。蜜陀は蜜陀僧ともいい、一酸化鉛のことで、荏油(えのあぶら、えのゆ・エゴマの種子から採取した乾性油)や桐油に混ぜると不乾性油を乾性油に変える効果があるという。宝庫にある蜜陀絵はその技法の差異により、?.油に顔料を練り合わせて描いた油画法、?.ふつうの膠絵で描き、その上に全面に油をひいた膠絵油引法、?.両者を併用したもの、の三種類に分けられるとのこと。全部がケヤキ材の轆轤挽きの丸盆である。この時出ていた品は径何れも38.8,高さは5.0と5.3cmであった。

中倉から漆挟軾(うるしのきょうしょく・ひじかけ)が出ていた。長さ100.3、 幅14.5、高さ30.8cmのヒノキに黒漆を施した品で、二段に彫成された脚台に夫々二本の支柱が天板、脚台とほぞで固定されている。後世の脇息は脇に置いて、腕を介して体をもたれかけるように用いたが、この時代のものは膝の前に置いて両肘を支えるように用いたとされる。ただ、戦国時代の大名も時と場合によっては、前に置いて身を乗り出すように凭れ掛かっていた場面も見られるから礼を失してよければどう用いてもよかったのであろう。

碧地金銀絵箱が中倉から出ていた。これは平成二年、第42回展にも出ていて、"碧"の読みはその時は"みどり"であったが、今回は"へき"となっていた。碧はあお、みどり、あおみどりの意があり、音と訓の違いだけのようである。両年の目録の記載を比べてみると殆ど同じである。前回の出陳から6年、その間に新事実が出なければ同一物を解説しているのだから表現が同じで当然であろうが、説明文の大部分が一言一句同じであった。

中倉からの粉地彩絵箱(ふんじさいえのはこ)がでていた。宝物のなかには粉地・・・・という品がよく出てくる。"粉地"とは胡粉(ごふん・鉛から作られる白色顔料)を下地に塗る技法で奈良時代には「唐胡粉」と「倭胡粉」の種別がありそれぞれ純正な鉛白と塩化物系鉛化合物として使い分けられていた由。献物用の箱と推定されており、縦22.4、横28.4、高さ9.4cmの印籠蓋造り、床脚つきの箱。ヒノキ材。箱部分は表面全体を淡紅色に地塗りし赤・緑・青・紫などの諸色を用いて花文を描く。蓋表には中央に覗き花文(花文の一部を覗かせた文様。花文を半裁した形に表すことが多い)とそれをめぐる八個の小花文置き、その四方と四隅に花卉文を配して、全体で一つの複合大花文をなしている。側面は、蓋に小ぶりの同形の花卉文を置き、身には二種類の大ぶりの花卉文を配す。刳形のある床脚が各辺中央と箱の四隅に付き、黄・緑・黒の暈繝彩色(うんげんさいしょく・一つの色をぼかすのではなく、段階的に濃淡をつけた彩色)が施されている。他に楽器になるが、螺鈿紫檀阮咸、紫檀木画槽琵琶があり何れも背面の細工が見事な品であった。

 


  

  
<第53回>

特別展 仏像(一木にこめられた祈り) に寄せて (その1)

閑話休題。
去る11月7日から12月3日まで東京国立博物館で前評判も高かった「仏像 一木にこめられた祈り」が特別展として開催された。いつもの特別展に比べて入館料も高く、図録も高価であったが、内容はそれを上回って密度の濃いものであった。特に図録はいつものsoft coverではなくて立派なhard coverで単なる図録ではなくて研究書、参考書と呼べるくらいで、現にある美術関係の雑誌の特集では早くもこの図録を参考文献に挙げていた。

素人である私がこの観展の意義を述べ立てるなどは誠に厚顔無比の極みであるが、いくつか列挙すると、
1)副題にもあるように、"一木"とあること、その木も神の依り代としての古代人の樹木観を解説していること 
2)"祈り"とは何かを日本古来の宗教である「神」との関連で解明してみせていること 
3)これまで仏像に関わる展観は何回となく開かれたが寺外初公開の非常に有名な国宝仏の展示に成功したこと 
4)そういうことを言えば、他の分野の展観でもそうかもしれないが、殆ど日本中の対象仏を集めたこと 
5)"祈り"とも関連するが対象は"ほとけ"であるのに会場に"神"の"気"が漂っていたこと 
6)時間とお金をかければ出来るとは言わせない、今回の図録は迫力のあるモノクロを存分に配し、解説も大切な素材である木の構造にまで及び非常に密度の濃い出来栄えになっていること
7)会場では「矢張り仏様は本来のお堂でないと・・・」の囁きも耳にしたが、ほの暗いお堂の中に安置されある距離をおいてしか拝観できない仏たちが、ある程度の明るさの中にあって、鉈の削り跡や、ほのかに残る彩色や、衣文の流れ、何よりもお寺の中にあっては漠としか拝観ができない、それ故に見る人に自由な解釈を許す曖昧さを秘めたお顔立ち、がこの会場にあってはその曖昧さを拭い去って、見る人にきっぱりとした解釈を求めたこと 
などである。

1) 先ず"一木(いちぼく)"の意味であるが、文字どおりに解すれば"継ぎ接ぎのない一本の木"である。しかし像の形によっては腕や指などはその長軸と木のそれとが一致しないと強度の点で問題があり、 故に頭と身体の主要部(頭体幹部)を一本の材から彫り出し、必要に応じて小材を補う場合が一般的な"一木造(いちぼくづくり)"である。
インドで生まれた仏教は、中国、朝鮮を経てわが国に伝えられた。その時期については、552年説と538年説があるがいずれにしても、6世紀前半から半ばのことで、百済の聖明王から欽明天皇に仏像や経典が贈られたとするのは共通している。

「善光寺縁起」によると長野市の善光寺の本尊こそが、聖明王から欽明天皇に贈られた像そのものとされている。伝えられた経路ははっきりしないまでも、わが国初の公式に授受された仏像が善光寺にあることになる。その頃はわが国と中国、朝鮮半島との人,物の行き来はかなり盛んであったようで欽明天皇が公式に受け取った仏像、経典以前にも、渡来人が個人的に持ってきた仏像は各種あったに違いなく、宗教としての仏教も人々の間では少しずつわが国に入り込んでいた。
欽明天皇が受け取った像は金銅製であった。そして様々な金銅仏が造られた。其の極めつけが、聖武天皇が国運をかけて造り上げた東大寺の大仏であった。しかし「国銅を尽くして」鋳造した大仏造営は国の経済を疲弊させ、それ以後この国の銅を著しく減らして仕舞い、これも以後次第に金銅仏が造られなくなる遠因ともなったといわれる。

そして仏像は木像が主流となって行く。なぜそうなっていったか? それは金にも銅にも人々が信奉し畏怖の念を抱いて接していた神は宿らず、木にこそ神が宿ると信じられていたからである。そして仏の姿が刻まれた木の種類も様々な要因により時代と共に変化していく。その流れを今回の展示は判り易く展開していく。

   


  

  
<第54回>

特別展・仏像(一木にこめられた祈り) に寄せて (その2)

長野市、善光寺の本尊は絶対秘仏であり現存する人では誰も見た人はいないとされる。それを模して造られた像を善光寺式阿弥陀三尊像といい、鎌倉時代に盛んに造られた。欽明天皇が始めて拝したのも金銅仏(つまり善光寺本尊)、それも比較的に小さないわゆる"小金銅仏(しょうこんどうぶつ)"であったとされる。

日本人自身の手で最初に造られて制作時期が判っている仏像はかの有名な止利仏師の手になる飛鳥大仏や法隆寺金堂の釈迦三尊像であるが、これらの制作は、銅を探すことから始まって、その精製の技術、金メッキの方法等、当時にあっては金銅仏を造るということはハイテク技術の結集であった。試行錯誤を重ねながらようやく金銅仏の最高傑作とされる薬師寺金堂の薬師三尊像や同東院堂の聖観音菩薩立像(しょうかんのんぼさつりゅうぞう)が生み出された。
木彫仏も早くから造られ現存する最古のそれは法隆寺夢殿のかの有名な観音菩薩立像(救世観音)である。その頃の他の木像も材料はいずれもクス。恐らく中国にクスで仏像を造る考えがありそれに倣ったと思われるが古来からの巨樹信仰も根底にあった。クスノキは分類学上クスノキ科クスノキ属の高木で時に直径5m, 高さ40mに達する巨樹となる。日本最大の巨樹は鹿児島県蒲生町にあり、幹周り24m、単純に計算すると直径8m弱、18畳分の大きさとなる。
クスノキの仲間にはニッケイ、ゲッケイジュ等がはいり、何れも強い香りを発する種が少なくない。子供の頃一銭店で買ってしゃぶったニッキはこれであり、その野生種はヤブニッケイとして西日本に広く分布する。クスノキは西洋人の感覚ではシナモンの木という。
クスノキは日本列島では主に西日本と東日本の沿海地方に分布しているが、巨樹(の定義は地上高1.3mの高さで幹周りが3m以上)が多く環境庁(現環境省)の1991年の調査では巨樹総数が全国で55798本、内スギが全体の約25%の13681本、二位がケヤキで8538本、次いでクスの5160本で、クスの分布は西南日本に偏りしかもその約60%が神社仏閣の境内にある。

長野県の樹木図鑑で調べてもクスノキの自生はない。クスノキは巨樹となるため、日照を妨げる点からも密生しにくく、針葉樹のようには集合しにくい。寺社林を形成しているのは人の手が加わった結果と思われる。クスといえば樟脳である。樟脳はカンフル、カンファーともいいセルロイド、香料・化粧品の原料、医薬品、防虫剤として用いられる。現在のような救急蘇生薬がなかった頃は,いざという時はヴィタカンファーが用いられた。後にこの"薬とされていた品"は殆ど全く薬効がないことが証明されて地獄へ落ちた。その頃は「この事態を救うカンフル剤となるかどうか?」などと一般的な表現にも使われていた。樟脳は炭素と酸素、水素の化合物であり構造も簡単で現在は合成されている。かってはクスノキがその原料で,しかも巨樹にならないと採れないとされたから、一時期はかなりの数の巨樹がその犠牲となったが、合成品の登場がクスノキを救った。この木が特有の香りを発することも、神の宿る木としての信任を厚くしたものと思われる。この香りは3000年前の縄文遺跡から出土した材にもなお残っていたといわれる。樟脳はアラビアでは古くから薬として用いられていて、ヨーロッパに輸出されて珍重された。日本では室町時代頃から生産されるようになり、やがて南蛮貿易の主要輸出品の一つとなった。近世に入ると主に薩摩藩が中心となり生産は急増した。かくて樟脳は明治36年、塩、タバコと共に国の専売品にまでなった。この木は鹿児島、佐賀、熊本、兵庫の四県で県の木に指定されている。

            


  

  
<第55回>

特別展・仏像(一木にこめられた祈り)に寄せて (その3)

ではクスノキの防虫効果はどの程度のものであろうか?
クスといえば樟脳。樟脳は前述したように国の専売品にまでなったのであるが、クスノキには除草材としての成分も含まれている。それに関してある実験が行われた。条件の同じ田んぼの土を三つに分け一つはそのまま、他の二つにはクスの枯葉を量を違えて土に混ぜ込んで全部に同じ条件で水を与えて雑草の生え具合を観たところ、ただ水だけを与えた土には色々な雑草が生えてきたのに、クスの枯葉を混ぜ込んだ他の二つでは殊に双子葉の雑草は殆ど全く生えてこなかった、という。この結果を実際の田んぼで試みた。ところが今度は予想に反して、クスの枯葉を鋤込んだ田んぼにも雑草が生えてきた。この結果の分析は未だなされていない。田んぼに張った水のためなのか? 防虫効果は落ちたばかりの枯葉にしかないのだろうか?

しかし、クスノキは間違いなく防虫効果があるようで、この木で箪笥を作れば衣類に虫は付かないようであるし、書架を作れば紙魚の害はないという。
この木はまた、街路樹としても使われている。防火力があるといわれ、関東大震災の際クスノキの植えられた公園は類焼を免れたという。ただ、この木は樟脳という揮発性の成分を含んでいるので一旦火がつくとなかなか消えないとのこと。
蓼食う虫も・・・ではないが、クスノキの葉は葉脈が主脈から三つに分かれるが(三行脈といってクスノキ科の特徴)、主脈から分かれる部分にダニ部屋と呼ばれる小さなこぶが出来ていてその中にはフシダニというダニが住んでいる。そしてその部屋には卵から成虫までいろいろな発育段階の個体が棲んでいる。また蝶の一種、アオスジアゲハはクスノキやこれに近縁のヤブニッケイ、タブノキなど限られた種類以外の樹木には産卵しないといわれ、その幼虫を飼うのにはクスノキやヤブニッケイの葉が欠かせないというから、毒をもって毒を制す、ではないが天敵が嫌う毒の中に身を潜めればこれほど安全なことはないのかも知れない。ただそのような護身策が裏目にでることは人間社会や国家間でも見られることであり、自然界の妙と感心ばかりはしておれない。

日本の古代社会においてクスやツバキ、タチバナなどの常緑樹は「魂振り・たまふり」の木であった{魂は超自然的霊格の一つで、その性質をニキ(柔らか・穏やかなさま)とアラ(生硬・激しいさま)に分けて考えた。タマ(魂)が後にカミ(神)に転じたとされる}。一年を通して変わらない盛んな緑を見、それに触れることにより心身とも元気付けられる。現在は人々が木や森を見るといえば、一般的には春の花見と秋の紅葉狩りであろうが古代にあっては「森見・もりみ」と称して萌え出ずる新緑に触れて自然の「魂振り」に身を曝すという行事があった。クスノキをはじめとする巨樹にはそういう霊的な力があると信じられていた。中でもクスは大木になるので神聖視されることが多く、ことに落雷を受けたものは神霊の宿る「霹靂木(へきれきぼく)、霹は引き裂くように激しい雷鳴、靂は連なる、続くこと」として畏怖された。「雷」という言葉は「神・鳴り」であり、かって宮廷日記にも「神なる」と記されていたといわれ、東北地方で雷をカンダチというのは「神立ち」つまり神の出現の意である。このように樹木に神の存在を信ずるという自然崇拝が一般的である習いの中へクスノキで造った仏像が入って来たのだから霹靂木で造像することは殊の他霊験あらたかと信じられた。

   


  

  
<第56回>

特別展・仏像(一木にこめられた祈り)に寄せて (その4)

木には神が宿り、木は神の依り代であるという思い(信念)は脈々として現在にも受け継がれており、最も卑近な例は神社にある巨樹には大体注連縄が張ってあり、場合によってはその傍らに「御神木」と書かれた標識が立っている。この光景を目にしてもわれわれ日本人はそれを奇異とは思わない。それはそのような情景はごく日常的なものであるからである。当時は仏像を造る素材としての"格"からすると、木は金銅を越えられなかった。だから正式な場には金銅仏が安置され、木彫仏はどちらかというと私的な場に置かれた。聖武天皇の発願により大仏が建立された頃は、天皇や光明皇后それに貴族たちは大陸からの文物の斬新さ、素晴らしさに目を奪われていたから、その人たちはクスノキの仏像などはもう古いという認識に変わっていった。

次いで登場するのが"檀像・だんぞう"と呼ばれる南方の香木を用いた精緻な小像である。"檀"とはビャクダンのことで、周知の如く特有の芳香を放ち扇や香として用いられるが、日本や中国には自生しない南方の樹である。先年の"愛・地球博"を見に行った時インドの展示の中でビヤクダン製品の即売があり、大きな屏風や宮殿風の建物の模型もありしつっこく勧められて宮殿風の小さな蓋付きの小箱を買ってきた。とても彫りが細かく、ミヤンマーの「きんま」ではないが、もしかして視力の良い子供の手になる品ではないかなどと思いながら眺めている。

ビャクダンは常緑の小喬木で成長すると高さ3~10m、太さは60cm位になるという。発芽から一年は自分の力で育つが二年目以後は根に沢山の吸根が生じこれが他の樹木の根に吸い付いて栄養を得る(半寄生木)。葉も花にも香気はなく、「栴檀は双葉より芳ばし(栴檀は発芽の頃から早くも香気を発するように、大成する人は子供の頃から並外れて優れている)」というが、この有名な諺は事実に合っていないようである。というのは芳香を発するのは心材のみで、この部分だけが売買の対象になる。産地ではこの木を商品とするためには、伐採後直ちに皮を剥き長さ70cm位に切って2ヶ月間乾いた土の中に埋めておく。するとシロアリが香りのない辺材を食べてくれるので、それを掘り出して加工するのだという。色の濃い部分ほど香気が高く、根元に近いほど重く堅く香気も高いのでその部分が最上質と評価される。かってはハワイでも産し、ハワイ王朝はビャクダンを最重要輸出品とし、それによって大いに富を得たが乱伐がたたり絶滅。それと共に王朝も滅びた。

「栴檀死して、王朝を滅ぼす」ということであろうか? 中国ではかってハワイのことを"檀島"とか"檀山島"と呼んだ由であるが、それくらいビャクダンの島だった。このハワイの白檀の例を引くまでもなく、現在でも資源戦争は熾烈を極めており、資源の乏しいわが国の存亡は一に資源の安定供給を得られるかに懸かっている。中国の砂漠化は地球温暖化のうねりもさることながら、chinaの燃料として樹木を乱伐したのも遠因とされている。緑の天体、地球といわれるが、このplanet-earthの生物多様性を維持できるか否かは一にその森林資源を守れるか否かである。ビャクダンは一般に白味の色調を帯びるが、上等材には赤味を帯びるものと黄味を帯びるものがあり、前者はインド南部のマイソールやマドラス地方産のものでマイソール白檀、漢名で赤栴檀(しゃくせんだん)、又、産地の南天竺の山が牛頭山の別名を持つことから牛頭栴檀とも呼ばれてきた。後者はその他の地方に産するものの総称で、インドネシア東部に産するものはマカッサル白檀、漢名、黄檀と名づけられていた。白檀の英名Sandal(Santal) Woodはデカン高原の土語に起因するといわれ、インドでは一般にChandanの呼び名が一般的であった。現在使われていない梵語ではカンダナと呼ばれていて、それの漢字への音訳が栴檀、真檀で和名のセンダンはSandalとChandanの音の混交かといわれる。

     


  

  
<第57回>

 特別展・仏像(一木にこめられた祈り)に寄せて (その5)

白檀はインドでは既に、紀元前5世紀頃から香木として使われた記録があり、今日に至るまで仏教やヒンヅー教では儀式に多く用いられ、貴人の火葬の際の薪や棺材としても使われているという。又、材を乾溜して得られる香油(白檀油)を儀式の際に額や上半身に塗る風習があり、医薬品として丹毒の治療薬、解熱鎮痛剤としての効用もありマイソール政庁では専売品である。
このような用途の他、その堅くて粘りのある緻密な材質が細かい彫刻に適し、特に小仏像を彫る材としてその香気と彫り肌の美しさが珍重され、尊像を彫るには三拍子揃ったこの材に対する一種の憧れが高まった。しかし、その緻密さの故にヒノキやカヤのように彫り易くはない。

仏教の東伝とともに、ビャクダンを産しない地域、特に極東では檀像がことの他尊ばれるようになり、わが国でも仏教信仰の広がりとともに仏像の需要がますます高まり、その材の輸入は焦眉の急ですらあった。特に中国では「彫檀の師」と呼ばれた、超絶技巧を持つ彫り師が現われた。
ただ、この材が小喬木で直径60cm位しかならない上に、心材のみしか香気を発しないことから一材で大きな像を彫ることは不可能であり、白檀像の大きさは"一ちゃく手半(「ちゃく」は木偏に旁が桀。大漢語林にも見当たらず。一ちゃく手は手の親指と中指を最も開いた時の指先の距離で個人差はあるが大体25cm)"が標準とされ、このことはよく守られていたようである(材の大きさに制限があるから守らざるを得ない?)。特に十一面観音像については、白檀を用い一ちゃく手半の大きさに造るべきと「十一面観世音神呪経」に記されているという。
白檀による彫像は髪・眉・眼・唇などに群青・墨・朱などを施す他は、彩色や金箔を施さない素木(しらき)像とされた。それらを施すと折角の香気も封じられてしまうし、木肌の美しさも死んでしまう(後にはこの了解も拡大解釈の中に呑み込まれてしまった)。

しかし、白檀は得難く、彫れる像の大きさも限定されてしまうことから、それの代用材が登場してきた。その一番手が栢(かや・柏(かしわ))の木である。柏は古代中国でも香木の一つであり、殊に十一面観音の彫像に際してはインドの香木白檀の代用材として指定されていた。日本の場合には中国の代用材に近い国産材が選ばれ、その選択には暗黙の了解が成立していたとされる。

黄檀に代わる材は中国では柏(栢)、日本ではカヤ・ビャクシン・ヒノキを当て、赤栴檀には中国では魏氏桜桃・桂が、日本では同様にサクラ・カツラが当てられた。他に、中国の香椿(チャンチン)、日本のトウセンダン(楝・樗、オウチ、アウチ)も代用材とされた。そしてこれらの代用材の中にわが国の木彫仏の主要な五種(ヒノキ・カヤ・クス・カツラ・サクラ)が全て含まれており、彫像の材の選択にあたっては、直接間接に聖なる木、白檀による彫像につながりを持とうという意図が伺える。
特に素木像は白檀へのつながりを示ものとされたが、さらに漆箔や彩色の像も白檀による像を内に包み込んでいると解釈された。こうなると材は白檀ではないのに、白檀と思えというごまかしにも思えるが、基本理念としては、最上の材、白檀を用いることを念願した強い願望の現れととるべきという。
ヒノキとカヤは同じ針葉樹の仲間であり、像として時間がたってしまうとその区別は容易ではないとされる。そこで1950~60年代にわが国のある研究者が全国653体に及ぶ仏像からサンプルを採取して光学顕微鏡による識別を行い、飛鳥・白鳳時代はクス、奈良時代以降はヒノキが主要な彫仏の使用材であると結論づけた。しかし、この苦心の調査も後にサンプルの採取に問題があったとして、現在は電子顕微鏡による見直しがなされている。    


  

  
<第58回>

 特別展・仏像(一木にこめられた祈り)に寄せて (その6)

この見直しの結果、ヒノキとみられていた材はカヤだったのでは? ということになってきた。平安時代に入ると仏像は木彫一色となり、この基本的な状況は江戸時代まで続いた。

金銅仏は別にして、乾漆像(奈良時代から平安時代初期にかけて盛んに行われた仏像制作法の一つ。粘土で像の原型を作り、これに麻布を漆で張り重ねていき、後で粘土を取り去る脱乾漆と、木で大体の形を作って心木とし、その上に木粉に漆を混ぜたもので肉付けして望む形に造る木心乾漆がある。有名な作品としては脱乾漆像には興福寺の十大弟子や八部衆、東大寺の不空羂索観音像など、木心乾漆像には法隆寺の六観音像や高山寺の薬師如来像、聖林寺の十一面観音像などがある)や塑像(粘土で作った像。木心に藁などを巻きつけ、これに土をつけて像の形をつくり、表面は細かい土で仕上げる)は詰まるところその起源は渡来品であり、当時の天皇や貴族が中国の流行に飛びついたものであって、日本人の感覚には合わなかった。

木は日本人にとって、太古より遥かに親密な存在であり、神霊の依り代として聖なる存在であった。古来からの樹木観からすると、ヒノキよりもカヤの方が一木彫にはよりふさわしかった。その理由は、何れも彫刻や工芸に適した優れた材ではあるが、基本的に群生するヒノキは象徴性をもつtypeの木ではなく、対するカヤは、自然の状態では群生せず、ヒノキに比べればずっと希少で、一本の木としての存在感や象徴性の点でまさっていると考えられた。事実、1991年環境庁(省)発行の「日本の巨樹・巨木林」によると、その本数でカヤは13位の854本で14位のヒノキの681本を凌ぐ。ヒノキは脱乾漆像の中の木組みや木心乾漆像や塑像の心木として、又、宮殿を始めとする建造物の構造材として認識されカヤとは用途が分かれていた。
乾漆像や塑像は、貴族の嗜好の変化と共にやがて姿を消すが、木による造像は一時的な流行ではなかった。檀像を崇める思いと樹木に聖性の存在を信ずるアニミズムとが交じり合い、その流れは今に及んでいる。

一木造は像の形や大きさに限界があり、平安中期になると仏像に対する広範な需要にも応じきれなくなくなり、そこから日本独自の造像技法である寄木造が生み出された。主要部分に複数の材を組み合わせる技法により、より合理的で自由な、又、部位ごとの分業制作により規格化された仏像の大量制作が始まった。しかし、これらの像は個性的ではなくなり、一木彫が持っていた彫りのもつ勢いと緊張感は薄れ、そこから生ずる霊威にも欠けたものとなっていった。そして東国を中心に鉈彫りが生まれた。その中には33年に一度しか開扉されないという

千葉、蓮蔵院の聖観音菩薩立像があった。私が拝むのは最初にして最後であるこの観音様は高さ105.8cmと小ぶりであったが、少し口を尖らせて「ふん、お前なんか!」といわれている雰囲気であった。こんな仏像もあるのかと最も驚いたのは京都・西往寺の宝誌和尚立像であった。神通力を持った中国の僧が自分の顔を引き裂いたところ、中から十一面観音菩薩が現れたという言い伝えを像にしたものとのこと。顔が正中(中央)で左右に裂け、両眼、両眉毛、鼻、口と頭上面の一部が見えていた。両眼は上目蓋が円に近く閉じられ、中からのぞいている眼は本来のそれより少し小さく、四つの眼が一線に並んでいた。顔面、耳、両眼瞼とも全て鉈目が刻まれ、和尚様には申し訳ないが兎に角奇怪で夢にまで出てきそうであった。厳しい修業の結果、観音様に化身したというのであろうか?

   


  

  
<第59回>

 特別展・仏像(一木にこめられた祈り)に寄せて (その7)

今回の展示の白眉はこれまで門外不出の滋賀県向源寺(渡岸寺観音堂所在)の十一面観音菩薩立像のお出ましであろうか? この寺へは三回行った。信仰の厚い土地の人々により何度か損壊の危機を救われたことで知られているこの像は数奇な運命を辿ったが故に更に輝いてみえる。湖国(滋賀県)は十一面観音の宝庫といわれ、それに関する著作も少なくない。かつて「びわこ国体」開催を記念して開かれた「湖国の十一面観音展(写真展)」ではその撮影を担当された写真家石元さんが足を運ばれた寺は三十一に及んだ。一木から仏像を彫ってきた人たちは像の完成の瞬間をその都度経験した筈である。この世に生きる人達は、夫々の生業の場で、持続する喜びや、何かが完成、完了する時の感激を経験し、それがその人の生きがいになっている場合も少なくない。

鉈彫りの発生は、ノミ目を遺すことにより、像が完成に至る過程の喜びを形に遺しているのであり、ノミ目はいわばその瞬間の記号的表現と解されている。本来なら像の表面をより滑らかに仕上げるべきところを、ナタ目を遺すことで、木の存在感を生かし強めていると解釈されている。

鉈彫りは関東・東北など都を遠く離れた東国に多く、奈良・京都での制作例はないという。鉈彫り像の表面は凸凹しているので、光が当たると影が生ずる。ゆらめく光と影が木の中から出てくる霊のうごめきを表す。瀬戸内寂聴さんが貫主であられて有名になった岩手県天台寺の聖観音菩薩立像も高さ118.2cmの美しいお像であった。天台寺のある浄法寺(地名)へは漆器を求めて三度行ったが天台寺の近くまで行けたのは一度だけであった。この天台寺の寺域はもともとカツラの霊木の根元に湧く泉、桂泉(かつらしみず)をめぐる信仰の地といわれ、この寺に現存する平安の古仏13躯は全てカツラを材から彫りだされ、その代表として、ご本尊が展示されていた。このご本尊は桂泉(けいせん)観音として人々に尊崇されてきた。 神奈川県弘明寺の十一面観音菩薩立像は高さ180.7cm。ケヤキの一木から彫り出し、顔面は殊に細かな横方向のノミ目を施した重量感に溢れる尊像であった。

江戸幕府はキリスト教の信仰を禁じ、宗門改めによって人々がどんな宗教を信じているかを調査させた。その役を仰せ付かったのは寺院(僧侶)であった。人々はわれ先にと寺院の檀家となり信仰心の薄い俄か信者が急増し仏道は地に落ちた。又、幕府は寺院法度により本山による末寺の統制を強制し、本山を支配することで末寺をそして民衆を把握した。既に信長と鋭く対立した寺院もあり、その多くは秀吉に課題として残されそして制圧された。根来塗りで有名な根来寺も信長とは協調的であったが、その死後領地の配分を巡って秀吉と対立し結局秀吉により壊滅させられた。

もう何年か前、未だ尋ねたことがなかった紀州漆器(黒江塗り)の産地、海南市へ行き、有田川に沿って、国宝の絵巻(本物は京都国立博物館が保管)で有名な粉河寺、根来寺、金剛峰寺(高野山)を廻ってきた。紀州漆器は室町時代からといわれる黒江塗りと有名な根来塗りとからなるが、江戸時代は紀州藩の保護と豊富なヒノキ材に支えられて日用品漆器の大産地として発展した。しかし、いわゆる根来塗りはどこの産地でも手をつけているので、海南市の漆器会館に特に根来塗りが多いとは思えなかった。

根来寺は16世紀後半にその最盛期を迎え、山内の坊院は450を超え、一説には僧の数は六千とも七千ともいわれている。山内での用途に応えるために様々な生業が営まれていたようで自給自足の可能な門前町を形成し、発掘調査の結果では高価な輸入陶磁器すら発見されている。その木製什器類の塗りが後に名付けられた「根来塗り」であり、その時代の根来塗りは秀吉との戦いで灰燼に帰し殆ど残っていないといわれる。

    


  

  
<第60回>

 特別展 仏像(一木にこめられた祈り)によせて (その8)

一木彫から離れるが、根来寺は16世紀後半にその最盛期を迎える。その規模については、当時の国際交流がものをいう。すなわち、当時、許されて来日していたキリスト教宣教師の本国への報告が残っている。それらに拠ると、ガスパル・ビレラ「耶蘇会士日本通信」(1571年)僧侶200余、二万人の兵力。ルイス・フロイス「イエズス会日本年報」(1585年)坊主 八千人~一万人、寺院一千五百余。両者の報告の間に14年の時が流れているが、僧侶の数に開きがありすぎるとされ、近年の坊院跡の発掘調査から勘案すると坊院は四百数十程度、僧侶数は三千人程度かといわれるが、これはあくまで目安に過ぎない。フロイスは同じ報告の中で高野山の僧侶数を四、五千人としており、それからすると分家である根来寺は本家である高野山の倍の僧侶を擁していたことになり、その状況は是認されている(根来寺の歴史と美術 東京書籍)。
16世紀初頭は根来寺が守護方や荘園領主と三つ巴の争いに明け暮れている時代であった。しかし16世紀の天文年間になると守護方や荘園領主が一斉に没落し、泉南地域は根来寺の支配下に入った。

信長に対して根来衆(僧兵)は終始協力的であった。天下統一に乗り出したばかりの信長にとって、畿内からも反逆の火の手が上がる中で、強大な根来衆を敵に回すのは極めて危険であり、むしろその武力を必要としていた。根来寺やその寺領荘園にたいしても、紀州の他、和泉や河内南部に拡がる根来衆の政治的・経済的権益にたいしても信長は支援も干渉もせず黙認の態度を取った。

信長が本能寺の露と消えた後を狙う秀吉にとって自領に接して強大な兵力を擁する根来衆、雑賀衆(一向宗徒)は、この世から消されねばならない厄介者であった。小牧・長久手の合戦で家康・織田信雄の連合軍に勝てなかった秀吉は、根来衆、雑賀衆とは何回かの戦いにより彼らの戦力を削いできた。そして彼らにとどめを刺すべく大軍を整えたが根来寺、粉河寺とも戦火でではなく焼失してあっけなく幕は下りた。根来寺(跡)に立って広い傾斜地に残された大師堂と大塔を見やる時、ふっと、薬師岳へとザラ峠を過ぎた折に佐々成政を想ったと同じような感慨に包まれた。

徳川幕府の仏教政策により庶民の造像では台座・光背は簡素に作り、漆塗りは施さず、膠地とし、質の落ちる金箔、金泥を用いるなど経費をかけない方法がとられた。そのような時円空と木喰が現われた。両者はノミだけで像を彫り上げ飾りは殆ど施さず、宿と食事の提供と、材料の用意を手助けしてもらい、何時も庶民と共にあった。

円空は鉈で割った断面をそのまま残し、彫った面のノミ跡もそのままである。顔面は眉と目を夫々一本の線で表わし、四肢ははっきりとは表現しない。木喰は、表面を滑らかに仕上げ、全体に丸みを帯び、微笑むような像が多く、顔面ははっきりと彫られている。 岐阜県高山市に千光寺という高野山真言宗の寺があるが、元禄年間、円空はこの寺に滞在して多くの像を彫ったといわれ、事実この寺には沢山の円空仏があって高山祭りを見に行った帰りに拝観したことがある。しかし、何故か、千光寺からは今回の展示に一体も出ていなかった。

今回の140躯を越える仏の像は7世紀から19世紀初頭の木喰仏まで千年を超え、造形はさまざまであったが、展示の主題の如く、それらの多岐に亘る造像は全て一本の木からなされていることで共通であり、奈良の都の寺々を飾った御仏(みほとけ)達は金属製であったのに、都が平安京へと移るころからの造像の素材は木へと回帰した。巨樹信仰は現在の日本でも健在であるが、円空のようにどんな木片も像に変え、それを見る人、触れる人に霊の存在を知らしめた。 今回の展示はたまたま一木彫の仏であったが、日本人は古来木の民であり、意識するとしないとに関わらず、これからもそうであり続けるであろうと強く印象付けられた。

   

 

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