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私の”木”遍歴
  
第61回~第70回

 

 

  
<第61回>

 毎夏、孫たちのお供をして海水浴に行くのがここ数年のわが家の習いである。しかし、小生は、どっちみち泳げないので、海へ行く狙いはその近くにある漆器産地か木工品の店を訪ねることにある。昨年は新潟県の村上市だったので、猛暑の中、堆朱・堆黒を求めて漆器の店を訪ね歩いた。今年は沖縄。那覇にある琉球漆器の有名な店“紅房(べんぼう)”へ初めて行ったのは1992年。その時はめまぐるしく移動したのでじっくりと見て歩く旅ではなかった。しかし、琉球漆工史の中で一時期を画した“紅房”は2001年4月に刀折れ矢尽きて閉店してしまっていた。従って“紅房”へ行ったのは1992年が最初にして最後であった。

わが国にある漆工品の美術館・博物館は、石川県輪島市のそれと沖縄県の浦添市美術館しかなく、かくなる上は何としても浦添へ行かなくてはと読谷村の少し北にある海沿いの宿から滞在中使うことになっていたレンタカーで出かけた。そして、そこには”紅房“との予想だにしなかった出会いが待っていた。現在は大小の美術館・博物館には大抵museum shopがあり、そこでの売上が結構その館の収入に寄与しているのではないかと思われるが、浦添市美術館のshopに一点だけ文庫がありそれが何と”紅房“製であった。全国の漆器産地を訪ね歩いて、出来るだけその産地の特色を持った文庫を探し求めて20年以上になるが、今年、最後に残った山口県の“大内塗り”への旅にも行って来られたので、これで「伝統的工芸品」に指定されている22か所への旅が全部終了した。

琉球漆器の大御所であられる前田孝允(こういん)さんは、“琉球漆器の技術・技法は多岐にわたるため、他の産地のように明快な説明は不可能に近い現状である。何故なら、何をもって琉球漆器と定義するのか、その答えは今後の研究にまたれているからである”と述べておられる。
そのmuseum shopの陳列戸棚のなかにひっそりと置かれた一点の黒塗りの堆錦(沖縄特有の技法で、漆に顔料を混ぜて叩いて延ばした「堆錦餅(ついきんもち)」を文様の形に切って盆や箱に貼り付ける。それにより文様の立体的な表現が可能になり、18世紀以降の琉球で盛んに行われてきた)を施した文庫は“紅房”の最後を語って余りがあった。

慶長14年(1609)琉球を侵寇して薩摩軍は、首里城の宝蔵にあった宝物をことごとく奪い去り、大御所徳川家康・将軍秀忠はじめ有力大名への贈り物とした。王朝時代の琉球は中国と進貢関係にあったが、徳川幕府による鎖国政策は琉球王朝の対外貿易をますます盛んなものとし、加えて明朝のとった鎖国政策は琉球をして明の窓口とした。その琉球を支配した薩摩藩にとっても琉球は大切な外への窓口であり、大きな収入源でもあった。薩摩藩の琉球支配は過酷であったが、琉球の工人達はよくそれに耐えて、結果的には工芸の大きな進展をみた。

“紅房”が琉球漆工史に果たした役割を概観すると、1927年(昭和2)沖縄県工業指導所が設立され、染・織・陶・漆の4部門がおかれ、漆工では、革新的で敏腕の技能者、生駒弘が主任となった。1931(昭和6)沖縄漆工芸組合が発足。1935(昭和10)頃より同組合が「沖縄漆工芸組合紅房」の商号を名乗るようになった。1942(昭和17)時の首相 東条英機は工業指導所陳列品を非戦時的贅沢品と非難し、1944、10月、空襲による破壊を免れた工場が軍に接収され活動停止となる。1947「合資会社 紅房」発足、漆は台湾からの密輸。1948米軍司令部のgift shopに漆器を納入、軍人軍属に人気が出、注文が増える。1951「株式会社 紅房」正式に発足。しかし全国漆器産地のどこもが直面しているように、漆器に対しての需要は衰退の一途であり、“紅房”とて、さまざまな経営努力も空しく、2000年の九州・沖縄サミットでの円卓、食器類の納入を最後の華やぎとして、その翌年4月終焉の時を迎えた。

   


 

  
<第62回>

 琉球漆器 (その2)

浦添市美術館は国道330号線沿いにいくつもの八角屋根の集合体としてひときわ異彩を放っている。今年で創設18年目にあたる。琉球漆器の技術・技法は多岐に亘り、殊に王朝時代は四大伝統的工芸の一つであって、王の威光を内外に示し貿易を支える重要な役割を担っていた。そのような歴史から、漆器は本土におけるよりも一般大衆により身近な存在かと思っていたが、「この美術館が出来るまでは、地元の人達さえ琉球漆器をまとめて見る場がなく、琉球漆器のすばらしさは一般には知られていなかった」と同美術館の学芸係長は書いておられる。昭和58年に「琉球漆器の美」という展覧会が開催され、それがきっかけとなって、琉球漆器を見ることができる施設への要望がたかまり7年の歳月をかけてこの美術館が誕生したという。そういえば、いくつかの漆器産地では、名称は“漆器会館”とか“地場産業振興会館”とか色々ではあるが、そこへ行けば地元産の工芸品を見ること、手に入れることが出来、所によっては造り手の紹介コーナーを設けて、そこの該当者を一定期間で入れ替えている所もある。

その浦添美術館の収蔵品の中に“紅房コレクション”と呼ばれる一群があり、“紅房”が元気であった頃の品、そして終焉の時を迎えて買い取った品がある。かくて私がshopでお目にかかったのは“紅房”最後の作品の一つで、作られたのは高名な方。現在は眼疾のため仕事は出来ない由。その文庫は、かつて“紅房”で求めた文庫が、“琉球の朱”の上を堆錦の漆黒の龍が跳ねる図柄であったのに、この文庫は漆黒の地の上に山水図の堆錦が施され、緑も加わって15年前に求めた文庫とは対照をなす。その点でも貴重な品である。他の漆器産地でも緑をつかった作品を見ないわけではないが琉球漆器では、特有の朱に加えて緑が美しいように思う。

第二次世界大戦からの復興期にあっては、沖縄は(現在も)米軍基地が多いことから、アメリカ人の漆器に対する興味(好奇心?)が強く彼等からの様々な注文に応じての製作で息を継いだのも事実である。アメリカ人に限らないが、漆器(japan)を知らない欧米人は、殊に薄手の漆器をプラスチックと思っているくらいだから、この薄い器の本体が木であるとは初めは中々理解出来ないようである。これは文明のもたらした悲劇であり、簡便、大量生産(安価)の追求は身の回りから“自然”を奪い、さらには心の安らぎさえも損なっている。

例えば,漆器の椀は陶器をやプラスチック製に比べて価格は確かに高い。しかし、両者の及ばない利点も沢山にある。例えば、熱い食べ物、飲み物を入れても器は両者のようには熱くはならない。破損しても修理が出来る(漆は本来接着剤であり保存料でもある)。大切に扱えばその寿命は極めて長い。現代はなべて使い捨ての時代であり、その結果良い物を長く使うという時代ではなくなってしまった。ただ、大切にはしないが漫然と余りに長く使っていると文明の利器もCO中毒を起したり、発火したりする。これは生物の経年変化と同じく全ての物は生命の有無に関わらず劣化(大部分は酸化と磨耗)するという大原則からは逃れられない。漆を塗るということは、その対象物によっては、かなり乱暴に扱っても大丈夫という保証でもあるが、器物・什器類にあっては、物を大切に扱う心を養うという“躾”の意味あいもあると思う。島崎藤村が子供向けの著作の中で言っているように、「その気になれば身の回りの全ては我々に何時も何かを教えてくれている」のである。

琉球漆器の他産地のそれとの違いは色々あるが、あのなんともいえない“紅”は琉球だけのものである。その“紅”の源は豚の血液である。琉球の人達は古来豚肉を好む。したがって豚血(とんけつ)はいくらでも手に入り、それを地塗りに使うというのはまさにその土地に根付いた技法であり琉球漆器の大きな特徴である。

 


  

  
<第63回>

琉球漆器 (その3)

前々回触れた「堆錦餅」はある程度の厚みがある。厚みがあればそれだけ漆の乾燥は難しい。ところが沖縄の年平均気温は22.4℃、平均湿度が76%という。この高温多湿が漆の乾燥には極めて好条件で、先の「豚血」と共にこの風土が堆錦を沖縄特産とした。
その豚血であるが、現在は用いられていない由。最近は質のよい合成樹脂が用いられている。上質の品には下地にクチャと呼ぶ沖縄で採れる地の粉を混合し練り合わせて作られる。かつては沖縄でも漆が採れたようであるが、元禄の頃には本土から移入していたとの記録がある。沖縄の朱は明るく南国的であるが、それは豚血を下地に使っても、合成樹脂であっても変わりはない。あの朱が出るのは、一にも二にも高温、多湿の風土の賜物という。

メキシコにも琉球の堆錦と似た塗り物があるというので、日本の漆芸家が調査に赴いたが、その本体は油であった。器物に油と顔料を練った塗料を塗り、乾燥した後にその上に油を塗り石粉又は顔料をよく摺り込むと厚い顔料の層ができる。生乾きの状態でその上に文様の下図を描き、茨の棘の先で必要な図柄を残してあとは掻きおとすと肉高の文様だけが浮き上がる。後は毛彫りを施して布等で軽く磨くとつやが出て仕上がりである。

日本産漆の平均的な化学組成は; ウルシオール 60~65%(アルコールに溶ける)、ゴム質5~7%(アルコールには溶けないが水に溶ける)、含窒素物 2~5%(アルコールにも水にも溶けない)、酵素(ラッカーゼ)0.2% でその成分・組成は地域、季節により多少の違いはある。これらの成分が分散して存在する様態は油中水球型(脂の中に脂に溶けない成分がゴム質水球として存在している状態)のエマルジョン(乳化状態・化粧液は多くがこの形)である。一般に物が乾くといえば、その中の水分や揮発性成分が蒸散することを指すが、漆の場合は水分を取り入れて固くなる(固化)ことを乾くと表現しているので、正しくは乾燥とはいえない。

琉球漆の“赤”はかっては『豚血』であったが、沖縄以外での赤色漆の顔料の成分には二種類がある。
一つは硫化水銀を用いた「水銀朱」で最も古くからある“赤”。これは火山活動の産物であり、わが国は火山列島なので、いたるところに存在する。前に触れたようにそれは地名「丹」や「丹生」として残っている。漆工芸は正倉院の宝物にもみられるように奈良時代に既に盛んであったが、その当時は盛んに造られる仏像や寺院の装飾に用いる金箔用の金を岩石中から取り出して金として分離するのに水銀は必須であった(空海が高野の地を選んだ理由の一つといわれる)。
もう一つの赤漆は「ベンガラ」と呼ばれる酸化第二鉄の粉末による発色である。この赤も粒子が細かいと水銀朱と似た色調を呈し色だけでは区別出来ない場合もあるという。酸化第一鉄と漆が混ざると黒に発色して黒漆となり、同じ鉄でも二価と三価で発色が異なる。

沖縄が琉球と呼ばれた14~15世紀には漆器も中国の影響下にあった。17世紀には琉球王府に貝摺(かいずり)奉行所が出来て漆器製造に関する一切を管理していたが、奉行の下では筆者、貝摺師、絵師、木地挽等あわせて17名からなる職能集団を形成していた。

琉球に侵攻してその地を支配下においた薩摩藩はこの制度を利用して漆器の生産に励み江戸幕府や主要大名への献上品にしたりした。薩摩藩に組み込まれた琉球ではあったが、鎖国の体制には縛られずそれまで通り自由貿易国であった。それにより、薩摩藩も利益を得たし、中国も琉球の持つ貿易の版図の広さは捨て難く、当の琉球を始め、薩摩藩(ひいては幕府にとっても)、中国にとっても、琉球の貿易はそれぞれに利益をもたらす大切な業態であった。

   


  

  
<第64回>

 しばらく逸れた話題にとり付かれていたが、又、正倉院展に戻って・・・・・・
平成九年、第49回の正倉院展における“木”の製品では、漆花形箱(うるしのはながたばこ)がでていたが、これは既に以前拝観した。
四重漆箱(しじゅうのうるしばこ)という小箪笥があった。総体は幅53.1,奥行38.3,高37.81cmで、名前のとおり四個の引出しがあり、最上段のが施錠され、二、三、四段目は夫々正面両端内側に掛け金をつけて身の内側に留められるようになっており、最下段の引出しから順に留めて、最上段のを施錠すれば、四個とも開けられなくなる。明治期に残材を基に大部分が復元された品。

中倉からの黒柿蘇芳染金銀山水絵箱(くろがきすおうぞめきんぎんさんすいえのはこ)が出ていた。縦18.0,横38.8,高12.5cm印籠蓋造り、床脚付きの箱。名称のとおり、黒柿を紫檀に似せるために蘇芳色に染め、金銀泥で山水、花鳥を表している。蓋の表は四辺から色々な樹木をいただいた山岳が立ち上がり、その間の空間を鶴や雁などの鳥が飛翔している。金泥による山岳の遠近法が群を抜いて巧みといわれ、当時としては最新の唐代水墨画の技法が取り入れられている点で意義のある品の由。

沈香木画箱(じんこうもくがのはこ)が出陳されていた。縦28.0、横44.6、高14.6cmの献物箱で逆印籠蓋造り(蓋の方に立ち上がりを付ける)。中倉には沈香の薄板を貼り付けた木画装飾の献物箱が三合伝来しているが、その内で最も精緻な出来という。蓋表は、象牙、黒檀、矢羽根文木画により六区画に分けられ、その内側に菱形の薄い沈香板を石畳文に貼り付けてある。面を分ける矢羽根文は金・銀・紫檀・黒檀・象牙・緑染め鹿角・黄楊木(つげ)などからなり極めて多彩である。箱側面も同様の細工であるが、木画に用いる材料に金線や錫線が含まれているのが珍しいとのこと。

粉地彩絵几(ふんじさいえのき)という献物机が出ていた。縦38.5、横38.0、高9.2cmで、天板は檜の柾目の一枚板。全面を鉛白(えんぱく、塩化物系鉛化合物で奈良時代には胡粉・ごふん と称した)に赤色を混ぜて淡紅色に塗り、天板側面には赤い梅花形の五弁花を長辺に九個、短辺に七個配している。天板裏面の四隅に付く華足(けそく、机・台などの脚で華形の装飾のあるもの)は上下二段に彫り出され、上段は青系暈繝(うんげん)、下段を緑系・赤系・橙系暈繝で彩っている。天板裏面中央に元の所在を示す「千手堂」の墨書と同文の墨書張り紙がある。「千手堂」は千手観音像、等身の銀盧舎那物を安置したことから「銀堂」とも呼ばれたが治承の兵火(源平の乱で東大寺が興福寺とともに源氏方に味方したという理由で平清盛の反感をかい、治承4年・1180年12月28日、平重衡をして東大寺、興福寺を焼き討ちにさせた)以後消息不明という。東大寺大仏殿の北西の隅に創建当時の伽藍配置の模型があるが、そこにも「千手堂」はないし、東大寺が編集した「東大寺」という本にも載っていない。
桑木木画碁局(くわのきもくがのききょく)、三十足几(さんじゅっそくのき)は何れも以前に拝観した。解説文で前回の「棊」が今回は「碁」と変わっていた。意味を重視して判りやすくしたということであろうか?

有名な蘭奢待(らんじゃたい・黄熟香・おうじゅくこう)も出ていたが以前に拝見した。

            


  

  
<第65回>

平成十年、第五十回目の正倉院展の木工製品では、以前に既に拝観したかの有名な漆胡瓶の他、これも前に出ていた木画紫檀双六局、それのもつ政治的背景が重要とされる矢張り以前に拝観した赤漆文欟木御厨子が出陳されていた。
以前に拝観した紅牙撥鏤尺の他の色のがあった。同じような造りで配色の異なる緑牙撥鏤尺である。これは紅牙のそれより幅、厚さが少し大きく作りは豪快かつ端正と評される。舶載品の可能性が高いとされ、六枚の紅牙のそれと共に緑牙の二枚も赤漆文欟木厨子に納めて奉献された。
以前に拝観した子日目利箒(ねのひのめとぎほうき)と子日手辛鋤(ねのひのてからすき)も出ていた。

この年は伎楽面が6点出ていて、伎楽面中ただ一つの女面である呉女(ごじょ、当時は「くれおとめ」と呼ばれていたという)が出ていた。呉女は法隆寺献納宝物中に二面ありといい、全部では三面あるが、これは髻(もとどり)が左右にあり、頬も下膨れではなく他の二面とは異なる由。伎楽の最後に登場する胡人(西域諸国の人)の酔っ払い(酔胡)の集団の長である酔胡王の面があった。八人の従者(酔胡従)を従える長は最も凄みのある面構えで、つり上がった眉、極度に内転した眼球、三日月形の口、そして何よりも極東の人ではない尖って口の前まで達する鼻尖。赤味の強い皮膚。凄みの裏返しは何とも言えずユーモラス。何れも桐材で作られ必要に応じて他材を剥ぎつけてある。

他には几(机)が2点。その一つは、蘇芳地金銀絵花形方几(すおうじきんぎんえのはながたほうき)。縦38.2、横41.2、高10.0cm。天板は檜材の柾目の一枚板で長方形の各辺に四つの弧を刳って花形とし、側面は弧の部分が緩やかに膨出しながら下端へと斜めに内側へ下る。上面はかって淡紅色であったが殆ど剥落。見所は側面の彩色で、膨出部は蘇芳色の地に金泥で花喰鳥と花卉、陥凹部は同じ地に銀泥で珠文を描く。華足(けそく)は葉形を二段に彫り出し、白地に上段は青、下段は赤を暈し塗りし、上下とも金泥で葉脈を描き加えてある。

もう一つの机は、粉地金銀絵八角几(ふんじきんぎんえのはっかくき)で、長径45.2,短径43.3、
高9.6cm。天板は檜材の板目の一枚板。円形に浅い刳りを加えて僅かに横長の八稜形。側面は花形方几と同じように緩やかに膨出して波うち、下端は斜めに内側へと下る。上面は淡い白。濃い白で縁取り、側面、下面も濃い白とし、側面には金泥と黒による花卉文が連なる。華足は葉形を二段に彫り出し、その表裏とも濃い白を塗り、銀泥の縁取り線を施す。

木製の箱では、沈香木画箱(じんこうもくがのはこ)があった。縦12.0、横33.0、高8.9cmの長方形で印籠蓋造り。素地に柿材を使い、蓋・身とも沈香の薄板貼りを基本とし、上面、側面は紫檀の帯で囲って、内外の二区に分け、上面及び長側面には三、短側面に一の長方形の区画を設け、その中に山水を背景にした鹿の図、雲中麒麟図、花卉図の三種が配されている。それらの絵の上に水晶板を嵌めて絵を透かし見せる。水晶板の縁と稜角沿いには石畳文と矢羽文の木画を施し、その材料には紫檀・白牙・鹿角・黄楊木(つげ)などが使われている。兎に角、表現が難しい手の混みようで、正倉院の箱の中でも特異な部類のようである。

他に、紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ・寄木細工の琵琶)と新羅琴があった。前者は宝庫に伝存する五面の四弦琵琶の一つで、これらはペルシャにその起源をもち、早くに中国に伝わり、奈良時代にわが国にもたらされたという。

   


  

  
<第66回>

平成十一年、第51回目の正倉院展での木工製品は、御床(ごしょう・聖武帝が使われていたとされる木組みの寝台)を始め、金銀絵木理箱(きんぎんえもくりのはこ)、柿厨子(かきのずし)、仮作黒柿長方几(げさくくろがきのちょうほうき)等既に拝観した品も何点かあった。

中倉から密陀彩絵箱(みつださいえのはこ・献物箱)が出ていた。縦32.0、横43.8、高19.0cm。木製黒漆塗りに彩色した箱で、装飾は唐花文。円形の主文と菱形の副文を交互に組み合わせる手法で、正倉院や法隆寺の錦などの織物によくみられる。赤・白・淡緑・褐色・金箔が用いられ、全面に油状の成分を塗って保護する、油色(ゆしょく)の技法が採られている。

同じく中倉から蘇芳地金銀絵箱(すおうじきんぎんえのはこ)が出陳されていた。矢張り献物箱で、印籠蓋造りであるが、蓋が身より少し大きく、蓋の寸法では、縦30.3、横21.4、高2.0、身の高6.6cm。蓋と身の表面を蘇芳地とし、それに金銀絵の花卉・蝶・鳥・飛雲などの文様を配し、これに格狭間(こうざま)のある床脚を付けてある。蓋の上面には、その四隅と中央に大輪の唐花文様を置き、その間に蝶や鳥などを左右対称に配する。身の側面には唐花文の中央に鸚鵡を向かい合わせ、短側面では唐花の花輪に乗る鳥を向かい合わせて描く。底裏には授帯(じゅたい・本来は古代中国で、官職のしるしとして身につける印を結びつけた組紐、後世、仏像のようらくなどもそう呼ぶこともあった)をくわえて羽ばたく鳳凰と、獅子に似た瑞獣(ずいじゅう・おめでたい獣)を重ねて描き、これをめぐって銀泥の飛雲と金泥の蝶・鳥が表現されている。

赤漆密陀絵雲兎形櫃(せきしつみつだえくもうさぎがたのひつ)が出ていた。蓋長99.0、蓋幅68.0、総高48.4cm。四脚をもつ杉材製の被蓋造りの唐櫃。外面は木地を蘇芳で赤く染め、透漆をかける赤漆(せきしつ)の技法。身の二つの長側面には、中央に大きく枝を広げた花樹をおき、これに飛びかかろうとする有翼の兎を左右におき、短側面には、左向きの孔雀一羽を中心に四株の花枝を描く。これらの絵は、まず、下図に従って筋彫で輪郭を引き、それに沿って緑青を油で練り合わせたもので図柄を描く、油画法による密陀絵である。

粉地金銀絵八角長几(ふんじきんぎんえのはっかくちょうき)があった。檜材で、天板は横長の八稜形。天板の縁は白く塗り、その内側は白緑の配色。天板側面は白地に銀泥で飛鳥をまじえた草花文を描き、下縁に金泥で連珠文を配す。天板を支える六本の脚は葉をかたどり、白地に銀泥で葉脈が描かれている。蓋裏中央に「東小塔」の墨書があり、神護景雲元年(767)に実忠和尚(奈良・平安時代前期の東大寺僧。東大寺別当・大僧都の良弁に仕え、その目代として造東大寺司の財政運営を担った。東大寺の造営修理においても活躍し、聖武天皇の娘、称徳天皇の信任も篤く、恵美押勝の乱後は西大寺や西隆寺の造営にも当たった)により東西小塔院が創建されており、この墨書はそれを指している。

他に、漆彩絵花形皿(うるしさいえのはながたざら)、銀平脱合子(ぎんへいだつのごうす){琴柱や弦の容器とされ、径15.1、高5.1cm. 素材は甲と底面に柾目の一枚板を用い、側面は細長い薄板を巻くか、輪積みにして作る巻胎技法(けんたいぎほう)が採られ、全面に布着せをして黒漆で仕上げてある}。金銀平文琴(きんぎんひょうもんきん、唐代を代表する琴といわれ、桐材を主体として、黒漆を塗り重ね、その上に文様の形に切った金銀の薄板を貼り、さらに漆を塗り文様部分を炭で研ぎ出す平文技法で加飾されている)が出陳されていた。 又、紺玉帯残欠(こんぎょくたいざんけつ・玉飾りの革帯)を容れる螺鈿箱(らでんのはこ)も見事な造りで、正倉院宝物中で漆地螺鈿の品は本品と南倉の箜篌(くご)のみであり、完品は本品のみといわれ、加えて正倉院宝物中では螺鈿と平脱を併用した唯一の作例で正倉院漆工品中、極めて重要な位置を占める品の由。

     


  

  
<第67回>

 正倉院展に通いだして連続14年目となった。いわゆる“目玉”は長くみても10年以内に一回以上は出陳されるので、年々、既に拝観した品が多くなって行くのは当然である。唯、同一名称で括られている中に何点かの品がある場合には、それらを一点ずつ出陳したり、二~三点、時に全点などその展示の組み合わせは殆ど無限にある。

平成十二年、第五十二回目の展覧における木工製品では、光明皇后の威光を背に、一時権勢をほしいままにした藤原仲麻呂(恵美押勝)が、有事の際に自分の権力で宝庫から意のままに持ち出せる筈であった武具(主に弓と矢)が多く出陳されていた。後世の数点の模造を除いても矢180余隻(本)が出陳されていたから、数のうえでは出陳品の中では圧倒的な数量である。仲麻呂は大刀100口(ふり)、弓100張,箭(矢)100具(約1000本)ものすぐ実戦に使える武具を宝庫に収めた(あくまでも光明皇后の行為として)。しかし、仲麻呂の権勢を苦々しく思っていた光明皇后の娘、称徳天皇は仲麻呂が都を離れ湖国にあった時、詔(みことのり)して、仲麻呂を討伐(恵美押勝の乱)。その際、仲麻呂が、もし、自分に敵対する勢力の蜂起があったりした場合には、自由に持ち出せる筈であった宝庫の武具は称徳天皇によって出蔵され仲麻呂軍を破滅に導いた。何たる歴史の皮肉!

正倉院には梓弓(梓の木で作った丸木の弓、この語は枕詞として万葉集の33首に使われているが木そのものを詠った歌は一首もなく全て枕詞としてであり、「引く」「射る」「張る」「本」「末」「弦」「寄る」「矢」「音」「かへる」にかかる)が三張、槻弓(槻はケヤキの古名)が二十四張伝存し何れも自然木を用いた丸木弓で長弓である。弓腹(ゆばら、弦の張ってある側)には溝状に樋(ひ)が刳ってあり、それによりたわみ易く折れにくくなる。

ところでこの「梓」の木であるが、正倉院展の目録には、導管(現在の表記では道管も可?)の小さな散孔材であることが判るのみで、樹種は特定できない、ミズメ説、ウラジロノキ説がある、としている。身近な借用では、中央東線の特急「あずさ」であり、槍ヶ岳を源流地帯とする「梓川」であり、かつての「梓川村」であるが、この「アズサ」が現存する何れの木を指しているのか長らくはっきりしなかったようである。日本列島は南北に長い上、多くの山々に阻まれて余り行き来のなかった沢山の集落があったためもあって、同一植物の呼称が多岐に亘り、その同定作業が煩雑を極めている。
万葉集に出てくる(詠まれている)植物、いわゆる万葉植物を長年に亘り調査研究してきた松田修によると、まずそれに該当する木は4つに絞られた。
1)キササゲ 2)アカメガシワ 3)ヲノオレ 4)ヨグソミネバリ がそれである。

これら4種の、材としての特性や方言の比較検討などから、1)のキササゲは万葉の時代より後に中国から渡来してもので、折れやすく弓材には不適とされ、2)のアカメガシワは古名ヒサギ{万葉集に4首ありそのうち、山部赤人の「ぬばたまの夜のふけぬれば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く」(巻六・925)、が斎藤茂吉の万葉秀歌にも採り上げられている有名歌}と呼ばれ、アズサに近い呼称はなく3)のヲノオレはその呼称の如く材が余りに堅く弓材には不適であろうと判断された。ただし「日本樹木名方言集」には日光方言としてホンアズサの名称があるが松田の調査では古書にも見えず樵夫からも聞き取れなかった、として否定された。4)のヨグソミネバリは、ハンサ、ハヅサ等の方言があり、これはアズサが転訛したものと考え、また、弓材にも適しており、これがアズサであると断定した。その後正倉院の梓弓の材の調査でこの忌まわしくも排泄物の名を冠された木がそれであることは間違いないとされた、とある。

   


  

  
<第68回>

  「アズサ」論の続きであるが・・・・・・・・・・
また、「古今要覧稿」という古書には元慶(がんぎょう・げんけい、平安前期、陽成・光孝天皇朝、877/4~885/2)2年(878)の官符(朝廷からのおふれ?)に、“「梓」は信濃国より採進すべきよしと定められたり、また、歌にも「信濃なる梓の真弓」と詠めば彼国より出しことは論なし・・・・・とある、とのこと。
ミズメ(ヨグソミネバリ)は円葉と細葉の2品種があり信州に多い。オノオレも信州に多いがミズメ程には分布していないという。ヨグソミネバリは信州安曇郡、群馬県吾妻郡、武州秩父等にアズサの方言が残り加賀、紀州、大和にはハンサ、ハヅサ等の方言が残っており、これは前述した如くである。この忌まわしい名称の由来はこの木の樹皮が特有の匂い(臭み?)を発するためといわれる。山中に自生する落葉高木で、幹は直立し、高いのは20m,径60cmぐらいに達するという。岡麓の作に「黄葉する木に梓あり秋深き上高地にて見しとひといふ」があり、何れにしても「梓」は信州にゆかりの深い木であったことがしれる。因みに伝統的工芸品に指定されている「松本民芸家具」の主材は「ミズメ」であり工人達は「ミズメザクラ」とも呼んでいる。
「樹木大図鑑」で見ると、アズサ(ミズメ、ヨグソミネバリ)は温帯~暖帯に生え、樹皮はサクラ類に似て臭いがある。材は堅く道具の柄などに使われた。「梓」弓のアズサは本種をいい、ミネバリはヤシャブシと同義なので臭いヤシャブシの意味で夜糞ミネバリとなった・・・・とある。

この図鑑には特に信州に多いとは記載してない。更にサクラの仲間を調べて見ると、イヌザクラという樹種があり、これはウワミズザクラ、エドヒガン、ヨグソミネバリ等もこの名で呼ばれること(地方)がある、と記載されている。こうしてみると、松本家具の工人達が「ミズメザクラ」と称しているのも頷ける。要は「梓」は桜の仲間で地方により色々な桜と名前がごっちゃになっていることが判る。これはこの「梓」に限ることではなく日本における色々なもの(事物、動植物)の呼称の地域による多種多様性を示しており、分類学者(殊に植物の)は大変だなーと感心してしまう。

因みにどうして植物名に「イヌ」を冠した名が多いのかも了解できた。植物名に付く動物名では「イヌ」が断然多いのは、“有用な植物に似ているが役に立たない”ような意味であるという。どんな樹木も有用ではあると思うが、イヌウメモドキ、イヌエンジュ、イヌガシ、イヌガマズミ、イヌガヤ、イヌガンビ、イヌグス、イヌコリヤナギ、イヌザクラ、イヌザンショウ、イヌシデ、イヌシュロチク、イヌダラ、イヌツゲ、イヌツルウメモドキ、イヌトクガワザサ、イヌナシ、イヌビワ、イヌブシ、イヌブナ、イヌマキ、イヌヤチスギラン、イヌリンゴ、・・・・と樹木名だけでもこれだけあった。よく生物多様性というが、それは即ち命名多様性でもある。

犬は人類の長い歴史のなかで、最も人間の身近にありそれだけに人間が勝手に品種の多様な動物にしてきた。人の役に立つことも多く、このストレスの多い世の中では犬だけがそのやり場のないストレスを解消してくれる唯一の存在として頼りにしている人も少なくはない。警察犬、盲導犬、聴導犬などは人の遥かに及ばない本能的な感覚(器)によって人が日常非常に助かっている。それなのに犬を無益、役立たずの意味で使っている場合が少なくない。本人は如何ともし難く選んだとはいえ、増え続ける自殺は本当に悲惨な社会現象である。それが「犬死」で終わらないように社会の改革が必要である。武家社会にあっては刀は大切な身分の証(あかし)で「犬おどし」といえば、犬は驚くが相手(人)は驚かない刀のことであった。




  

  
<第69回>

 再び正倉院展に戻って・・・・・・
平成十二年、第五十二回目の展示における木工品では、既に拝観した品も多かったが、先ず螺鈿紫檀琵琶があった。宝庫にはこの品を含め五面の四弦琵琶と唯一の五弦琵琶が伝存しているが、槽(胴の部分)と磯(琵琶・和琴・筝の胴の側面)は紫檀製。遠山(えんざん、背面・弦のない方)は花形に彫出されている。槽には螺鈿と玳瑁(たいまい)により雲、鳥、迦陵頻伽(かりょうびんが、妙音鳥・好音鳥などと意訳。仏教で雪山または極楽に住むとされる想像上の鳥、その妙なる鳴き声から仏の音声の形容ともされる。その像は人頭・鳥身で表すことが多い)宝相華唐草文(中国唐代の唐草文様のうち豊麗な花をあしらった文様をいい、その花は唐代に意匠化された空想上のもの)が左右対称に配されている。宝相華の蔓や花、葉の一部に玳瑁を用い、花、大半の葉、雲、鳥、迦陵頻迦には螺鈿を用いている。玳瑁は小さな斑の入った部分を用い、玳瑁の周囲はツゲによって縁取りされている。螺鈿は厚めの夜光貝が用いられ、その表面には文様が毛彫りされている。一面しか存在しない、かの有名な螺鈿紫檀五弦琵琶の華やかさには及ばないとしても、手の込(混)んだ工芸品的な楽器である。

甘竹簫(かんちくのしょう)という管楽器があった。簫は長さの異なる竹管を一列に並べ管端に息を吹き込んで鳴らす楽器であり、洋の東西を問わず古くから用いられているが、中国では漢代以前からあったという。竹管の長さは29.0から 23.5cm。管を並べた両端には縁木があり、竹管は表裏を木の帯で固定されている。出展されているこの品も本来は全幅38cmほどの一連の一口であった筈なのが、22.5と15.3cmの二つの部分に分かれて伝存している。昭和40年に全体を固定する木製の帯が発見されて一口の品であることが証明された。復元模造品も併せて展示されていた。

中倉から漆八角几(うるしのはっかくき)が出ていた。径53.7cm、高 13.5cm。ヒノキの一枚板を八花形にかたどり、全体に黒漆を塗った品で、華足四脚(これは全部明治40年の新補)が付く。
粉地彩絵几(ふんじさいえのき)があった。縦38.5,横45.0,高12.7cm。ヒノキ材で短辺に夫々二箇所の刳り込み、脚は華足。天板表面は白く塗り、その側面は淡紅色の地に五弁花文と花卉文を描く。天板本体よりも、赤紫、丹、白緑、銀泥などで花葉文を施した華足の方が目立つ品であった。
籠箱(こばこ)が出品されていた。前にもその一回り小さなのは見たことがあるが、今回のそれは全部で3点伝存するうちの最も大きいものという。縦48.3横23.3高11.8cm。床脚に接する天板に全部で12本の柱が付きその上辺に枠組みを付けた構造。用途は虫籠か献物箱の一種か明らかではないという。

この他に、以前にもその同類を見た、竹帙(じす)が出ていた。宝庫には竹帙と呼ばれる品は全部で6枚ありといい、これは縦30.0、横43.5cmで経卷などを包むのに用いる。マダケかハチクの直径1mm内外の竹ひごを横糸とし、縹(はなだ)、緑、淡緑、白、黄、茶、赤、紫、紺、橙等の絹糸をもって繧繝式に十一段に編み、簾状に仕上げたもの。現代の類似品でいえば、筆等を巻いて携行に用いる簾にあたる。以前出ていたのは痛みが目立った。今回の品も竹の両端が折れたりしてはいるがそれでも保存状態は良好に思えた。

尚、今回の展示で既に拝観した同一物または同類の木工品は、赤漆小櫃、弓、箭、素木三鈷箱、粉地花形方几、紫檀木画箱、檳榔木画箱、経帙牌であった。

    


  

  
<第70回>

 平成十三年第五十三回正倉院展における木工品では、先ず彩絵挾軾脚(さいえきょうしょくのきゃく)があった。挾軾は肘つきで、よく大名たちが脇に置いてそれに凭れて休んだり、時に家臣を叱咤激励したりして自分の立場を誇示するための一種の舞台装置でもあった。始まりは体の前においてそれに上体を凭れかけて休むためのものであったが次第に脇に置くようになった。この展示品は天板を失って脚だけが一対残っている。各高24.4cm。部位によっていくつかの材が用いられているようであるが、不明とされている。天板を受ける部分は縁を花弁状に彫刻し地を緑青で塗り葉脈を蘇芳で描いてある。脚は各々3本の支柱からなりで上下端が広がりほぞで天板受けと3段からなる脚座の最上段にはめ込んである。3段の脚座のうち、上の2段は両端が脚側へ少し巻き込んでいる。脚座の下に地摺りが付く。3本の脚と真中の脚座以外には蘇芳で描いた花文があしらわれ何れも銀泥で縁どられている。宝庫に伝存する他の挾軾とは脚の数や脚座の構造等相違が見られることから、天板を失った実用品ではなく彫像の付属品ではないかとの考察もある由。

彩絵長花形几(さいえのちょうはながたき)があった。縦45.0、横65.4、高9.0cm。長八陵形の各陵間に二段の刳り形を付けた献物台で、天板、華足ともヒノキ材製。天板側面は、濃紺・群青・白緑・白の繧繝帯の中央に赤系繧繝の四弁小花文を配する。八脚の華足は天板裏に直付けされ、群青・薄青・蘇芳・朱・黄・白緑・緑青などの繧繝彩色が施してある。

緑地金銀絵長方几(みどりじきんぎんえのちょうほうき)が出展されていた。総高9.0、天板縦34.9、横50.7cm。天板、華足ともヒノキ材製で天板側面、4本の華足には金銀泥や蘇芳で花枝、飛鳥、蝶を随所に散らした文様が見られるが、天板は反り、文様も擦れて痛々しい印象を与える宝物である。中倉には献物几が27基あり天板に脚のみを付けるのが最も多く、その内長方形のものが11基ありという。

沈香木画双六局(じんこうもくがのすごろくのきょく・遊戯の盤)が出ていた。縦29.0、横43.7、高7.3cm。天板は厚手のヒノキ材で側面にはクロガキを貼り、床脚と地摺も蘇芳染めのクロガキ。天板の盤面は、矢筈文を表した木画の界線で内外の二区に分け、更に象牙の界線を用いて内区を15区、外区を20区に分ち、夫々に沈香(ジンチョウゲ科の常緑高木。それから採取した天然香料も指す。熱帯アジアに産し、高さ約10m。木質堅く水に沈むので“沈”と称する。黒色の優良品を伽羅・きゃら という。材は高級調度品にも用いられる)材を貼ってある。格挟間(こうざま)透かしの床脚をもつが、その縁と天板、地摺の陵部には象牙を巡らせてある。このような盤を用いて行われた双六は盤双六といい、盤を挟んで二人が対座し2個の采を竹または木の筒に入れて振り出しその目の数だけ棊子(きし)を進めて早く相手の陣に入った方が勝ちとする。インドに起こり中国を経て奈良時代以前にわが国に伝わったといわれる。古くから賭けに使われた。このような宝物をみると、庶民には縁のない品としても、材料となっている沈香といい、象牙といい、かなり活発な交易が行われていたことが知られる。

赤漆八角床(せきしつのはっかくしょう)というがっちりとした台が出ていた。長径96.7、短径89.5、
高54.0cm。八角形の天板に、八脚の床脚と畳摺を付けた台で、天板の稜角の部分と脚の外側、脚と脚の間の畳摺の部分はいずれも金属板で補強してあり、天板上面の稜角の部には六稜形の座金をおいて丸輪(現在残っているのは3個)を取り付けてある。外でかなりの重量物(例えば火舎香炉のような)を載せるのに使われたらしく、漆は殆ど剥落し、頑丈な造りのみが目立つ品である。

今回の展示品のなかで既に拝観した同一物または同類の木製品は、紫檀木画挾軾、紫檀小架、棚厨子、白葛箱、密陀絵盆、白檀八角箱、蘇芳地金銀絵箱、彩絵二十八足几であった。

   

 

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