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私の”木”遍歴
  
第71回~第80回

 

 

  
<第71回>

 平成十四年、第五十四回の正倉院展で展示された木工品では・・・・・

紫檀槽琵琶(したんそうのびわ)があった。宝庫に五面伝存する琵琶の一つでペルシャにその起源をもち、中国・隋唐で盛行しわが国に伝来して奈良朝には貴族の間で大いに珍重された。その名称の如く、槽と鹿頚(ししくび、槽から細く延びた部分)は紫檀の一木からなり、転手(てんじゅ、弦の張り具合いを調節するための両側に出ている棒)は黒檀、海老尾(鹿頚の一番先端の部分)と弦門(転手の付いている部分)はツゲ、腹板(ふくばん、槽を作っている面)はサワグリ。全長98.5、最大巾41.2cm。貴重な材を集めて作られたこの品は木工製品としても価値の高い存在である。

これも楽器で、この回の目玉であったのが桑木阮咸(くわのきのげんかん)である。総長102.0、
胴径38.2cm。円形の胴に棹(頚)が付く四弦の楽器で中国で四弦の琵琶から派生した。この時代のものは中国には遺存せず、世界では正倉院に二面のみが伝存する。他の一面は螺鈿紫檀阮咸である。
この楽器の名称は、かの「竹林の七賢人」の一人、琵琶の名手「阮咸」に由来する。槽の弦が張ってある方の面は蘇芳で染めたクワ材からなり、反対の面(腹板)は、現在でも家具の材として使われているヤチダモからなる。撥が弦を弾く部分(撥面、棹撥・かんばち)には八花形の革が張られ、そこには岩が散在する野原で、蔦葛が絡まる老松の元、碁盤に向かう二人物と一人の観戦者が描かれている。また、槽の上部左右にも同じ大きさの円形の革がはられ、片方は日形を他の片方は月形を表しているという。円形の胴の縁には細い帯状にタイマイが貼られ覆手(胴の下部で弦の起始部)の一部もタイマイ貼りで裏には金箔を貼り、弦が立ち上がる部分の孔の周囲には木画をほどこしてある。
赤外線画像によると、月の方には餅つきをしている二匹の兎とヒキガエルが、日の方には三本足の鳳凰形の鳥(烏)が見られるという。古代中国では太陽には三本足の烏がいるとされていた。転手は紫檀材で丁度長いねじのように(螺旋ではないが)八個の山が刳られている。

いずれにしてもこの二つの楽器には多種の材料を用いて信じられないほどの精緻な細工が施されていて、もはや単なる楽器の域を脱して手工芸の集積品ともいうべき存在である。1300年の時を経て今なお作られたばかりのように輝き、しかも伝世品としてはここにしかないというのは、これらの楽器に限らず、まさに世界の宝庫としての正倉院の面目躍如といったところである。

密陀絵鳥獣文漆櫃(みつだえちょうじゅうもんうるしのひつ)が出陳されていた。縦65.8、横106.0、総高46.3cmの被せ蓋作り、四脚の唐櫃(韓櫃、辛櫃とも書き、脚の付かない大和櫃・やまとびつに対して四乃至六本の脚がつき、本来収納具であるが中世までは運搬具としても盛んに用いられた)である。密陀絵は漆芸の加飾法の一つで、荏油や桐油等に蜜陀僧{(一酸化鉛)を混ぜて加熱処理し、乾きやすく(酸化されやすく)した油に顔料を加えて練り上げたもの}で描く油画技法と、膠絵の表面にそれらの油を引く油引技法の二つがある。蜜陀僧とはペルシャ語の漢訳に由来するという。櫃の外面は黒漆塗り、内面は赤漆仕上げである。表面には、白の顔料で文様を描き、その上に油をかけて保護する(油色技法)。蓋面の文様は激しく動く雲の中に、獅子に似るが翼の有無や尾の形、斑紋等に違いのある霊獣三頭を配し、側面には折枝花を描く。身の長側面の片方には、唐草文で三つの輪を作り、中央部の花の上には蓋面と同じ獣を正面向きに座らせ、他の面ではその獣を横向きで振り返る姿態に描く。

ユーモラスな作品として、銀平脱龍船墨斗(ぎんへいだつりゅうせんのぼくと)があった。長29.7、

巾9.4、高11.7cm。墨斗は墨壺。平脱は漆工の加飾法の一つで、金、銀、錫などの金属製の裁文を漆面に象嵌し、それに漆を塗ってから金属片の部分の漆を剥ぎ取る技法。

   


 

  
<第72回>

 第五十四回正倉院展のつづきで・・・・・・

銀平脱龍船墨斗は寄せ木作りで、形が出来上がった後布着せ(寄せ木作りなどでその強度が問題になるとき、麻布などを被せその上から漆を塗り重ねる)をし、全面に黒漆をかける。龍首部分と船体上方に多数の斑文を散らし、船体下方には花菱文を7個並べる。斑文及び花菱文は銀平脱によるが、銀板は龍頭部分の一部を残して殆どが剥落してしまっている。龍は口を一杯に開き、舌が正面に向って真っ直ぐに延びている。白目部分と耳穴の部分には朱と鉛丹(えんたん、古くからの日本画の赤色顔料、黄みを帯びた橙色で構造は四酸化三鉛)が残っていて、完成した当時はどんなにきらびやかであったか? 傷んではいるが残っている色彩から往時の美しさは想像に難くはない。

この回に展示されていた宝物で既に同一物ないしは同類を拝観した品々は、冠架、赤漆八角小櫃、赤漆六角小櫃、獅子を始めとする多くの伎樂面、双六局等であった。 

平成十五年、第五十五回正倉院展における木工品は下記の如くであった。
銀平脱箱懸子(ぎんへいだつのはこのかけご) これは箱の口にかける薄型の盤で縦,横共23.5、 高2.2cm。木製黒漆塗りで、側面は波状の起伏をなし、四隅に大きな丸みがある。見込み(茶碗や鉢の内面)の中央と四方に花卉文を配し、縁には連珠文帯をめぐらす。これは箱の懸子(他の箱の縁にかけて、その中にはまるように作った箱)であろうが、これに合う箱は見当たらない由。このような懸子は奈良時代には稀とされるが、平安時代以後に手箱が盛んに作られるようになって多用されることになる。その前駆的な作品と考えられその点で意味がある。

漆瓶龕(うるしのへいがん) 総高27.2、胴径16.5cmの黒漆塗りの容器。一木を水瓶形に刳り貫き、収める水瓶の形に削り込んである。縦に半分に割り、夫々を片方でさす金具二個、他方に蝶番金具一個を取り付けてある。これに合う水瓶は見つかっていないという。

金銀絵漆合子(きんぎんえのうるしのごうす) 径10.0、蓋高2.5、総高5.1cmの円形、印籠蓋造りの小合子である。蓋面は低い甲盛をもち、甲面中央に金泥で鳳凰を描き、その周囲に銀泥で雲文を配している。用途ははっきりしないが、小物入れと考えられるとのこと。

黄楊木几(つげのきのつくえ) 縦36.2、横43.2、高4.3cm。大仏への献物を載せた机と考えられている。中倉には献物几と称される小几が27基伝存しており、その一つがこれ。四隅を大きく切って長八角形になっている。ツゲの素木(しらき)仕上げで四隅に床脚が二本ずつあり畳摺りを付けてある。天板、畳摺りとも床脚の部分には魚々子地(ななこじ、小さな丸い粒を並べた地文様。粒の密集する様が魚の卵に似ていることからかく称される)に線刻による唐草文を施した金具が鋲で留められている。 金銀絵長花形几(きんぎんえのちょうはながたき) 仏への献物を載せた机で、長径49.0、短径18.3、高9.8cm。本品は宝庫に伝来している献物几のうちで天板の形が最も特徴的といわれる。それは、長側面に猪の目形(板状の素材に、刳り抜いてつけるハート形の文様で、その形が猪の目を連想させることからこう呼ばれる。器物の飾り金具などには猪の目形を透かしたものがあり、これを猪目透という)の刳り込みを入れ、短側面は三稜と猪の目を形作る突起が両側にある。側面は裾すぼまりの大きな局面を取る。天板の材はヒノキ、華足の材はスギ。天板は中央に白緑、周縁に蘇芳を塗る。側面は墨で斑を入れ、その上に蘇芳を塗って紫檀に見立て、更に金銀泥で花枝や花喰鳥を配してある。天板裏面の六つの華足は全体を白色に塗り、銀泥で葉脈を描いている。

この回の展示品のなかで、以前に拝観した同一物ないし同類の品は、木尺、玳瑁杖、馬鞍、平脱鳳凰頭、漆小櫃、漆小几、碧地金銀絵箱、沈香木画箱、粉地木理絵長方几、桑木木画棊局であった。

 


  

  
<第73回>

平成十六年第五十六回展における木工品は竹製品も含めて・・・・・

樺纏尺八(かばまきの尺八)が出ていた。長さ38.5、吹口径2.2cm。中国では漢の時代から、長笛と呼ばれる縦笛が愛好され、六朝時代{(後漢滅亡から隋による統一までの建業・建康(いずれも南京の古称)に都を置いた、呉・東晋・宋・斉・梁・陳の6王朝の総称)}には長大なものが用いられたが、初唐の呂才が長さや孔律を改革して形式を定めたといわれる。尺八の語源は明らかではなく、一尺八寸の略とされているが、長さは一定ではなく、宝庫に伝存する8管も長さが夫々異なるという。節が三つあるのは現在と変わりはないが、根に近いほうを吹き口としているのは通例と異なる。同じ構造物でもこの時代と現在とでは上下(天地)が逆になってしまった品はいくつかあり、前にも出てきた「シャク」もその例である。本品が樺纏といわれる由縁は全体に亘って17段の樹皮を薄くした細い帯を巻きつけてあるためであるが、皮が薄くて樹種は特定できない由。樺巻きが残っているのは8段である。樺細工は現在でも健在で東北地方で盛んに行われており、桜の多い地域ではかってはいたるところで見られたと思われるが、現在ではそれを施す身の回りの用具が姿を消しており、現在でよく見られるのは茶筒であろうか? 指孔は定式通り前に五、後ろに一の計六個である。

仮斑竹笙(げはんちくのしょう)が出展されていた。総長57.7、壺高6.8cm。木製の壺(竹管をその基部で束ねている部分でその側面に口がある)は円形でそこにリードを付けた全部で5種類の長さの17本の竹管が植え込まれ、壺の側面の口から吹き又は吸い、管側の指孔の用い方により一管又は数管を鳴らす楽器である。尚、形は同じであるが大型のものを芋(う)といい、当然ながらこれは低音用である。宝庫には笙と芋が対を成して3口伝わっているという。一番短い管の上端近く、薄く削った竹の帯が17管を束ねている。本品は管と帯に自然に斑紋を有する斑竹に似せて斑紋を描いてあるので“仮(げ、似て非なるもの)”と呼ばれる。壺は木製黒漆塗りに外周及び底面に文様が施され含授鳥と草花、腰掛けて笙を奏する人物が、底面には「東大寺」の刻と含授双鳥が表されている。

伎樂面の太孤父が出ていた。伎樂面はこれまでに何度か拝観したが、この面は小生にとっては初めてであった。その寸法は縦41.4、横20.2、奥行26.4cm。伎樂は推古20年(612)百済から伝えられたともいわれている。比較的簡単な音楽の伴奏と共に演じられる無言の仮面劇で、滑稽な仕草を表すものであったという。奈良時代がその最盛期で、平安時代に入ると舞楽の流行に押されて次第に廃れた。演技の有様については文献も少なく不明な点が多いという。一具の伎樂面は14種・23面で構成されていたといい、現存遺品は東大寺大仏開眼会の際のそれと、法隆寺に伝存する群とに大別されている。太孤父は演舞の大体真中辺で登場し、身寄りのない哀れな老人の役で、太孤児にかしずかれる。面長でその中央にいわゆる鷲鼻といわれる丸みを帯びて長く垂れた鼻、目じりから耳の前へ走る深い沢山の皺。細長い帽子は現在でもシルクロードの西に位置する国々で用いられており、正に異国情緒がたっぷりの面である。そしてどの面もユーモラスな雰囲気に溢れており、当時の国際交流を如実に表している。材はキリの一木。帽子は黒漆塗りでその背面から刳り込み、頭頂は丸く彫り残し、顔の内面は外面に合わせて平滑に刳り抜く。顔面は黒漆塗りの上に白土下地を施し、丹を薄く塗って肉色を表し、さらに頬や顎には部分的に朱を用いて暈しを加える。口、鼻孔、目、耳孔を開けてあり演者の目が外からも見えるわけではあるが、目の周りは墨で黒く縁取り、その内側に緑青を塗って異人であることを表現しようとしている。子供の頃、初めてアメリカ進駐軍の兵士を見た時、ああこれが異人さんだと驚きと奇異な印象を抱いた。そんな驚きを1300年も前の我々の先祖は既に経験していたのかと思うと、当時の国際都市、平城京の有様がぼんやりと目に浮かんでくる。

   


  

  
<第74回>

 平成十六年第五十六回正倉院展の木工製品についての続きで・・・・・

草本も含めて・・・・、藺箱(いのはこ)が出展されていた。長楕円形被蓋(かぶせぶた)造りの入れ物で寸法は長径31.8、短径17.5、高9.5cm。草の葉茎を束ねて芯とし、それを扁平な長い葉で巻いて渦巻き状に編み上げ上縁を少しすぼめてある。素材はかってはイグサを芯としそれにシュロの葉を巻いたものとされていたが、その後の調査では、芯材はイグサ以外の単子葉植物{種子植物中、被子植物(最も進化した群で恐竜の天下であった中生代の終わり、白亜紀以後に最も分化して現在の高等植物の大半を占める。心皮:種子植物の雌しべを構成する特殊な分化をした葉、が単一又は癒合して子房:雌しべの一部で花柱の下部で膨らんだ部分、受精後種子を入れる果実となる、を作りその内部にある胚珠:種子植物の雌性生殖器官、胚嚢とそれを包む珠心・珠皮とから成り裸子植物では花の一部に裸のまま、被子植物では子房の中にある、を包んで保護する。イネ科、ユリ科、ラン科などの草本類がその大部分を占めるが、タケ・ヤシのように高木状になるものもある)}とされている。現在のいわゆる民芸品のようであるがその用途は定かではない由。

檜彩絵花鳥櫃(ひのきさいえかちょうのひつ・檜の唐櫃)が出ていた。縦43.3、横57.8身高27.3cmで唐櫃だから脚が着いている。ヒノキ材の素木(しらき)造りで四面に蝶、鳥、薄などの草花を描く。身の稜角と内部に黒漆を塗り、身の短側の一面に「公験辛櫃第一云々」の刻銘があり東大寺別当寛信が在任中に文書、公験、絵図等を入れていたと推測されており公験(くげん)の唐櫃と呼ばれている。“公験”とは土地や奴婢の売買等につき、その所有権を公認する文書をいい、本来は五合で一具(一組)であったという。四面に描かれた花鳥画は輪郭を細い墨線で描き、朱、群青、緑青などで彩る鈎勒法(こうろくほう・輪郭を細い線描でくくること、その中を彩色することを鈎勒填彩という)で描かれ、院政期(白河・鳥羽院政期、後白河・後鳥羽院政期、後高倉から後宇多までの約250年間)の花鳥画を考える上での貴重な品という。

南倉から紫檀塔残欠(したんのとうのざんけつ・小塔の部材)が出ていた。五重小塔の雛型と思われる建築の部材で、計456片。その内、小材はシタン製で大きな部材は別の木で作りそれにシタンの薄片を貼り付けてある。柱、頭貫(頭貫・柱と柱をつなぐ材)、台輪(寺院建築の柱頭部をつなぐ厚い板)などの軸部材がないので立面と平面の詳細は不明であるが、材の寸法からは五重塔と見られている。奈良の海龍王寺や元興寺の五重小塔が現存するものとしては有名であるが、それらと比較すると本塔は現存小塔の約六割見当の大きさと推定され、総高2.4m、塔身の高さは約1.7mとされる。例えば海龍王寺の五重の小塔は国宝であるが、その精巧さは見る人の感嘆を惹き起こして止まない。日本の鉄道模型はその精巧さにおいて世界的に有名であるが、今も昔も小さなものは人々の心を惹きつける。今でも時々新聞の広告欄に出てくるように塔のミニチュアキットが売られていて、マニアがいることが知られる。

清少納言は枕草子の144段で「雛(ひいな)の調度。蓮の浮葉(うきば)のいとちいさきを、池よりとりあげたる。葵(あおい)のいとちいさき。なにもなにもちいさき物はみなうつくし。」と思いのたけを吐露している。このような「ちいさき物はみなうつくし」という“思想”は日本文化の特質の一つと思われる。例えば“根付”、あの小さな造形の中に日本の木工技術、膝芸の全てが凝縮されており、日本人は勿論、外国人による優れた蒐集や著作も多い。また“坪庭”を楽しむ風雅。小さなところに日本庭園が濃縮されて収まっている。また樹齢何百年の大木となるはずの木が小さな鉢の中に収まっている“盆栽”。これも見事という他はない。清少納言の秀でた洞察力は古来からの日本人の“ちいさきもの”に対する憧憬と願望を見事に表現していると思う。

            


  

  
<第75回>

平成十六年、第五十六回正倉院展での、既に拝観した木工製品は下記の如くであった。
八角椙箱(はっかくすぎのはこ)、赤漆欟木胡床(せきしつかんぼくのこしょう)、漆高机(うるしのたかづくえ)、楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(かえですおうぞめらでんそうのびわ)、紫檀金銀泥絵琵琶撥(したんきんぎんでいえのびわのばち)、七弦楽器(しちげんがっき)、螺鈿槽箜篌(らでんそうのくご)、漆仏龕扉(うるしぶつがんのとびら)、漆彩絵花形皿(うるしさいえのはながたざら)、漆花形皿(うるしのははながたざら)、緑地彩絵箱(みどりじさいえのはこ)、朽木菱形木画箱(くちきひしがたもくがのはこ)。

平成十七年、第五十七回正倉院展における木工品の展示は、次の品々であったが全て過去に拝観した。百索褸軸(ひゃくさくるのじく)、木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)、金銀亀甲棊局龕(きんぎんきっこうききょくのがん)、銀平脱合子(ぎんへいだつのごうす)、黄楊木金銀絵箱(つげきんぎんえのはこ)、刻彫梧桐金銀絵花形合子(こくちょうごとうきんぎんえのはながたごうす)、楩楠箱(べんなんのはこ)、粉地銀絵花形几(ふんじぎんえのはながたき)、粉地彩絵長方几(ふんじさいえのちょうほうき)。偶々であろうが、連続拝観17年目にして初めて全木工製品が既に目にした品々であった。

平成十八年、第五十八回目の展観での木工製品は下記の如くであった。
献物牌(けんもつはい):献物者の名札で六枚が出ていた。大きさは、縦5.8~8.0、横1.7~2.1、厚み0.3~0.5cm。材はツゲが五枚、スギが一枚で、何れも上端近くに紐を通す穴が開いている。これらは天平勝宝四年(752)四月九日の大仏開眼会に際し、人々が大仏に献納した供物に付けられていた札とされている。橘夫人(光明皇后)の名も見えるが、誰が何を献じたかは不明の由。

南倉から八角高麗錦箱(はっかくこまにしきのはこ・錦張りの鏡箱)が出展されていた。長径45.0、高3.7cm。金銀山水八卦背八角鏡(きんぎんさんすいはっけはいのはっかくきょう)を収納していた箱という。身、蓋ともヒノキの一枚板から八稜形に刳り出し、身の中央には小孔が開けてあり、鏡を押し出して取り出しやすいようになっている。内面は身、蓋ともに麻布を貼り、その上から白絹を貼ってあるが、その多くは剥落しており、現在は麻布芯二枚を重ねてその形に裁ち底に敷いてある。箱の表面には錦が貼ってあり、身底裏の方が地の赤が強く残っている。蓋表は複雑に構成された唐花文(花弁を大きく広げて咲く花を上から見たさまを文様化したもの)でその華麗さは表現し難い。この箱の名称にある「高麗錦」はそのような錦があるわけではなく、明治の宝物整理の際にこの錦の奏でる華やかな異国情緒をかく表したものといわれる。

中倉から籠箱(こばこ・献物箱)が出ていた。これまでも色々な献物箱を拝観してきたが、これはヒノキ材製の献物几(この場合六本の床脚付きの机)に枠組み(わくぐみ)桟入れの被せ蓋をのせる形式の箱で、縦17.2、横33.2、高10.8cm。几の天板は緑青を塗った面であるがそれ以外は几も蓋も縦・横の枠、桟の組み合わせのみ。天板は四周に蓋ののる部分を残して一段高く、その長辺の四箇所に葉形の刳物の突起を取り付けて、それが飾りと蓋の固定の役目をしている。緑青、蘇芳、金銀泥の組み合わせが色彩に富んだ豪奢な趣を湛えている。

   


  

  
<第76回>

平成十八年、第五十八回展観の続きで・・・・・・・

漆鼓(うるしのつづみ・漆塗りの鼓の胴)が南倉から出ていた。長40.8、口径14.5、腰徑(細くなった中央部)9.3cm。ケヤキ材で略円筒形に肉厚に刳りぬく。黒漆塗りで部分的には剥落しているが漆特有の木目がはっきりと見える。宝庫にはほぼ同形同大の二十二口が伝存し内二口がやや小ぶりという。大型の二十口には全て「東大寺」の刻銘がある。使用時には胴の両面に皮革を張り、懸紐で首から腰前に下げ、両掌で打ち鳴らした。この形式の鼓はわが国へは伎樂(呉樂・くれがく)用として伝えられたために「呉鼓」または「腰鼓」と書いて何れも「くれつづみ」と読まれた。

この回の展示で既に拝観した木製品は、古櫃(こき・宝物の収納箱)、馬鞍(うまのくら)、梓弓(あずさゆみ)、漆葛胡禄(うるしかずらのころく・弓入れ)、蘇芳地六角几(すおうじのろっかくき)、漆鉢(うるしばち・黒漆の鉢)であった。 

平成十九年、第五十九回展の木竹工製品全十七点の内、初めて目にした品は二点であった。その第一は「榧双六局(カヤのすごろくきょく)」であった。横68.0、縦29.0、高16.3cm。長方形の天板に床脚を付けた遊戯盤であるが、特に装飾が施されてはおらず、宝庫にある同類の中では最も簡素な品とされる。天板は中央部と長辺の両側に沿って各々十二に区画された部分の三つの部がからなる。天板の材料は芯をカヤとし、夫々中央部はイスの木の、長辺側にはカヤの薄板を貼り、天板の側面にもカヤの薄板を回らす。床脚もカヤの縦材。「正倉院御物目録」に従い双六局と呼ばれてはいるが、双六局では一般に天板周囲に立ち上がりが見られるが、本品にはそれがないため、昭和五十七・八年の木工品宝物の材質調査では弾棊番(たきばん)ではないかと推定された。弾き盤は名前の通り棊(碁石)を弾く遊戯であるが、弾棊盤とみられている宝物の「木画螺鈿双六局(もくがらでんのすごろくきょく)」にも本品と同様の区画がみられ、且、盤面に甲盛(箱の蓋表の中央を盛り上げた形あるいは曲面の状態)がみられるが本品にはそれを欠くことから本来の用途は未確定とされる。

第二点目は、「黒柿蘇芳染六角台(くろがきすおうぞめのろっかくだい)」であった。径21.6、高5.5cm。献物台で天板、畳摺り共に平面六花形とし脚部の側面は一段引っ込めて、天板・畳摺りの六花の切れ込みの部分に床脚を立てその間に美しい刳形のある格挟間(こうざま、机の脚部や床脚等ではしばしば脚を固定するための持送りという材がつけられるが、この持送りには牙状の突起が刳られることが多く、この牙状の持送りがつくる空間をいう)を作る。名称の如く黒柿に蘇芳をかけてある。本品は東大寺大仏開眼会に際し大仏に奉納された品の一つで、以前に拝観し、今回も展示されていた「赤漆欟木小櫃(せきしつかんぼくのしょうき)」に収納されていたことが付箋の墨書から明らかになっている。長い年月を経て落ち着いた蘇芳地に寂びた黒柿の黒が踊って、華やかな装飾の多い宝物の中にあっては、何の飾りもない木の醸し出す質素な美しさがかえって際立った優品であった。

今回の展示で既に拝観した木竹工の品々は以下の如くであった。黒漆鏡箱(くろうるしのかがみばこ)、新羅琴(しらぎごと)、芋(う)、墨絵弾弓(すみえのだんきゅう)、筆、白葛箱(しろかずらのはこ)、仮斑竹箱(げはんちくのはこ)、赤漆欟木小櫃(上記)、黒柿蘇芳染小櫃(くろがきすおうぞめのしょうき)、紫檀木画箱(したんもくがのはこ)、刻彫梧桐金銀絵花形合子(こくちょうごとうきんぎんえのはながたごうす、別々の身と蓋各一点ずつ)、密陀絵盆(みつだえのぼん、三点)。

     


  

  
<第77回>

 平成二十年までで、正倉院展拝観は連続22回となった。家族の理解や有形無形の様々な協力がなくては叶わぬことである。
22年間通ってみても膨大な数量の宝物のほんの一端を覗いただけであろうが、判ったことは、同一又は同類の品が5~6年から10年位の周期で出陳されるということである。木竹製品のみを取り上げてきたが、勿論拝観に際しては時間の許す限り全部の展示品に目を通すべく努めてきた。これだけの年数通ってみると、この数年は初めての展示品にお目に掛かるのは、木竹製品に限っていえば一回あたり3~4点位いまでといえそうである。

平成二十年は正倉院の本拠地、奈良で展示が始まってから丁度六十回目にあたり、その意味では記念となる展示であった。正倉院展は終戦後間もない昭和21年人々が衣食住にも事足りずやっとのおもいでその日暮らしをしていた頃始まった。途中これまでに東京で3回開催され、そのうちの一回を拝観した覚えがある。入場を待つ長蛇の列に加わり入場まで1時間余を要した。この60年間に出陳された宝物は4000件(一回当り67件)、観覧者数は700万人(一回当り119000人、現在は開催期間は17日間なので、60年間そうであったとすると、1日当り約7000人となる)に及ぶ。

この数年は更に宣伝が行き届いて?入場者数は飛躍的に増加していると思われる。正倉院展が観光のコースの中に組み入れられている場合もあり限られた時間で会場を駆け抜ける客達の姿を見るにつけ、万人が等しく拝観する権利があるとはいえ、宝物の保存上大いに問題があるのではないだろうか?この60回目における木工・竹製品で初めて拝観した品は、刻彫尺八(こくちょうのしゃくはち)があった。長43.7、吹口径2.3cm。宝庫には尺八が八管現存するといい、これまでも何回か同類を拝観した。本管は八管中で最も長い。尺八は唐時代からその存在が知られており、本来長短十二本で一組をなした。宝庫の八管の尺八はそのような唐時代の尺八の実態を示す貴重な遺品とされる。現在の尺八は五指孔であるが、本品は六指孔で現在の尺八とは別系統とされる。管の全面は細密な文様で飾られており、竹の表皮を彫り残して唐花文、花卉、雲、飛鳥、蝶及び四人の夫人像を配し、指孔は夫々が花の中心をなしている。葉脈や夫人の髪は毛彫りで表されていて、その細工の精緻を極めること、誠に手の込んだ尺八である。

これも竹製品であるが、仮斑竹杖(げはんちくのつえ)が出陳されていた。装飾的な杖五本のうちの一本で他の何本かはかって拝見した。天然の斑竹に似せて斑紋を施してあるので仮斑竹といわれる。長160.5, 上径2.3、下径 2.0cm。これも様々な装飾が施されており、例えば、四箇所ある節の部分には金泥が塗られ、何箇所にも亘り、トウやサクラ、カバノキの皮を巻き石突(いしづき、下端の地面を突く部分)は後の補修ではあるが水晶を嵌め込むなど、実用というよりは儀式用に使われたとの説もある。紫檀箱があった。縦42.5,横21.5,蓋の高さ3.7,総高17.8cm。これまでも紫檀製の箱は出陳されていたが、この箱は外見がすっきりと美しく、加えて蓋裏の細工が見事な品である。

蓋の外周は大きく面取り{建築・工芸用語。柱、框(かまち:ゆか、とこ等の横に渡す化粧横木、戸障子等の周囲の枠)、箱の蓋等、角材や板材の角を削り変化をつけること。角を斜めに削った切面が一般的であるが、角を丸くした丸面、反対に丸みを帯びた凹面に削った匙面(さじめん)など様々な技法がある}してある。箱の本体はトネリコの仲間で作られていて表側にはシタンの薄板、裏面にはツゲとされる木の薄板を貼ってある。蓋の表側は稜をなす部に象牙を嵌め込んで界線(先を仕切る線)を設けている。蓋の裏側は、象牙、緑に染めた鹿角、黒柿がき等を嵌め込んだ木画が蓋の長軸方向に間を置いて三つ並んでいる。

   


  

  
<第78回>

 平成20年、第60回目正倉院展の続きで・・・・・・

この「紫檀箱」は以前に拝観した表面が美しい「紫檀木画箱」の華やかさに比べると地味な出で立ちであるが、面取りといい、界面の象牙の線といい面と線の美しさが際立つ優品と感銘を受けた。
「碧地彩絵几(へきじさいえのき)」が出陳されていた。献物用の台で、これは第十五号となっているので、これまでも同類を何品か拝観してきた。縦42.1,横50.0,高6.2cm。長方形の天板の長い方の端近くに刳り込みを入れた板状の脚(板脚・ばんきゃく)が付いている。脚は天板から釘で固定されている。天板はヒノキの一枚板で板脚共々外周、外面を水色に塗り、その他の部は素地。裏面は淡紅色。天板と板脚の外側面は水色を基調として各面の縁に沿って銀泥(金泥も同様であるが、金箔や銀箔をすりつぶして細かい粉末とし膠液・こうえき で練って泥状にしたもの)の小連珠文(勾玉を連ねて帯状にした文様)を配し、白(炭酸カルシウム)、青(群青)、赤紫、金泥で花文を描く。これも同類がいくつかあってこれまでもそれらの幾つかを拝観した。

中倉から「檜長几(ひのきのちょうき)」が出陳されていた。縦41.6、横 72.3、高 8.2cm。東大寺の諸堂での献物用の台で宝庫には全部で27点あるとのこと。これまでもそれらの何点かを拝観した。本品は同類の内で天板径が最大。ヒノキの一枚板の外周に巾3cm.程のカヤ材を廻らし、四辺の夫々の二箇所を釘で固定している。天板側面は素地に銀泥で花文を描く。床脚付きで、その各面には二箇所ずつの格狭間(こうざま、机の基部や床脚ではそれらの相対する面に脚を固定するための持送り・もちおくり という材が付けられるが、この持送りには牙状の突起が刳られることが多い。相対する持送りが近接してつくる間を格狭間と呼ぶ)があり、床脚、地摺の外側面には銀泥で草花文が施されている。 漆香水盆(うるしのこうずいぼん)があった。仏前に供える浄水用の盆。径38.9、高4.8、高台径36.3cmの木製、黒漆塗りの円形の盆。轆轤引きで成形され、周囲に高さ1.5、幅0.6cm.の丸縁(立ち上がり)をめぐらし、底部には盆本体より一回り小さな高1.5、幅0.8cmの高台(こうだい)が付いている。全面の黒漆が鈍い光沢を放つ。

木竹ではなくて草本が材料になっている「斑藺箱蓋(まだらいのはこのふた)」が出陳されていた。径17.2、高2.9、縁厚0.9cm。イネを束ねて芯とし、それをヤシ科の植物の葉で巻き、縄のようにしそれを重ねて成形。中央は放射状の文様編み、それを取り囲んで同心円が出来ている。かっては素材が藺と思われていたのでこの名が付いた。身は欠失している。中心部分は蘇芳染め、黄染め、漂白した白の3色を用いて三角形の文様を表し、それを取り囲む丸帯状の巻き材の所々に蘇芳染めの部分も認められ、あい対する四箇所には白と蘇芳染めの染め分けで三角形が作られ、所謂、民芸品的な美しさがある。中心部の編み方の巧みさから舶載品と推定されている。様々な植物の蔓を編み上げて色々な用途の入れ物を作り上げる技術はわが国を含む東南アジアにおいて現在も盛んに行われており生活に密着した技術である。殊に幾重にも重ねて編み上げそれに漆をかけたものなどは、これが植物性かといぶかられるほどに堅牢である。

この回の展示で既に拝観した木竹製品は以下の如くであった。 全浅香、紫檀木画双六局、黒柿両面厨子、漆挟軾、蘇芳地金銀絵箱、粉地彩絵長方几、朴木粉絵高杯、白葛箱、椰子実。これらの内、白葛箱は違った品が二年続けて出陳されたこともあった。椰子実も何回かお目にかかった。ココヤシの果穀を人面と化したもので、殻が最も薄い発芽孔を切り開けて円孔を作りそれをまん丸に開けた口とし、そこから縦に伸びる小隆起を鼻に見立てそれを挟んで左右対称に外側に向って下る長軸をもった楕円形の子房痕が垂れた目となり、異国から流れ着いた悲哀をユーモラスに表現している傑作だ。既に平安時代の終り頃から宝庫にあったとされていて、これも宝物の国際性を示す一面であろうか?

   


  

  
<第79回>

 昨年、平成20年までの22年間、正倉院展を連続して拝観できた。
目にすることが出来た木竹草本製の沢山の宝物の内で点数も多く優品も多かったのは、クロガキ、ケヤキ、ヒノキ、スギ、外材のコクタン、シタンであったろうか?

クロガキはトキワガキ、トキワマメガキ、タイワンコクタン、ケガキ(毛)、バンガキ(蕃)等の呼称があり、トキワと付くように常緑の高木で、その分布は伊豆半島以西の本州、四国、九州(含沖縄)、台湾、中国南部とされている。我々信州人は柿といえば、すっかり落葉した枝にたわわに実を残して澄んだ秋の空に映える姿しか思い出せないから、常緑の柿の木があることすらすでに異聞である。果実は小さく径2cm位までというからマメガキの呼称があり、タイワンコクタンの言いは、この木の心部が黒色を呈し、緻密でコクタンと同様に銘木として扱われてきたことを表している。ケガキの呼称は若枝や葉の下面に淡褐色の毛があることに拠り、バンガキの名はこの木が外来種であることを思わせる。事実、広義では黒檀はカキノキ属の木で黒色の心材を有するものを指しておりその点でクロガキと重なり合う。

つまり、狭義では黒檀というカキノキ科の常緑高木があり、インド南部及びスリランカ原産でその材は黒色緻密、材としての黒檀でもあり、烏文木(うぶんぼく)、烏木、黒木などとも呼ばれ、何れもその材が黒いことによる命名である。広義ではその心材がある範囲に亘り黒く緻密であればそれも(材としては)黒檀である。従って、黒檀の木以外でも、材が黒檀様であればその木まで黒檀と呼ばれる該当種の柿が数種類あるということである。例えば、リュウキュウガキは常緑高木で徳之島以南の琉球、タイワン、東南アジア、オーストラリアに産し、その心材は黒く、広義の黒檀とも称される木の一つである。

シナノガキと呼ばれる木が2種ある。マメガキ(ブドウガキとも)がその一つで落葉高木、朝鮮半島、中国、西アジア原産。日本各地で栽培されており、“シナノ”が付く理由は不明である。我々が日常目にする渋柿である。ご存知のように、柿渋の原因物質は水溶性タンニンである。従って水に不溶性になれば渋みはなくなる。タンニンの実利的な定義は「動物の皮を、通水性、通気性に乏しい“革”にすることができる植物成分、渋である」つまり鞣(なめ)す働きがある物質といることである。“鞣”すという文字はその工程を表して妙である。つまり、皮の毛や脂を除いて「柔らかにして革にする」ことを表している。物質としてのタンニンは、水に溶けること、たんぱく質と結びつくこと、結びついたものが沈殿すること、を備えていることが必要条件であった。

この基準で植物成分を調べると非常に多くの植物にタンニンが存在することが判った。最も身近なものでは茶の渋みである。タンニンの化学組成が判明すると含まれる範囲は更に拡大した。即ち、タンニンは必ずポリフェノールという化学構造を持っていることが判明し、現在では植物起源の水溶性ポリフェノールが全てタンニンと呼ばれることとなった。

ポリフェノールは今や“時の物質”で抗酸化作用があり、従って体内で起こる好ましくない酸化作用を抑え、動脈硬化を抑え寿命の延長につながるとして広く騒がれている物質であり、それに便乗して多くの市販薬が売り出され、多くの人がその異常な高値にも拘わらず買い求めて、場合によっては「おれおれ詐欺」をも凌いでいるかも知れない。タンニン酸と我々の体の中の代表的なたんぱく質であるアルブミンからタンニン酸アルブミンという薬が作られており、下痢止めとして日常的に使われている。この薬が体内で鉄と結合すると黒く変色し、これを飲んでいる時便が黒っぽく変色することがあるのはタンニンのせいである。

    


  

  
<第80回>

植物にとってタンニンはどういう働きをもっているか については・・・・・・

1)微生物と結びついてその侵入を抑える

2)動物に渋みを感じさせて食べられるのを防ぐ

3)植物の内、樹木が特にタンニンを含むが、大地に落ちた葉や実に含まれるタンニンが、土壌内の微生物、有機物と結びついてその樹木に適した土壌環境を作り出す

4)樹皮のタンニンは膜を作りやすいので、それにより樹体を風雨から守っている

等が挙げられている。 
甘柿にもタンニンは含まれるが、果実の中で自然に不溶性になっている(何故?)。同じく落葉高木でリュウキュウマメガキという種がありマメガキに近似している。これがシナノガキと呼ばれるべき種であるという。何故琉球の別名が“シナノ”か益々判らない。現在調査中である。

という訳で黒柿と黒檀は同じ柿の仲間であり、その材の心部の黒は共通の成因をもつことが頷ける。
正倉院宝物の中には有名な“螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんごげんのびわ)のように紫檀を用いた品がある。シタンはマメ科の落葉高木で材の心部がご存知のように暗赤色で、黒檀同様硬くて緻密であり、銘木・器材として珍重されてきた。分布域は黒檀材の産地より狭く、インド、スリランカ原産である。黒檀と同じく、同様の心部を呈する数種類の材をシタンと呼んでいる。

紫檀、黒檀、白檀の如く“檀”の付く材を檀木と総称する。共通の特徴は、何れも堅緻な硬質材で、奈良朝時代は貴重な輸入材であったことである。現在でも輸入材であることに変わりはないが、加えてその数の減少により尚更貴重である。これらの材は伐採後泥沼の中に貯木しておくと割れ目にも泥が染み込んで、紫色が増し材質が一段と良くなるといわれる。紫檀の属(分類上の一部門で細かい方から種、属、科、目、綱、門となる)は極めて多く全世界の熱帯地方に百余種を数えるという。わが国に輸入される紫檀類は紅木(こうき)紫檀、古渡(こわたり)紫檀、中渡紫檀、新渡紫檀、手違紫檀(てちがい、何故そう呼ぶのか調査中)、新山紅木などの名で区別されているという。紅木が最も貴重の由であるが殆ど入って来ないという。従って入手可能な範囲では古渡紫檀が最も貴重。

正倉院宝物で拝観した紫檀使用の品は、紫檀小櫃(したんのこびつ)、紫檀木画箱(したんもくがのはこ)、木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)、紫檀木画挟軾(したんもくがのきょうしょく)、紫檀小架(したんのしょうか)等の他、楽器類には各部分に紫檀が用いられていた。

前後するが黒柿を用いた宝物としては、黒柿蘇芳染金絵長花形几(くろがきすおうぞめきんえのながはながたき)、黒柿蘇芳染金銀山水絵箱(くろがきすおうぞめきんぎんさんすいえのはこ)、黒柿蘇芳染六角台(くろがきすおうぞめろっかくだい)、黒柿両面厨子(くろがきりょうめんずし)、黒柿蘇芳染小櫃(くろがきすおうぞめこびつ)、檜方几(ひのきのほうき、縁が黒柿)、仮作黒柿長方几(げさくくろがきちょうほうき)、黒柿蘇芳染金銀絵如意箱(くろがきすおうぞめきんぎんえのにょいばこ)等があった。

黒檀は箱類の縁と木画の花眼に多く使用されていて、それらの宝物としては、木画紫檀琵琶(もくがしたんのびわ)、木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)、木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)、沈香木画双六局(ぢんこうもくがのすごろくきょく)、朽木菱形木画箱(くちきひしがたもくがのはこ)、黄楊木金銀絵箱(つげのききんぎんえのはこ)等があった。名称は紫檀となっているが調査の結果では黒檀と判明している。

   

 

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