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私の”木”遍歴
  
第81回~第88回

 

 

  
<第81回>

 これまで連続22年に亘って拝観してきた正倉院宝物の内の木工製品でケヤキを用いた品はその件数では黒柿に次いで5番目に当たる。因みにその木を主要な材として用いられた順位は、一番多いのがヒノキ、次いでスギ、シタン、クロガキ、ケヤキ、サワグリ、キリ、同数でサクラ、カシとなっている。

ケヤキはわが国広葉樹中の一級品とされ、やや硬く強くその木目の美しい点でもその製品は見ていて飽きることがない。心材が赤味を帯びるものをケヤキまたはホンゲヤキといい、欅の字をあて、青味がかったものをツキまたはアオゲヤキとし槻の字を当てることもある。異常生長のために美しい杢目を示すものを文欟木(ぶんかんぼく)と呼んでいる。ケヤキの和名は「尊く秀でた」を意味する「けやけき」に由来するという。
正倉院宝物の中で全部ケヤキ材を用いた品に、赤漆欟木小櫃(せきしつかんぼくのこびつ)、赤漆欟木胡床(せきしつかんぼくのこしょう)、赤漆文欟木御厨子(せきしつぶんかんぼくのおんずし)、赤漆槻薬合子(せきしつつきのやくごうす)、槻薬合子(つきのやくごうす)、蜜陀絵盆(みつだえのぼん)があり、一部に用いた品に、唐櫃の脚(からびつのあし)、新羅琴の緒止め(しらぎごとのおどめ)、紫檀金銀絵書几(したんきんぎんえのしょき)の心材がある。

ケヤキの杢は本当に多彩で、伝統工芸展に行くと毎年必ずこの木の杢を生かした作品にお目にかかる。この木の杢は木工作家達の創作意欲を刺激して止まないようである。例えば昨年平成20年の伝統工芸展で木竹工及び漆芸の部門でケヤキを材料に使っている割合をみると、木竹工では全入選数93点中三分の一強の32点がそうであり、漆芸では全入選数100点中0であった。漆芸の場合は透き漆を使う以外は種々の色漆を使うことになり、色漆を使えば胎(漆器の素材)が何であっても色でかくされてしまうから、胎の美しさを出すとなれば透き漆しかなく、作品が限定されてしまう。一方、木工の方では仕上がりが素地のままということはなく大体透き漆をかけて仕上げるからこのような結果になるのは必然である。工芸作家にとってもケヤキの杢がいかに魅力的かこの数字がそれを表していると思う。

かつては、殊に農家では、どこの家でも何かお祝い事があれば、自分の家で餅を搗いた。ということはどの家にも臼があった。その臼の材として最も多用されたのがケヤキである。松本の近くに堀金村という村がある。そこに臼作りに励んでいる方が居られる。強くて耐久力があるケヤキが臼にとっては最高の材料だという。特に根元に近い部分が丈夫で臼に適しているとのこと。しかも厳しい環境で寒風に耐えたケヤキほど好適で、成長がよくて大きくなりすぎた木は、後で歪んだり捩れたり、暴れやすい。市場に並んでいるケヤキの中で臼作りに使えるものは、40~50本に1本程度とのこと。百数十年生のケヤキを使った臼は百年余りはもつが、それ以上の年数を経た材は却って材質が劣るとのこと。年間、海外も含めて百数十個の注文があり冬の間は臼作りに明け暮れる毎日。臼作り以外の季節は漆の杢を相手に様々な家具作りに励んでおられるようで、この方も臼作りを中心としてケヤキ(の杢)に取り憑かれたお方と表現しても間違いなさそうである。これだけ沢山の臼を作っても年間、その出来に満足できる製品は1~2個しかないとのこと。

匠とはその技に関して容易には満足せざる人なり。

 

  
<第82回>

 (臨時編 その1) 

屋久杉に学ぶ

1)屋久島の示す様々な貌(かお)

本当に久し振りに三度目となる屋久島詣でが実現した(平成21年4月18~21日)。この島は平成5年にわが国としては初めての世界自然遺産に登録されたのもむベなるかなの見所満載の島である。

初めて訪れたのは平成6年3月下旬で島を海沿いにぐるっと一周して終わったが少し高所ではうっすらと雪に覆われた景色も眺めることができた。屋久島は周囲130km程、面積500平方km程。鹿児島県に属し、その最南端である佐多岬の南方約70kmに位置するほぼ円形の島で北隣りのまっ平な種子島(最高所でも海抜282m)に比べるとその成り立ちが全く異なり、従って容貌も大きく異なる。
一つの島としては、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、淡路島、天草下島に次ぐ大きさである。これら七つの島のうちでその最高所が1172mの佐渡島以外はどの島も1000mには満たないのに、九州の最高峰、宮之浦岳(1936m)を始めとして1000mを越す山々が46座もあり、地元では奥岳といわれる重なり合う山々で満たされ大きさの割にヴォリュームに富んだ極めて特異な島である。

この島の山岳地帯には雪が降るがそれもかなりの豪雪という。これはこの島が冷温帯の気候区に含まれることを示しこの島がその南限である。これに対して海沿い、殊に南の海岸地帯は雪も降らず霜も降りない。熱帯・亜熱帯気候区に属する条件の一つに、年間積算温量180度数以上というのがあり、この島の南岸一帯はその数値が200度数前後になるので明らかに亜熱帯気候区に入る。南方系生物の分布様式をみると、この島は少からぬ種の北限にあたり、逆に冷温帯区の生物の南限でもある。例えばその気候区に属するマングローブと隆起サンゴ礁がみられるのは、この島と北隣りの種子島がその北限である。かくてこの島はその緯度と高さの故に南北に長い日本列島のほぼ全域の気候区を示している(垂直分布)。生きたサンゴの集まりとしてのサンゴ礁はかなり北の海でもみられるが(日本での北限は東京湾)、隆起サンゴ礁にも色々な形があるようだが、この島や種子島のものは沖縄本島や奄美大島、小笠原諸島のものと同じく隆起サンゴ礁の北縁にみられる裾礁(きょしょう)・エプロン礁と呼ばれるものに属するという。他方、この島の殆どを形成しているのは花崗岩である。しかも北アルプスやそこを源流としている川岸でみられる花崗岩と異なるのは、大小の岩の中、表面に長方形の斑状の結晶が象嵌されたように散らばっていて、恰も「われこそは屋久島の花崗岩の証なり」といっているようである。この斑晶(斑状結晶)は正長石で、この花崗岩は放射線年代測定から1400万年~1300万年前に形成されたものといわれ、西南日本が東アジア大陸縁から分離した際、誕生したばかりの熱い海洋プレートが沈み込んだ時の溶融現象としてのマグマがゆっくりと冷えた結果と説明されている。その「刻印」の部分は周りよりも硬いようで島の至るところでその刻印が地面に沢山に散らばっており、ことに水辺には多く水による浸蝕にも強いことが伺える。

この島は「洋上のアルプス」と言われるように「山岳」島であり、この島出身の小説家、林芙美子がその作品の映画化された「浮雲」の中で語らせているように、月に35日雨が降るといわれる「雨の島、従って水の島」であり、それと関連して「苔の島」でもある。年間降水量は7000~8000mmといわれ、多い年、多い所では10000mmに達するといわれる。その降り方も、半端ではなく、激しく降ってさっと晴れたり、全島に降っていたりある地域で降っていても、他では晴れていたり、南方的である。実際、平地でみていても、山岳に霧が立ち込めたとおもうと直ぐ晴れたり気象の変化が激しいことが体感される。丁度熱帯雨林でいわれる雲霧林のようである。
この島はまた、前述したように「花崗岩の島」である。そして最も人々を惹きつけて止まない「スギの島」でもある。樹齢1000年を越えて「屋久杉」と呼ばれるスギの大木は約2000本といわれるが、未だ発見されないものもあるといわれていて、この島の山岳がいかに入り組んで奥深いかを表して余りある。一般にスギの寿命は約400年といわれるので、1000年を越えるということがいかに稀有なことであるかが知れる。ところがこの島では、太古よりその数をかなり減らしたとはいえ、その長寿が当たり前のことのようである。
これはある日数滞在しないと遭遇できないかも知れないがこの島の雨上がりの虹は素晴らしいといい、人によってはハワイのそれに匹敵するとして「虹の島」と評している。

なお、陸のことばかりを挙げたが、ダイヴィングをする人にとっては「素晴らしい海に囲まれた島」という。豊かな海を育てるのは川であり、この雨の多い山岳島から沢山の川、大量の清らかな水が海に注いでいる。その海に潜って、単位時間に見ることができる魚の種類は日本一といわれる。

二回目に行ったのは、平成8年のお盆休みを利用してで、宮之浦岳へ登るのが目的であったが、雨に遇って大変な山行であった。今回は縄文スギが目当てであったが、これは好天に恵まれた入山であった。その次の日は雨で、予定外であったが、白谷雲水峡へも行って来られて、この島が日本の南の方に位置するにも拘わらず、海抜0からそそり立ち八重岳ともいえる高山が重なり合う地形の故に垂直分布がはっきりしていることも認識できた。本当に色々な意味で魅力的な島である。

この島が1993年(平成5年)に日本で初めての世界自然遺産に指定されてからは、主に縄文スギを求めて観光客が年々増加の一途を辿り、2000年には45000人であったが、昨年(2009年)には109000人に倍増。その90%が縄文スギ方面に集中する。加えて「もののけ姫」の舞台とされた「白谷雲水峡」の人気も加わって最盛期には観光名所は人で溢れている。ここで問題になるのは日本各地の山岳地帯でと同様にし尿による環境汚染である。今年の4月から5月にかけてのいわゆるゴールデン・ウイークには縄文スギの前は人人人で溢れ、5月4日には一日で1000人が殺到したという。現在は人力でし尿を車の入る所まで運び出している状態であるが、この休み中初めて試みられたポータブル・トイレは慨して好評であったといい、これからの日本の殊に山岳観光地のし尿処理方法としての嚆矢となるかもしれない。勿論長いパイプを引く方法、現地で浄化してしまう方法などその地に適した方策は様々あるかも知れない。

かつてこの島は「人2万サル2万シカ2万」といわれた。その人は増え続ける観光客とは裏腹に減少の一途を辿り、今や盛時から半減して15000人であり、一方ニホンザルの亜型である屋久島サル(ヤクサル)はその数を増やしている。
ダーウインがビーグル号の航海で得た知見をもとに長い思考の末にやっといわゆる「進化論」を世にとうたのは50才のときであったが、その進化の実験場は世界の各地でみられる。ここ屋久島でいえば、例えば「ヤクサル」は元々「ニホンザル」の亜種で小型ではあったが、数を増やした結果、限られた食料でどう種を維持していくかの問題が生じ、結果として固体の矮小化(小型化)がすすんでいると地元の人たちは言う。その意味ではダーウインのいう進化論を実証している現場の一つであるかもしれない。更に、ヤクサルは毛が厚く長くこれも多雨地帯に適応した現象とみられ、かつて田舎に暮らしていた人たちが雨が降ると蓑をつけていたのが思い出される。

これはこの島の自然現象に直接拘わる問題ではないが、島で地道にガイドを務めている島を熟知している人たちに加えて、最盛期だけ、しかも島外から入り込む俄かガイドの問題もあるようである。原因はガイドとしての資格を認定する仕組みができていないからでもあろうか?

この素晴らしく変化に満ち満ちた島の抱える問題も少なくはない。

 


  

  
<第83回>

   (臨時編 その2) 

屋久杉に学ぶ

2) スギの種々相 その1

スギはどうしてそう呼ばれるのだろう?「ス」は「真っ直ぐ」の「直」であり「ギ」は「木」だからスギは「真っ直ぐに伸びる木」の意であり、呼び名が体を表している。スギはスギ科スギ属の常緑針葉高木である。日本固有種か中国を含めて準固有種であるかは明確な結論は出せないという研究者もいるようであるが、学名にはjaponicaがついている。生物の分類は細かい方から種、属、科、目、綱、門となるが、我々が普段目にするスギはスギ科スギ属であり、その殆どが植栽されたもので天然林はごく限られた分布を示す。そのスギは他に8属あるが地球上における分布は北半球の太平洋を取り巻くごく狭い範囲にしかない。

現在の日本ではごくありふれた樹木の一つであるこのスギはスギ花粉症の人からは嫌われる存在であるが、建築用材として、その他の様々な分野において極めて有用度の高い樹木である。現在ではありふれた樹木であるスギ科の多くは恐竜が生きていた最後の時期である中生代白亜紀の後期に現れ、次の第三期には北半球の広い範囲に分布していた。しかし、第四期に移行する時期に気温の低下(氷期の到来)、なかでも冬季の冷温乾燥化などの影響で、次第に姿を消し、最後まで生き残ったメタセコイヤ(あけぼのすぎ)も約100万年前に日本列島からは姿を消した。一方現在繁茂している普通のスギは何回かの氷期に耐えて生き残った。その意味で現在のスギはまぎれもなく“生きている化石”であり、いわゆる“遺存植物”の一つである。

日本における最も古いスギ属の化石は現世スギの祖先型であるミヤタスギで、これは秋田県田沢湖の北方、宮田集落付近の地層から発見された宮田植物群(化石)の一員として出現した。本州、四国、九州に生育しているスギを見慣れた目からみると屋久杉は全く別の樹種のように思える。普通のスギの平均寿命は400年から500年といわれているのに、屋久杉という呼称は樹齢1000年を超えた木に与えられ、1000年以下のものは“小杉”と呼ばれるとは多くの人たちの知るところである。つまり屋久島のスギは桁外れに長寿である。しかし、植物分類学では日本列島に生育するスギはなべて同一種である。つまり皆同一のDNAを有するということである。

チャ-ルス・ダーウインがビーグル号の航海で立ち寄ったガラパゴス諸島でフィンチ(スズメ目アトリ科の鳥の総称)のくちばしの観察から、食性によりそのくちばしの形態が様々に異なることに気付きそこから“適応と放散”という、かの“進化論”の柱の一つを打ち立てたが、植物学的に同一種であるスギもこの南北に長く太平洋やユーラシア大陸の影響を受けて気象状況が複雑に変化する日本列島にあっては地域によって○○スギと呼称される特有なスギが育ち適応してきた(地域品種)。

それらをおおまかに挙げると、先ず、北限のスギである青森県、鯵ヶ沢(あじがさわ)のスギ、ここではブナ帯の中にスギが散見され、保存林内では46%を占める。同じ青森県の世界自然遺産、白神山地のスギ。白神山地といえば直ぐブナと結び付けられるが、ブナ、トチに混ざって急傾斜地に散見されるスギも樹林を構成する大切な要素である。次いで、秋田スギ、能代スギという呼称もあるが、保護されているのは「水沢のスギ」である。これが天然秋田スギにあたり、標高が低く利用しやすい環境に生育しているため江戸時代からかなり伐採されていて、かつてはブナやトチとの混交林であったが現在はスギの純林で、その優れた材質から佐竹藩の厳重な管理下におかれたため命脈を保った。市場では稀少な銘木として取引されているという。秋田県には他にトウドウスギと呼ばれる天然スギ林がある。県の北部にある能代市の東、県域東西のほぼ中央に森吉山(1454m)があり、その南東8kmにある古い火山の山頂部よりの緩斜面の桃洞沢上流ともう一つの沢の上流部の二箇所に分かれて分布する。



  

  
<第84回>

(臨時編 その3) 

2)スギの種々相 その2

次は富山県であるが、先ず杉沢のスギがある。ここは、日本一の急流といわれる黒部川扇状地の北部末端にあり、日本海の護岸提から僅かに100mの地帯で普通の海岸であれば、海水の浸潤が起こりうる場所であるが、急流黒部川の伏流の水圧が強いために海水の浸入を防いでいて、天然記念物に指定されている。富山県には他にタテヤマスギがある。これは杉沢とは対照的というか、この立地が普通といおうか、常願寺川の溶岩台地、弥陀ヶ原にまで及ぶ傾斜地で、海抜1000mからスギの生育地としては日本最高所の2050mにまで及んでいる。かくて富山県には海抜数mの低地からこの高所までのスギの分布がみられる。 

又、この県には有名な埋没林がある。埋没林は土中に埋もれた森林を意味しているが、魚津港周辺にある埋没林は、海進(水位の上昇により海岸線が陸地の方へ入り込んだ状態)又は沈下により陸地にあった森林が海中に没し、その後の河川からの土砂の堆積により更に埋没が進んだと考えられる。昭和5年、港の浚渫工事中に海面下、60~110cmの所で多数の根株が発見され、その殆どがスギで1300~1800年前に埋没が生じたと推定された。スギは氷期を生き延びた後、最終氷期(約1万年前)以後急速に勢いを増して、この富山湾では立山黒部山系からの伏流水の圧が高いこともあって海岸に近い所までスギが繁茂していたことが推測されその一部が埋没したと考えられる。

次は神奈川県箱根の神代スギと逆さスギである。神代スギは火山の爆発や地震による山崩れなどにより埋没したものを指すが、樹種はその時の状況によるから、スギの他、ケヤキ、タモ、クリ、カツラ等様々である。これらの土埋木に共通しているのは色の変化で、一様に黒ずんだ色調を呈する。雨の日、撥ね飛ばされた泥が衣類に着くとその部分が染色されたようになって、中々落ちない。土の中に含まれる様々な金属は顔料だから、何百年、何千年と土中すれば染められるのは当然で自然の手による化学変化である。有名な自然の作品としては鳥海山の火山活動による土埋木がある。

箱根の神代スギは古仙石原湖跡に出来た低地に生育していたスギ林が土中したもので、1800年前に埋まったと推定される埋没スギの中には樹齢340年、直径2.2mの巨木もある。発掘の結果からこのあたりではかなりの密度で大径木が育っていたと推定されている。箱根火山群の不安定な傾斜面に生育していたスギなどが地震などの地滑りで芦ノ湖に立木のまま水没したもので、湖上からは梢が上、根部が下に見えることから逆さスギと呼ばれる。箱根に残る850年~3100年前に埋没あるいは水没したこれらのスギは1000年から5000年前といわれるスギの全盛時代を物語っている。

最後は高知県の梁瀬(やなせ)スギである。室戸岬の北、梁瀬地方は黒潮の影響を受けて年間を通して温暖で多雨。しかも透水性のよい土壌といわれ、太くて節の少ない良質のスギを産し、屋久スギ、秋田スギに比肩する評価を受けている。

このようにスギという樹種はこんなに小さな日本列島でも、南北に長いが故と太平洋の北西に位置し、日本海を挟んでユーラシア大陸の影響も大きく受ける環境にもある複雑、多様な風土に適応してその北限である青森県から南限である屋久島に至るまで、これが同じ樹種かと思われる程の変化を遂げている。わが国の森林率は68%。その内、天然林は54%にあたる。しかし、その大部分は広葉樹で針葉樹は2割程度といわれる。針葉樹の中でもアカマツ、クロマツが多く、純林を作らず広葉樹の中に点在することの多いスギは、天然林としてはごく僅かである。人工林となるとスギの面積は多く全森林の2割を越える。箱根旧街道にしても、日光のスギ並木にしても何れも植樹による人工的なものである。地域品種としてのスギの自然林はその立地が険阻で人が近づき難い場所であったり、又は木の変形が強く使用に向かず人の手が入らなかったりで守られたか、藩の財産として皆伐が避けられたかであった。





  

  
<第85回>

(臨時編 その4) 

2)スギの種々相 その3 起源が一つと考えられるスギも日本列島の中で環境に適応して様々に変化した。前述した地域品種を含めてもっと大きく分けると、 日本のスギは日本海側の“ウラスギ”と太平洋側の“オモテスギ”とになる。前者に鰺ヶ沢のスギ、白神山地のスギ、水沢のスギ、桃洞スギ、立山スギ、杉沢のサワスギ、八郎スギ(広島県北西部)が含まれ、後者には梁瀬スギ、鬼の目山スギ(おにのめ・宮崎県)、吉野スギ(奈良県)、屋久スギが入る。ウラスギ系はその分布からも察せられるように、低温多湿型の地域によく生育し、オモテスギ系は高温多湿型の地域でよく育つ(気候品種)。この分類では屋久スギはオモテスギに入っているが、屋久スギが北上して日本列島に広がったとの考察もあり、それによれば屋久スギが日本列島のスギの始祖であり、屋久スギにこそ天然スギの姿が残っていることになる。

スギは雌雄同種で、花芽の分化は前年の6~7月頃から9月半ば頃まで続き、その間、平均気温が25℃以上の高温(夏日か真夏日)であると、雄花芽が、それ以下では雌花芽が分化しやすいという。それ故、いわゆる「花粉症」の発症率、症状の軽重はその年の花粉の飛散量、従って前年の気温に左右されることになる。

スギはわが国で最も重要な林業樹種の一つであり、現在では全人工林面積の40%を占める。スギ材は木理が通直で、辺材と心材の区別が明らかであり、辺材は淡黄白色から淡黄色、心材は淡紅色から黒褐色まである。適度の強度と耐朽性があり、割り易く加工が容易。建築材をはじめ、家具材、樽材などのほか、船材や土木用材、電柱、下駄、彫刻材、割り箸材、楽器材などに用いられてきた。樹皮は屋根葺き用に、葉は粉末にして線香、抹香の原料にもされる。昔から、日本酒に香りをつけるための酒樽の材料として欠かすことができず、そのためにスギの植林が始まったとさえいわれる。

スギの仲間にメタセコイヤという一属一種がある。日本の植物学者、三木茂博士(1901~74)が日本で出土する化石(植物遺体)を基に詳細な調査研究をされこの樹のあるが姿を作り上げ、第二次世界大戦が始まった 1941年にメタセコイヤと命名した。1946年(発表は1948年)中国でその樹とは知らず現存種としての発表があり、これぞ“生きた化石”としてその情報が世界を駆け巡った。この樹は100万年程前にこの地球上からは姿を消したものと思われていた。ところが、1941年、三木博士が化石研究を集大成してメタセコイヤと命名した。その頃中国四川省の奥地でその樹が見つかっていた。日中も交戦状態にあったが三木博士は中国の研究者と連絡を取り合い化石の現存種であることを確認していた。三木博士は英文の研究論文を戦時下、船便で世界各国の研究者に送っていたがそれらは殆ど届いてはいなかった。この樹は水気を好み、湿地や谷間に生息しているので水スギと呼ばれていた。樹高 30m、直径20mという大木になり落葉するスギの仲間である。その後の調査で地球が温暖であった頃のことであろうが、北緯80度の極地でも沢山の株の遺残が発見され、このスギがかって、この地球上に広く分布していたことが確認された。現在、日本を含む世界各地にこの樹は植えられているが、それらは全てこの四川省の地域からの種子によるものである。

メタ(後の)セコイヤと命名されたのは、セコイヤがあったからであるが、これもスギの仲間で北アメリカ大陸に生育している。先住民のアメリカ・インデアンは勿論この巨樹の存在に気付いていて、セコイヤという名前もインデアンの賢者の名であるという。ヨーロッパからの植民者がこの巨木に気付いたのは 1769年のことというが、植物学的に研究されて命名されたのは1847年である。

   


  

  
<第86回>

(臨時編 その5) 

2)スギの種々相 その4 現生のセコイヤ類には2種類あり、一つはセコイヤ・セルぺンビレンス、もう一つはセコイヤ・デンドロンである。前者はレッド・ウッド(Redwood)と呼ばれ、樹皮が赤褐色で葉が羽状配列する。北米西部の海岸山脈に自生している。大きなものは高さ100m、胸高直径6~9mにもなり、樹齢は400~1300年にもなるという。後者はブラック・ウッド(Black wood)とかピッグ・ウッド( Pig wood)と呼ばれ、樹皮が黒褐色で葉が螺旋配列をする。海岸から少し内陸に入ったシェラネヴァダ山脈にあり、高さ100m、胸高直径30m、樹齢は2000~2300年、時に4000年に達するといわれ、セコイヤよりも太く、地球上の現存種で最も巨大な生育とを遂げる樹として知られている。

1946年(発表は1948年)中国でメタセコイアの現存種が発見され生きた化石として大騒ぎになった。こんなにありふれたスギも6500万年以上も前の植物の生き残りであり、その意味では“生きた化石”と呼ばれても不思議はない。何故このようなスギの歴史が大切かというと、日本における現世のスギは屋久杉から始まりそれが北上して現在の林相が形成されたといい、ありふれた木“スギ”の始まりは屋久杉だという有力な説があるからである。生物は、細かい方から、種、属、科、目、綱、門と分類されるが、スギの学名にはjaponicaがついており分類上は日本の固有種であることを表している。スギは雌雄同株で、花芽の分化は前年の6~7月頃から9月半ば頃まで続き、その間、平均気温が25℃以上の高温(夏日か真夏日)であると、雄花芽が、それ以下では雌花芽が分化しやすいという。それ故、いわゆる「花粉症」と関連して、前年の平均気温が高いとその翌年の花粉の飛散量は多いこととなる。

メタセコイヤは落葉する針葉樹でスギ科メタセコイヤ属の一属一種である。メタセコイヤという名称は日本の植物学者、三木茂博士(1901~74)が日本で出土する化石(植物遺体)を基に、第二次世界大戦が始まった1941年に命名した。この木は100万年程前にこの地球上からは姿を消したものと思われていた。ところが、日中戦争の最中であったその同じ年に中国四川省の奥地でそれと判らないままに見つかっていた。その発表が上記1948年である。現在、世界各地にこの木は植えられているが、それらは全てこの四川省の地域からの種子によるものである。

三木茂博士が第二次大戦後までに亘って日本及び他国で苦難の末、詳細に化石またはそれに至る段階の発掘研究から現生種の殆ど全てを明らかにしていたが、大戦の混乱でその成果が外国に知られないうちに現存種が発見された上記のメタセコイアである。

A) 日本各地のスギ

生物の起源は一つでも長い時の流れの中でその環境に適応した(適者生存)。起源が一つと考えるスギも日本列島のなかで様々に変化した。スギを大きく分けて日本海側の“ウラスギ”と太平洋側の“オモテスギ”に分ける。わが国における代表的スギ天然林としては、前者のなかで有名なスギは秋田スギ、八郎スギ(広島県北西部)、立山スギ(富山県)、杉沢のサワスギ(富山県)、桃洞スギ(秋田県)、水沢のスギ(秋田県)、鯵が沢のスギ(青森県、北限のスギ)、白神山地のスギ(青森県)であり、後者の代表としては、魚梁瀬スギ(やなせ、高知県安芸郡)、鬼の目山スギ(おにのめ・宮崎県)、吉野スギ(奈良県)、屋久スギ、がある。ウラスギ系統はその分布からも察せられるように、低温期多湿型の地域によく生育する。それに対して、オモテスギは高温期多湿型の地域でよく育つ。このような種分類を気候品種という。

     


  

  
<第87回>

 (臨時編 その6) 

2)スギの種々相 その4

B)スギの仲間

前述したように、スギは日本の固有種であり、分類上ではスギ属には一種しかなく従って一属一種ということになる。ただこれは大勢を占める説であり、中国を含めて準固有であるかは未だ結論が出てはいない。生物の分類を研究している専門家達は日々頭を悩ませているのではないだろうか?

分類するということは分類の最小単位である種と種の間には明確な形質の違いがなくてはならないし、同一種の中にあっては、共通の形質が認められなければならない。ところが、この地球上の生物にあっては分類するということがいかに至難な作業であるかを思い知らされる。例えば常に人類を悩ませ続けてきた、そしてこれからも悩ませつづけるであろうウイルスは生物に違いない。しかし、ある種のウイルスはそれを結晶にすることが出来、それを戻せばまた生物のように振舞う。結晶とは無生物の特性であるとすれば、ウイルスは生物と無生物の間にあるとしか言い様がない。 単細胞生物のミドリ虫はその名のとおり緑、即ち葉緑体を持っていて光合成を営んでいる。光合成は植物の特性である。これはどう考えればよいのであろうか? 街路樹としてよく見られるイチョウは誰が見ても植物である。しかし、その生殖細胞は精子である。精子は動物の特性のはず、これもどう考えればよいのであろうか? ほんの2,3の例からも、はっきりと区別することはそれ自体無理なことではないかと思えて来る。ヒトでいえば半陰陽という現象もある。

スギはスギ科、スギ属、スギと分類されている。スギ科はこの地球上に9つある。日本のスギ、中国、台湾のコウヨウザン、中国南部のミズスギ、中国:四川、湖北、湖南のアケボノスギ(メタセコイア)、中国、台湾のタイワンスギ、タスマニアのミナミスギ、アメリカ西岸のセコイアメスギとセコイアオスギ、アメリカ、メキシコのヌマスギがそれである。

これらスギ科の仲間は何れも太平洋を取り巻く、しかもタスマニアを除いては北半球のごく狭い範囲に分布しているにすぎない。スギ科の多くは(恐らくは巨大隕石の地球への衝突によって)恐竜が絶滅したといわれる中生代白亜紀の後期(約6500万年前)に出現し第三紀(約6500万年前~180万年前)には北半球一帯の広い範囲に分布していたとされている。

スギ属の方は第三紀最後の鮮新世(500万年前~180万年前)に日本やヨーロッパなど広い範囲に現れたという。しかしスギ属は第三紀から第四期(現代はここに入る)への移行期に氷期が到来して地球が寒冷化したため最後まで残ったメタセコイアも100万年ほど前に日本列島から絶滅したと考えられている。スギが勢いを盛り返すのはその後何回かの氷期に耐えて10万年くらい前からで、現在(代)に至っている。

前述したように、日本における天然スギを大きくウラスギ、オモテスギに分ける考え方を紹介したが、その考えではヤクスギはオモテスギに入れられている。しかし、ヤクスギが日本における天然スギの原初形であるとしても、現在の形質からは、ヤクスギがその他のスギと色々な点であまりに異なることから、ヤクスギを独立した存在として、ウラスギ、オモテスギ、ヤクスギと分けるべきとする考えもある。スギの本で調べても佐渡島の天然スギについては触れられていない。NHKのTVをみていたら大佐渡山脈に天然スギの群落があり、大学の演習林などとして、一般人の立ち入り禁止などの措置により大切に保護されており、ヤクスギと同じように、「大王スギ(樹齢500年以上)」や、「千手(せんじゅ)スギ」、「タコスギ」などと名付けられているスギがあることを知った。

   


  

  
<第88回>

 第61回正倉院展における木竹工品

これまで23回連続正倉院展を拝観できた。
昨年は60回目であり人で還暦に当たる記念の展示であったが、今年は御即位20年記念ということで開催期間が20日間と長かった(昨年は16日間)。正倉院展は何時もの賑わいであったが、それにも増して盛況を極めたのは、先に東京上野の国立博物館へ出張展示された興福寺の阿修羅像を中心とした八部衆が首都で旋風を巻き起こし、郷里の古都奈良へ凱旋し、しかも何時もの宝物館の陳列戸棚の中ではなく古いお堂の中での展示という趣向が人気を呼び正倉院展がその影に隠れた感があった。

この23年間で初めて会場で目にした光景は、学生アルバイターと思しき若者が観客の指の脂で汚れた陳列ケースのガラスを拭いたことであった。美術館、博物館の中には「陳列戸棚のガラスに触れないで下さい」と注意を喚起している所も出てきたが、国立博物館・美術館こそ観客のマナーの指導を率先してやるべきだと思っている。好ましい光景というか、裏を返せば観客のマナーがいかに悪いか、観客が異常に多いかの現れともとれる。

今年の展示は67件、内、初出陳が12件であった。初めてといっても、何点かある同類の中の品を代えての展示が多くみられ、木竹草本製品に就いてみれば該当20点の内、13点までがその類であった。
複数点ある同類の中で優品とみられる品は展示の目玉として6~10年の周期で出陳されるようなので、 長い間には宝物の中でもそうではない品(?)にお目にかかることになる。

金銀絵棊子合子(きんぎんえのきしのごうす)があった。「棊子(碁石)の合子」は碁石を入れる蓋付きの入れ物で2個で一対。サクラ材を轆轤挽きした直径9.7,高 5.3cmの円形。丸太の芯を中心にした木取りをしてあり、蓋は僅かに甲盛(蓋の中心を僅かに高くする細工)。塵居(ちりい・甲盛のある蓋でその側面と接する部分を平にしてある所、塵が着き易いのでいう。古人の表現力にうならされる日本語)付き。蓋の表面、身の底面は同心円を描きその木目を活かすためか素木地(しらきじ)で、そこに鳥、蝶や唐花文(インドやササン朝ペルシャの影響下に唐で発達した、様々な花を複雑に組み合わせて出来る模様、それをわが国では「からはなもん」と呼んだ)を配した。2個の模様は同じではなく片方が金のところを他方では銀にしてある。2個とも蓋には中心に向う亀裂が、何れも一本づつはいっており、1000年を越える時の流れを感じさせる。

黒柿蘇芳染金銀山水絵箱(くろがきすおうぞめさんすいえのはこ)この類は宝庫に多くあるようで、これは32号となっている。縦18.0,横38.8高12.5cm、床脚付きの献物用の箱。クロガキを蘇芳で染めてシタンに似せ、表面に金銀泥(金箔や銀箔を磨り潰して細かな粉末とし、膠液でねって泥状にしたもの)で山岳、瑞雲、鳥、木などを配してある。

初めて拝観した木竹工品はこの2点で後の18点は既に観た品々であった。

鞘は木工品ではあるが、黄楊木把鞘刀子(つげのきつかさやのとうす)という同大(全長25.2cm)の2双の小刀が出ていた。そこに、坂城町が生んだ刀匠で人間国宝であった宮入さんの甥の宮入法廣(のりひろ)さんの摸造品が出陳されていた。これは宮入さんが正倉院事務所の依頼によって昨年製作し納めた品で、正倉院の宝物を各分野の名工に依頼しての作製品の一つ。宮入さんのご母堂に伺ったところでは鞘師(さやし)は現在1人しか居ないとの事。日本刀は玉鋼(たまはがね)と呼ばれる純鉄で、以前、宮入さんのお宅で見せて頂いたが、その重いこと。かつての戦国武将達は現在の日本人よりも体格が小さかったが、それにも拘わらずこんなに重い刀を振り回していたのかと思うと、彼らの凄さと同時に現代日本人の力のなさを痛感させられる。尤も名刀を所持していたのは武将達だけで陣笠は安くて軽い刀だったとしか考えられない。

(おわり)

   


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