HOME 診療方針 スタッフ紹介 施設紹介 アクセスマップ
        
  
漆芸諸国めぐり
  
第11回~第15回

 

 

  
<第11回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その11

蒔絵(1)

蒔絵は黒漆の上に金銀の粉末を蒔いて文様を表す技法で奈良時代にわが国で考案されたといわれ、この技法により漆芸に一段と多様さが加わり、漆芸をjapanと呼ばせることとなった。 奈良時代の漆芸に“末金る”と呼ばれる技法があり、これは金粉と漆を混ぜて描いた一種の泥金漆画と言われていたが、現在ではこれが初期の蒔絵で後に蒔絵の名称に変わったとされている。

移入文化の和様化が一段と進んだ平安時代には前述の螺鈿(平文)に加えて沈金、存清(存星、ぞんせい:中国漆芸の一技法で朱、黄、緑、黒など各種の彩漆で花文を描き乾燥後に輪郭や葉脈、花の芯などを線刻する。存清の語は日本での呼称で中国では彫填・ちょうてん、填漆・てんしつと称していた由)、彫漆などの他の技法と組み合わせることで日本の漆芸は更に多彩、豪華なものとなっていった。

黒漆の表面に金銀粉を蒔いて特に文様を作らないものを地蒔きというが、それにも様々な技法が駆使されている。

①塵地(ちりじ、平塵・へいじん):漆塗りの面に金銀錫などの鑢粉{(やすりふん・金銀の地金をやすりでおろしたままの粉、稜角があり粉の大小もあってそれが変化を醸し出し平安時代に多く用いられたが、鎌倉時代以後にはこの粉末を均一にし更に細粉(平目粉・ひらめこ、梨地粉・なしじこ、として用いられるようになった)の粗いものを蒔き研ぎ出す技法 。

②沃懸地(いかけじ):漆面がまだ乾かぬうちに金銀の鑢粉を一面に又は濃淡に蒔きつめその上に漆を塗って研ぎ出す技法で中尊寺金色堂の巻柱が有名。鎌倉時代にはその強烈な輝きが好まれて盛んに用いられたが時代が下ると均等な細粒に変化した。近世になると紛溜地・ふんだめじ、紛地・ふんじ、とも呼ばれ、金沃懸地は金地、金溜などともよばれた。広辞苑によると沃懸とは、水などを注ぎかけること、器物を銀・錫などで縁どること、沃懸地の略、とある。

③梨地・平目地:梨地は鑢粉を平らに延ばして作った梨地粉を蒔きその上に透漆を塗り磨きだして仕上げる。その表面の感触が果物の梨のそれに似ているから付けられた名称でむべなるかな。平目地は鑢粉を平らな金属板の上におき、上から叩きつけて平らにした粉(平目粉)を蒔き透漆を塗り研ぎ出して仕上げる。この両技法の違いは梨地では粒子の上になお漆の薄幕が残りその中で金銀の粉が光るように、平目地では漆膜の表面に露出した金銀の粒子が光るようにという技法である。

有名な作品に東京国立博物館にある国宝「片輪車蒔絵螺鈿手箱(かたわぐるままきえらでんてばこ)」がある。12世紀を代表する漆芸品とされ化粧品を入れたのではなく、経箱ではなかったかとも言われている。製作のヒントは川で牛車を洗っている場面からといわれ、川の流れとその中に半分没した車輪が金や夜光貝で表現されている。箱は全体に緩やかな曲面で構成され柔らかな感じを与える。蓋は身を上から覆う被蓋造(かぶせぶたつくり)で、甲板(こういた)の中央を緩やかに盛り上げ、上面が側面に移行したすぐのところに四周に亘る小さな段(塵居:ちりい、という)を設け側面下端には縁がつけてある(覆輪・ふくりんという)。蓋の側面も中央に向かって緩やかな凸面を造り光の反射を殺している。平面を組み合わせると光を反射して中央が窪んで見えることがあり、緩やかに膨らむ局面の組み合わせで強い反射を避けるという光学的、視覚的な効果も発揮されている。

蒔絵は、金銀の粉を同一面に蒔きつけた研出蒔絵 (絵漆で文様を描き、その上に金粉や銀粉または 色粉を蒔きつけ、乾燥後透漆ないし黒漆を塗り、乾いたら木炭で文様を研ぎだして摺り漆を塗り油と砥の粉で磨いたもの)で、蒔絵の順序は先ず車輪や川の流れを描きその後、地文である平塵を施している。
つまり、川の流れを表す曲線の間に平塵を作りあげている。
   


 

  
<第12回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その12

蒔絵(2)

前回の用語の説明(うるし工芸辞典参照)。

絵漆:木から採取したままの漆液(荒味漆)からゴミなどの混ざり物を濾過して取り除いてえられた生漆(きうるし)を天日に当てて水分を蒸発させ(黒目漆・くろめうるし)、そこに良質のべんがらを加えて練り合わせたもの。あらゆる蒔絵の基礎になる。

透漆:生漆にナヤシ(荒味漆のゴミを濾過し、攪拌して質を均一にすること)とクロメ(かっては天日や炭火で暖めながら長い箆・へらを使ってクロメとナヤシを同時に行った。クロメの温度は40~45℃、漆は60℃内外で最も乾燥する)を行い細かい塵などを濾過して得られた漆液で蒔絵、漆絵など様々な加飾に使用。

黒漆:黒色の漆。酸化していない鉄粉、水酸鉄、酢酸鉄などを原量漆液に1~2%加えて作る。かっては鉄の代わりにおはぐろや油煙、松煙などを用いた。

摺り漆:漆を脱油綿または布片にしませて摺り付け、その後和紙か一度漆を濾した濾殻(こしがら、 一度漆を濾すのに使って乾燥させた吉野紙などのこと)で拭き取ること。

砥の粉:砥石から作った粉末。

蒔絵の工程からの分類

1.研出蒔絵:前述

2.平蒔絵:研出蒔絵はその名のとおり、“研ぎ出す”という手間のかかる工程が必要であった。 金粉の製法も進み大きさの揃ったより細かな粉が作れるようになると漆で描いた文様の上に必要に応じてこれを蒔きそれを透明な漆液で固めて磨けば出来上がりとなる。これが平蒔絵で 研ぎ出しの手間がないだけ効率よくしかも生き生きとした文様が可能である。

3.高蒔絵:地盛りをしてその上に平蒔絵の技法を施すやり方である。その盛り上げ方に2種類ある。一つは漆だけを盛り上げる方法、他は盛り上げた漆に木炭の粉末を吸わせるだけ吸わせて一層高い地を作りその上に蒔絵を施す技法である。

4.肉合(研出)蒔絵(ししあいとぎだしまきえ):これは高蒔絵の上から透き漆を塗り、凹凸の上を研ぎ出して文様とする技法である。菱合(ひしあい)研ぎ出しともいう。肉合とは肉付きのことを指し、肉上げという表現もあるように地の盛り上げ具合を指している。各種の蒔絵技法の内で最も工程が多く高い技術を要求される。有名な作品として三代将軍徳川家光の娘千代姫が尾張徳川家二代光友に輿入れする際、幸阿弥長重が製作した国宝初音蒔絵調度(徳川美術館蔵)がある。

これら四法が基本で、粉の種類からは以下のように分類される。

5.消粉蒔絵:金箔を膠液か飴液に混ぜ、乾燥後に手で揉んで粉末にしたものを消粉(けしふん)と呼び、これを用いた蒔絵であるが研ぎ出せない。高蒔絵と平蒔絵があるが廉価な日用品に多用されている技法である。

6.平極蒔絵(ひらごくまきえ):平極紛及び半丸紛(はんまるふん・鑢粉・やすりふんに僅かな丸みをつけたもので丸粉と平粉の中間)を用いた蒔絵。前者は粒子が粗く金属に近い強い光沢があり、後者は鑢粉に僅かに丸みを付けたもので丸粉と平粉の中間にある。



  

  
<第13回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その13

蒔絵(3)

蒔絵の粉の種類からの分類
③本蒔絵:金、銀の丸粉を用いた蒔絵。前回の①消粉蒔絵や②平極蒔絵に比して最高で本格的な技法であることから“本”が冠せられている。本技法も研出蒔絵、平蒔絵、高蒔絵、肉合研出蒔絵などに分かれる。

ほかに“蒔絵”と付いた技法を拾い出して見ると・・・・・・

★会津消蒔絵:会津独特のカサアリと呼ばれる微細な消紛を用いた蒔絵。非常に粒子の細かい金粉なので、蒔いたままで磨かなくてもよい。
★上研出平蒔絵(あげとぎだしひらまきえ):丸粉による平蒔絵の中で部分的に研出蒔絵の技法を加えたもの。
★彩漆蒔絵(いろうるしまきえ):金銀粉と共に彩漆ないし彩漆の乾漆粉を併用した蒔絵。
★色粉蒔絵(いろこまきえ):朱、黄、緑などの色粉を漆で描かれた文様に蒔きつけて磨き仕上げたもの。
★浮上研出蒔絵(うきあげとぎだしまきえ):研出蒔絵の一種で文様の部分だけ粉蒔きを高蒔絵風にして椿炭で研いだ後梨地漆を加えて文様の部分の肉付きが高いまま研いで仕上げたもの。
★漆上高蒔絵(うるしあげたかまきえ):高蒔絵の一種。肉上げに炭粉をもちいず、高蒔絵漆で直接盛り上げたもの。
★加賀蒔絵:江戸時代、加賀藩で栄えた蒔絵。
★高台寺蒔絵:京都東山にある高台寺の霊屋(おたまや)の内陣の蒔絵と、同寺に所蔵されている調度品の蒔絵及び同系統の品を含めた名称で、桃山時代の蒔絵の代表とされる。30点に及ぶ調度品は豊臣秀吉とその夫人北政所の愛用品であった。平蒔絵が中心で簡単で伸び伸びとした作風は高台寺蒔絵様式と呼ばれる。
★錆上高蒔絵(さびあげたかまきえ):高蒔絵の一種。錆漆(生漆に、砥の粉を水で練って粘土状にしたものを混ぜたもの、単に錆ともいう)を塗って肉上げしたもの。炭粉を用いた普通の高蒔絵よりも高く盛り上げができる。
★研切蒔絵(とぎきりまきえ):研出蒔絵の一種で金錫粉地に木炭粉や銀粉を用いて墨絵風の濃淡のある絵を蒔絵で表したもの。墨絵研切蒔絵又は墨絵蒔絵ともいい、室町時代に宋元の水墨画が日本に入って来た時その画風を蒔絵に再現しようと工夫された技法。
★梨地研出蒔絵:梨地塗の中に研出蒔絵を施したもの。
★夜桜蒔絵:黒蒔絵の一種で黒地に黒漆で桜の花を描いたもの。闇夜に桜の花が浮き出る風情で茶人に好まれた。
★木地蒔絵:木材素地に部分的に蒔絵を施し、全面には漆を塗らない技法。一般に紫檀、黒檀、ケヤキ、サクラなどの堅い木の方がやり易く、一度薄く摺り漆を施して、後は普通の蒔絵と同じ様に行える。
  


  

  
<第14回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その14

沈金

  これは中国から伝わった技法でその名の通り塗面を刀で彫り、漆を摺りこみ、凹んだ部分に金箔を貼りこんだり金粉を蒔きいれたり顔料の色粉を蒔き入れたりする。基礎に彫りがあることから技法としては沈金彫りという。金粉や金箔の代わりに本朱(朱色を呈する水銀の硫黄化合物、天然には辰砂・しんしゃとして産出し人工的には溶かした硫黄に水銀を混ぜ高熱を加えて造る)、青漆粉(せいしつふん、彩漆の調合に用いる青緑色の顔料)、油煙(種油を不完全燃焼させて生じさせた煤煙、漆の黒色顔料となる他、柿合せ塗り・柿渋に松煙などを混ぜた色渋を数回塗って渋下地としその上に漆をかけた塗り)、石黄(せきおう・黄漆を作る顔料の一つ、三硫化砒素として天然に産するが、多くは亜砒酸と硫黄から合成)等の顔料粉を沈めたものや彫ったまま何も入れない素彫りもある。

 日本統工芸展に出品されているこの技法による作品は多くは箱であり繊細で煌びやかではある。
この技法を大きなパネルに取り入れたのが高橋節郎さんである。この方は小生の高校、医学部を通して同期生であった友人の叔父にあたり、安曇野市、旧穂高町の名家の出である。旧松本中学(現深志高校)時代はその長身を生かして運動の万能選手であったことでも知られる。東京芸大を出て同大漆芸科の教授となり後、日本芸術院会員、文化勲章受賞。2007年4月92歳で亡くなられた。

 昭和の初期漆工芸の作家の中から絵画や彫刻のように、それまでどちらかというと伝統の殻に閉じこもって芸のための芸の感があった漆芸を絵画や彫刻のように鑑賞のため、又は作家の表現としての作品も制作しようという動きがおこり、それまでの美術館や個人が秘蔵している漆芸品を広い面に表現する動きが活発になった。その先達が芸大での高橋さんの先輩で奈良市にその美術館がある富本憲吉や高村豊周、内藤春治らである。
高橋さんの美術館は先に愛知県豊田市に出来、2003年6月に穂高の生誕の地の生家跡にも出来た。

  美術評論家の川北倫明はその芸を評して「その作品のほとんどは作者の故郷穂高の澄んだ山気のなかの自然と風景に取材しつつ、独自の芸術的夢想を展開したもの。表現の手法は、つねに漆の黒の深さと金の対比を生かし、時に僅かの色彩を加えながら、透徹した美観をなしている」と表現している。実際そのパネルの前に立つと、これが漆かと思うし、繊細な文様の踊るが如く時に幾何学的で鎮まるかの如く遠く近く限りない広がりと奥行きを感じさせる夢幻の世界に引き込まれる。そして「黒と金」の世界と評されるように、金がその美しさを最も発揮するのは正に漆黒の背景においてであることを実感させられる。幸い半日もあれば行ってこられるところであり、安曇野の田園風景の中で迫り来る山並みを背景にして旧宅と相並んで佇むこの美術館は幻想の世界に浸ることが出来る貴重な場である。
沈金の技法の出来を左右するのが矢張り様々な沈金刀を用いての彫りのよしあしである。

 中国から導入された初期にはきっちりとその規格を守った作風であったが、室町時代の後半に入ると他の技法と同じように和様化が始まりその形が崩れて、沈金のもつどちらかといると冷たい感じが薄れておおらかな温かみのある技法に変わって行った。

  

<第15回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その15  

鎌倉彫

 衰退の道を辿らざるを得ない漆工芸にあって一般にも広く知られ趣味的な工芸として、その意味では最も盛んなのは鎌倉彫である。東京という大都市に最も近い漆工品産地として大衆化している工芸品でもある。東京及びその周辺部には「鎌倉彫教室」が沢山にあるくらいである。
その名の通り中心は鎌倉である。ここには鎌倉工芸指導所、鎌倉彫会館、鎌倉国宝館があり前2者が鎌倉彫の技術指導に力点をおき、国宝館が近世以前の鎌倉彫の蒐集に力を入れている。

  鎌倉彫は木製の器に文様を彫り、その上に漆をかける「木彫漆塗」である。鎌倉彫が最も古く文献に現れるのは「萬寶全書(元禄7年、1694)」で今から約400年前である。しかし鎌倉物という表現でそれより約200年も早い「実隆公記」(1487)に堆紅盆・鎌倉物とありといわれこの語の解釈に就いては見解は一致してはいない。木を彫って漆を塗ったものであれば現在の鎌倉彫を指すが、彫漆(漆を何層にも塗り重ねておいて、文様を彫り漆の断層を表したもの。彩漆・いろうるしの色により堆朱、堆黒、堆黄・ついおう、などがある---うるし工芸辞典による)を指しているのであれば現在の鎌倉彫ではない。いずれにしても鎌倉物とあるから、鎌倉産の漆器であろうということになっている。

  鎌倉時代から室町時代初期にかけて日本は中国宋・元文化を積極的に取り入れたが、特に鎌倉にあっては北条氏の庇護のもとに多くの禅宗寺院が建立され中国からの多くの禅僧が居住したとされる。人とともに多くの品も齎され、日本本来の漆木工技術と伝来の宗朝様式が合体したと考えられその産物の一つが鎌倉彫とされる。
鎌倉彫の遺品としては仏具と茶道具が断然多いが優品は中国からの輸入品または在日中国工人の作品かそれらを模したものとされる。茶道具では香合が圧倒的に多いが鎌倉彫が茶人に好まれた理由として鎌倉彫の研究家、灰野昭郎氏は、木地に漆塗りという渋味、鎌倉彫のもつ中国風の雰囲気と仏具から出発したという宗教性、鎌倉という名称がもつ歴史性を挙げている。鎌倉彫の香合で雲松文のものを「頼朝」、やや小ぶりで鎧武者文様のものを「義経」と命銘されているものがあるという。

  彫漆は手間がかかり多量の漆を必要とすること、漆を細かく彫るのはかなりの技量を必要とし手間の割りに採算が合わないなどの理由でわが国では定着しなかった。木を彫って漆をかける方が細工としてもずっとやり易かったということであろうか?
鎌倉彫の文様は屈輪文(ぐりもん、本来彫漆の一種で数種の彩漆を塗り重ねた上に蕨のような渦文を彫ってその斜面に塗層をだしたもので呉利・ごりともいい、中国宋代に流行しわが国では禅宗寺院を中心に建築、工芸の意匠として多用された—うるし工芸辞典)と花文とに大別される。花文では表面にふっくらと大きな牡丹を彫るのが典型例である。

 色々な漆芸品の中でも文庫は減少の一途を辿り、産地によっては注文しなくては入手出来なくなってきているが、会津と鎌倉は別である。鎌倉駅から八幡宮に向かう参道の両側には鎌倉彫の店が多く並んでいる。そして文庫も多く比較的に安価である。しかしその大部分は鎌倉以外で作られているといわれそれを聞くと真の鎌倉彫は何処にと、かねて知り合いになった鎌倉彫の作家が古い店を案内して下さった。そこには作家が亡くなって仕舞い、いわば遺作を売っている所が大部分で、そこでの文庫は何百万の値が付けられていた。もう骨董品といってもよく、余り手も入れてなく買えないし又買う気も起きなかった。結局、その作家の極平凡ではあるが鎌倉産の文庫を買うことが出来た。
  



休憩室トップに戻る   
   
三原内科医院  0268- 27-6500