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漆芸諸国めぐり
  
第16回~第20回

 

 

  
<第16回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その16

根来塗りと根来寺 その1

 根来塗りというと誰しも、あのくすんだ朱塗りを思う。そして、使い込まれた朱漆が少しずつ剥げてその下にある黒漆が様々な形で現れたそれが正に根来塗りなのだと解している人が多い。しかし、根来塗りの定義は左程簡単ではない。
初めて根来塗りという言葉の定義を試みた美術史家黒川真頼の考えをその著「工芸志科」(明治11年)から引用する。

 根来塗は伝えていう、紀伊国那賀郡なる根来寺に於いて製造せし所の漆器なりと。正応元年(1288)同国高野山に在る所の僧徒等、故ありて多くここに転住して大いに堂宇を造営し、一山の伽藍を四門に区分し、円明寺といい、豊福寺といい、大伝法院といい、蜜厳院と云う。(中略)根来椀は蓋しこの際より盛んに製造せしものならん。その器たるや、膳、椀、豆子(猪口と壷の間のものなり)、楪子・ちょうし(今の盆なり)、椿盤其の他諸器あり。その法は、朱漆をもってこれを塗る・・・・

とあり、ここでの要点は根来寺で漆器が作られていたこと、食器が主で朱漆で塗られていたことの二点で、朱漆塗り即ち根来塗であるとはいっていない。

  一般に「根来」、あるいは「根来もの」という言葉が使われるようになったのは江戸時代中頃からのことといわれ、根来寺の名をかぶっているのでいかにも由緒があるかに思われてきた。根来寺は総勢数千から一万人に及ぶ僧侶が居住していたといわれその多数が僧兵でもあった。信長は攻めあぐねたが、秀吉は略二日でこの寺を壊滅させ、中で自給自足の生活を送っていた一つの村でもあったこの寺は僅かの堂宇を遺して終わりを告げた。当然沢山の漆器類も焼け失せた。従って根来寺で作られて今に残る漆器は殆どなく古い根来塗りとされても確かにそこで作られた証があるとは限らない。「根来に根来なし」といわれる所以である。

  現在では、“朱漆で塗られた什器のうち、時代の上がるものについては根来塗と呼ぶ”慣習が略認められている。従って制作年代の新旧を問わず広くは朱塗の什器を全て根来塗と考える人もいる。現在制作当初から朱漆の表に地の黒が不規則に浮き出た塗りを根来と称する人もいるがこれは正しくは根来風ということになるであろうか?

  呼称の当否は別にして現在「根来塗」と呼ばれている作品の魅力はなんと言っても長年使い古され醸し出されてきた「用の美」にある。しかしこれは根来に限らずどの漆塗り什器にもいえることではないだろうか? 偶々根来が朱という単純な一色であることから簡素な美が備わったということである。

  柳宗悦を中心とした民芸運動は「用の美」を強調し日常雑器のもつ美を追い求めたが、現在では材料そのものが稀少になり、それを加工する人が減り本来の主旨とはかけ離れた存在になっている。それをよいことに材料の稀少性、手間のかかることを売りにして高い値が付いているのは本来の運動とは乖離している。例えば和紙に草木染を施して作られた月別カレンダーであるが、一年12枚で16000円もする。年が変われば反復使用できるわけのものではないからある意味使い捨てである。これも用の美に入るとすればいわゆる民芸品は高価な品々である。

 数年前、大倉集古館で根来塗の優品を集めての展示があり、重文、国宝級の品々にお目に掛かることができた。朱漆塗りは文献上は既に平安時代、大阪の観心寺の縁起資材帳にそれらの什器類に関する記載がみられるというからその歴史は古いが、更に遡って出土した土器で確認された最も早期のものとして朱漆が塗られていた事実を思えば朱の起源は更に遡ることになる。
        

  
<第17回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その17

根来塗りと根来寺 その2

 漆塗りは初期には黒が是とされその後朱も加えられ更に様々な彩(いろ)が用いられるようになった。 現在では化学塗料が発達して用いられるようになり、少し離れてみれば光のあたり方によっては本物か代用品か判らないほどである。第一、漆といったら国産であろうが中国産であろうが漆の木の樹液しかない訳だから“本漆”という言葉があること自体変なことである。デパートの漆器売り場の店員が真面目な顔で厳かに“本漆です”と言うのが既におかしい。ある時ふざけ心でDIYの売り場へ「漆売っていますか?」と電話をしてみたら、当たり前のような口調で「あります」との答えが返ってきて呆れ果てたことがあった。こんな風潮では漆の文字の木の部分を化学塗料に化かされた意味で化に変えて新しい文字を創らねばならないかも知れない。既に漆という言葉自体が死語になりつつあるのかと危惧する。

  平成23年のNHK大河ドラマ「江」に、信長から布教を許されたイエズス会の宣教師ポルトガル人のルイス・フロイスが出てくるが、彼は根来寺の歴史にとって非常に重要な人物である。日本に30年間滞在し天下人の移り変わりも見てきた。キリスト教布教からみた「日本史」を執筆したが、そこには戦国時代末から秀吉の晩年に至るまでの当時の様子が描写されている。そこから引用させてもらうと、

 フロイスの見た根来寺は・・・・・・・・

「堺の付近を和泉の国というが、その彼方には、国を挙げて悪魔に対する崇拝と信心に専念している紀伊の国なる別の一国が続いている。その国には一種の宗教団体が四つ五つあり、その各々がおおいなる共和国的存在で、昔から同国では常にその信仰が盛んに行われてきた。いかなる戦争によってもこの信仰を滅ぼすことが出来なかったのみか、益々大勢の巡礼が絶えずその地に参詣していた。(中略)

第三番目の宗派は一部の仏僧が構成するものであり、根来衆と称する。(中略)

都に隣接した諸国に住む日本の武将や諸侯は互いに交戦する際、ゲルマン人のようにこれらの僧侶を傭兵として金で雇って戦わせた。彼らは軍事には極めて熟達しており、とりわけ鉄砲と弓矢にかけては日頃不断の訓練を重ねていた。そして戦場においては自分たちに有利な条件を示す側に容易に寝返るのだった。 根来衆の寺院や屋敷は他の仏教寺院のなかでは極めて清潔で黄金に包まれ絢爛豪華な点で抜群に優れている。そしてその寺院なり住居が清潔であるほど一方では彼らは日常生活において忌むべき人間に堕落している。彼らは宗団に留まって戦争のない時には、他の僧たちと同様に偶像崇拝ならびにその宗派の儀式に従っていた。彼らはその地を訪れる巡礼者たちを懇切丁寧にもてなし、二、三日間無料で食事を提供した。(中略)

その地にどうして二千もの寺院がありうるかと疑われないためには(それどころか多くの人は、必ずといってよいほど、根来衆の寺だけで三千あるとさえ言っていた)次の事情を理解しておく必要がある。 これら一万人の僧侶が唯一の寺院の中で一人の上の僧の許で暮らしていたのではなく、二、三~四里に亘る清浄で広大、優美な盆地に展開して住んでいた。そこでは主だった僧たちは自分の坊を持ちそれらには極めて大きな囲いが施されていた。彼らの一人は同所に本山を構え、弟子にあたる僧や、自分の屋敷、厠、配善所、広間、居間、更に収入に応じて多数の小さな山寺を持ち、なおその他にも多数の寺が坊以外の地に散在していた。彼らの中の夥しい数の高僧により寺院は増えており我らが見てきた他の寺院に比べればここでの寺の数がいとも多かったことは疑いのない事実である・・・」 



<第18回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その18

根来塗りと根来寺 その3

 根来寺も本来は学問修業寺であり、その僧たちの主要構成員は学徒衆と呼ばれ常住方(常住衆)と客方(宿僧または客坊衆)に分かれていた。常住方は根来寺で出家した学徒衆で、数からは多数を占めていたといわれる。

 客方は他国から根来寺に身を寄せ、学問修業に励む学徒衆で、自国と根来寺の間を往復する者もあった由。しかし、何時の間にかこの二つの衆が寺内を二分する勢力と結びついていった。根来一山を統率する職が学頭でそれは一人であったが、常住方、客方ともに学頭を立てる事態となり、学頭並立で何とかバランスを保っていたが、文明年間(1469~1487)にこのバランスが崩れる事態が生じた。

 第15代学頭の十輪院道瑜(じゅうりんいんどうゆ)が学頭職にあるままで、その卓越した学識の故に能化(のうけ)という称号を贈られることになったが、道瑜が常住方であったために客方からも能化を出すという山内を二分しての大騒乱になった。天正12年(1584)秀吉の紀州攻めに対して山内を二分する勢力争いを抱えながら、なお強力な武装集団と化した行人衆(ぎょうにんしゅう・行人又は僧兵)も抱えて足並みの乱れたまま戦った。結局2日間の戦闘で大伝法院の一画と山門を除いて二千とも三千ともいわれる堂宇を誇った根来一山はことごとく灰燼に帰した。

 関が原の合戦(1600)で勝利した家康は根来寺の復興を認め以後徳川幕府の支援もあって幕末までかかって大伝法堂と大門が再建されたが、広い傾斜地に国宝根本大塔と大きな堂宇がぽつんぽつんとしか立っていない様は寂しい限りである。フロイスが見た頃の根来寺は中心となる盆地から派生する谷々まで埋め尽くされるように沢山の堂宇が展開されていたようで、実際近年に行われた発掘調査でも実証されている。
根来寺で作られた漆器は朱とは限らなかったがその作りの堅牢さから根来寺の外へも出されたようである。それらの什器の底裏に製作した坊院名や記号が入っているものもあるがそれらも数えるほどしかなく、しかも根来寺のものは破片である。椀その他の什器にしても底部が厚くて丈夫だからその部分が残っていて製作した又は所有した坊や院の名が判る程度である。

 秀吉による焼き討ちがなくても山内の戦いで一山は潰滅したかもしれないし仮に幕末まで残ったとしても廃仏毀釈で破壊されたかもしれない。いずれにしても昔日の全容を残すことは根来寺に限らず難しいことである。
フロイスの記載その他の関連する文書から判ることは①盆地と谷を埋め尽くすほどの夥しい数の堂宇があったこと ②何千から万に達する僧がいてその全部が兵ではなかったこと ③僧侶たちは身分にもよるが豪勢な暮らしをしていたこと ④一山が自立共同体であったこと ⑤漆器に限らず日用雑器は全てそこやその周辺の地域で作られていたこと などである。

 生存し離散した漆器作りをしていた僧たちは、一部は黒江(現在の和歌山県海南市)や吉野に逃れて黒江漆器や吉野根来を興し、更に遠くは輪島や会津、薩摩にまで達し薩摩塗が始まったとさえいわれる。根来寺に最も近い漆器産地は黒江で伝統的工芸品にも指定されているので黒江にも行ったがそこでは特に朱が多いという印象はなく、尋ねる前に連絡して文庫を集めておいて貰ったが同様であった。黒江塗り(一括して紀州漆器)は既に室町時代に始まっており、根来寺から逃れた僧たちは従来の漆芸に加えてこの地で根来塗りを始めたことになってはいる。             


<第19回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その19

津軽塗り

 主産地は弘前市で青森市、黒石市、西津軽郡深浦町、中津軽郡岩木町、南津軽郡藤崎町・尾上町・浪岡町、北津軽郡坂柳町に及ぶ。

 寛文10年(1670)四代目藩主信政公が若狭の漆工池田源兵衛を召し抱え江戸に修業に遣わした(1685)のが起こりという。しかし源兵衛はその翌年没してしまいその息子源太郎が父の遺志を継いだ。彼は日常塗師が使っている作業用の板に長年に亘り様々な色の漆が滲みこんでいるのを研ぎだしたところ、えもいわれぬ色合いが現れたのを見て津軽塗を創出したといわれる。しかし、その前からその技法はあったともいわれ、これは起源に関わる物語の一つともいわれている。

  木曾平沢の漆工芸家の工房を訪ねた時、様々な彩漆(いろうるし)を混ぜて作った角錐を見せてもらったことがあった。その配色の妙は言葉では表し難く形は意図したものではあってもその色合いは巧まずして出たものであった。又、新潟県の村上市へ堆朱を見に行った時、ある漆工品店で小型の文庫を見せてもらったが長年に亘り使って様々な彩漆が複雑に混じりあった作業板を加工して作った品であった。二つ作った内の一つだとのことで、今でもあの文庫はどうなったかなー?と気になる。これまで各地で様々な文庫を見てきたがそのような品はそれが最初で最後であった。焼き物でいう窯変も意図して出来るものではなく色々な条件が複雑に作用しあっての結果であろうが、作り手の意思を超えての結果であるという点では似通った部分があるのかなと思っている。

  津軽塗りは俗に「馬鹿塗り」といわれる。その所以は“馬鹿でも出来る単調な作業”を指すとか“馬鹿に丁寧で堅牢な塗り物”を称してとかいわれるが、この穏やかではない表現は決して誹謗中傷ではなくて、塗りの回数の多さや一途に研ぎだす工程を表現したものと思われる。

  津軽塗りは特に「唐塗り(からぬり)」といわれる。その技法は仕掛けと呼ばれる、先に沢山の穴を開けた箆(へら)に絞漆(しぼうるし:漆に生麩・豆腐・卵白・ゼラチン液などを加えて粘り気を増したもの)を付けてその穴を埋めそれを塗面に塗りつけていぼ状の凸出を作りそのいぼの間に彩漆と透漆を交互に塗り重ねる。この工程は津軽塗り特有の技法とされ、意図した彩漆を塗り終えれば十分に乾燥させて津軽砥(つがると:青森県産の砥石で粒子が均一、不純物が少なく良質、傷もつかず津軽塗りの塗面の美しさはこの砥石の存在が大きいといわれる)で荒研ぎをする。

  津軽塗りの変法の一つに七子塗りがある(魚子:ななこ・魚の卵、は彫金の方で主に使う用語)。刷毛塗りしてまだ乾かない漆の塗面に菜種を蒔きつけると菜種が漆を吸ってその面が乾く。十分に乾いて固まったところで箆で菜種を剥ぐと輪状の凹部ができる。そこへ意図した漆を塗り研ぎだすと小さな輪紋が現れる。粟粒塗り(粟粒で小輪状紋をつくる)など穀粒を用いて輪状紋を作る技法は他産地でもみられるが、菜種を使っているのは現在では津軽塗りだけといわれる。

 弘前城跡公園のサクラは本当に見事でその量質ともに日本一ではないかと思っている。かってその入り口に大きな漆器の店が二軒あり様々な漆工品を扱っていて遠路尋ねる楽しみがあった。無論、文庫も様々な塗りが並んでおり津軽塗りの多様さを満喫できた。しかし、今は小さなお土産の店に変わってしまい文庫に至ってはほんの数えるほどが余り人も行かない二階にひっそりとあるに過ぎない。その変わり様にこれから先日本の伝統的工芸の最右翼にあった漆芸はどうなっていくのかと気が滅入ってしまう。

<第20回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その20

会津漆器  その1

 会津若松、米沢へは何度も行った。
会津若松の市街地へ近づくとY漆器店の大きな柱状の看板がいやおうなしに目に入ってきて「ああ、会津へ着いた」と実感するのであった。その店はいうなれば漆芸品何でもありといった店であった。
裏返せば品揃えは豊富ではあるが質の点では今一であった。その看板も今はない。

  街の中に古い造りをそのまま遺す店に混じってS漆器店がある。こちらは正に老舗である。金沢にある漆器の老舗と雰囲気がよく似ている。他の業種でもそうだろうが老舗は独特の何かを漂わせている。京漆器の有名な老舗は何となく居心地がよくない。勝手な判断かもしれないがこちらが品定めをされているような気分になってしまうのである。京都は日本文化の先進地であったから何時も他を下にみるといることであろうか?

  輪島塗は古墳時代から奈良時代にかけて朝鮮半島の人達が能登半島に渡来、伝承されたものといわれる。一方会津塗は伝来したものではなくて日本列島固有のものではないかという。会津といえばローソクも有名である。漆器とローソクは密接に関係している。藩がいわば地場産業として漆芸を奨励したが漆樹植栽の狙いの一つは蝋採取にあったのである。これは蒲生氏郷(がもううじさと)がこの地へ赴任してきて漆芸を奨励して以来、上杉・加藤時代から保科・松平時代へと連綿と続き、特に寛永年間に保科正之が来封してからは徳川直藩として幕閣に列する機会が多くなり自然の成り行きとして江戸との交流が盛んになり、それが会津塗の質を高め多彩にしたという。

  どこの漆器産地も生き残りは極めて厳しいのが現状である。会津とてその例外ではないと思うが関東圏では、他に産地がないこともあってか売れ行きでは会津塗が一頭地を抜いているようである。唯、鎌倉彫は殊に東京圏では玄人素人を含め多くの人がそれに手を染めてはいるが彫が主で加飾法が単調である点から会津塗とは異質のものと考えられる。
会津塗を扱うお店の人がその特色として挙げているのは、実用的であること、普通の人達が求め得る価格であること、一般人の嗜好に合うこと であるという。これらは商売上途中から唱えられたものではなく、最初からの標題であり、殊に保科・松平時代は華美な作品は排除されたという。

  上記3点は漆製品に限らずどんな商品にも当てはまることと思われるが、皮肉にも漆芸品に限って現在は適合しない。日本人の生活が今よりはずっと貧しかった時代、漆器はごく日常的な什器であった。畳がなくてござを板の間に敷いてその代わりをさせ自分で編んだ草履やわらじが普段の履物であったような家でも漆塗りの椀が毎日の食器であったし、寒冷地で水稲栽培が出来ずそば粉が主食であったような土地でも、そば粉をこねるのに使った大きな器は一木を刳りぬいて漆をかけたものであった。

  漆器は今や極めて非日常的な存在となってしまい、かってそれが当たり前であったような漆器の復権 は起こり得るのだろうか? 素材の多様化を考えると復権は絶望的としか言いようがない。 伝統工芸展や数少ない漆器の専門店でまばゆいばかりの漆工品に囲まれていると非現実に慣れてしまって心が浮き立ってくる。非現実であればあるほど心の高揚が顕著であるのはすべて世の常であろう。

 会津漆器の中に鉄錆塗というのがあり錆で描いた一種の錆絵で鉄の鋳物のような外観になる。明治20年頃から大正5年頃まで盛んに行われ女性の仕事であったといわれる。その塗を試みている女性を会津の街の中の古い造りの店で見つけた。 


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