<第22回>
漆工芸(品)の歴史と現状 その22
会津漆器 その3
会津藩主、蒲生氏は近江日野から伊勢松坂を経て会津へ転じて来た。その交代時には武士は勿論、商人、職人、寺僧などが一緒に転入して来た。どこの城下町もその住人の先祖を辿れば思いもよらない地方が出てくる。会津では、佐原、富田、佐瀬、平田、松本などの姓の人は鎌倉時代から400年続き天正17年(1589年、豊臣秀吉の全国統一の前年)に伊達政宗に滅ぼされた蘆名氏の家臣の子孫という。
その後の蒲生氏郷も故郷の近江日野や前任地の伊勢松坂の伝統的文物を齎したが氏郷亡き後、越後春日山から上杉景勝が入りその後もう一度蒲生氏となり、その後四国松山から加藤氏が入り、その後を信州高遠から山形最上を経ての保科正之とその子孫の松平氏が治めた。それ故会津には高遠を祖先の地とする人が結構多いという。
色々な地域からの藩主の転入はそれだけ要衝の地ともいえるし、他方戦禍が多かったともいえる。物の面では様々な地域の色々な品や技法が齎されたことになる。
昭和の初め頃まで会津では「惣輪師」という工人がいたという。その語の起源は判らないようで辞書にも載っていないが「宗和膳」を作る木地師のことという。会津だけにある職人の名称で「宗和師」があるが板物素地の職人を指し特に膳を作る職人を指すこともあるという。してみれば音が同じなので「惣輪師」は「宗和師」のことであろうか?「惣輪師」であった人の書いた文を読むとその仕事の内容は「宗和師」である。会津漆器の木地部門ではかって、板物木地と丸物木地にはっきり分かれていたというが、「宗和膳」は、膳の角を脚と共に鋸目を入れて丸みを付けたもので絵物師(他でいう曲物師)が行う湯曲げの技法(板を湯の中で曲げて形が定まったら固定、乾燥する)とは異なり、挽き曲げの技法による。挽き曲げは目的とする木地(板)の曲げようとする所に鋸で数箇所の引き目を入れ、引き目を入れた側に曲げて角に丸みをつける技法である。いずれにしても同類の職人の仕事に分化が進んでいたことを示していると思われ会津塗の奥深さと歴史の重みを感じさせる用語と思った。
会津塗の特色の一つに「会津絵」がある。椀、菓子器、皿、盆、膳、重箱などに錦絵や友禅でも見るようにあでやかな色調で桧垣(ひがき:ヒノキの薄板を網代組にした垣根)、松竹梅、破魔矢の組み合わせを繊細優美な筆遣いで描いたのが会津絵として親しまれている塗り物「会津絵」である。会津に近い漆器産地は秀衡塗であるが、その文様では朱漆の雲形文を周囲にめぐらし、菱形、方形の切箔を貼り、残りの空間に草花文を描く。それに対し「会津絵」ではその雲形が桧垣となりウルミ漆(上塗りにおいて黒の花塗り漆に弁柄または朱を混合したもので兎に角朱と黒を混じた漆)で描かれた切箔を貼り、網代風の平行線を黄漆で描いている。その桧垣、松竹梅、破魔矢の組み合わせには多分に信仰的な願いがこめられているのではと考えられている。
他に会津が考案した技法に「朱磨き」がある。これは弁柄漆や黄漆で絵を描き、朱の粉を蒔きつける蒔朱絵をさらによく乾燥させ引砥粉で磨いたものである。かなりの面積を占める朱と黒の対比に豪華さがあり、文様は桃山調の菊桐文が主で明治37年頃から行われて現在に至っている。
小学校低学年の頃、母の実家へ行くと一軒おいた隣が折箱屋であった。何時もそこへ行っては主に駅弁に使われる折箱がどんどん出来ていくのを見ていると飽きることが無かった。これもいわば挽き曲げの技法であった。