HOME 診療方針 スタッフ紹介 施設紹介 アクセスマップ

        
  
漆芸諸国めぐり
  
第21回~第25回

 

 

  
<第21回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その21

会津漆器 その2

漆器に絵を描けば広義には蒔絵と呼ぶが、厳密には金粉、銀粉を用いた加飾のみを指す。朱、弁柄、石黄(せきおう・黄漆を作る顔料の一つで天然には三硫化砒素として存在するが、多くは亜砒酸と硫黄から合成する。能代の黄春慶はこの黄漆を使っている)、青光(せいこう・上塗りの過程で石黄漆にべレンスブルー・を混合してできた緑色の漆)などの顔料を混ぜた彩漆(いろうるし)で描いたものを漆絵または彩絵(いろえ、彩漆絵・いろうるしえ)と呼ぶ。べレンスブルーはプルシアンブルーのことでベルリン青、べレンス、紺青のこと。べレンスはオランダ語が訛ったものといいプロイセンのことで広辞苑によれば、ドイツ北東部の地方、13世紀にドイツ騎士修道会がキリスト教化、プロイセン王国を形成、後、ドイツ帝国創立の核心となった、とある。英語ではPrussia。

会津漆器の技術的特長としてこの漆絵が盛んになって後に消蒔絵(以前、蒔絵のところで説明したが、消粉・けしふんは金箔を膠液か飴液に混ぜ、乾燥後に手で揉んで粉にしたもので、この消粉を用いた蒔絵を消蒔絵又は消粉蒔絵という。研ぎだすことができず、廉価な実用品に使う)が導入された時極めて短期間にこれを取り込んでしまったといい、慶応が明治に変わった頃、会津には当時全国で最も蒔絵師が多く居たという。

会津の地名は、伝説に過ぎないが、崇神天皇の時代、四道将軍のうち北海道を廻った大毘古命(おおひこのみこと)と、東海道を廻ったその子武淳川別命(たけめなかわわけのみこと)がこの地で出会ったことに由来するという。史実に乏しい時代の事ではあるがこの地が東北と関東の接点であったことを示しているのかも知れない。

ここでも古墳時代の遺物の中に漆塗りの靱(ゆぎ:平安時代までは“ゆき”と清音、矢を入れて携行する容器。木または革で作り長方形又は箱型の筒)や櫛の残欠がある(大塚山古墳)。15世紀の半ばから会津の支配者となった蘆名氏の時代になって領内の農民に漆の木の苗を配布して植栽させ、もし官用のある時は蝋、漆ともに時価で買い上げると布令した。この時代の領主は漆芸にも興味をしめさない訳ではなかったが、関心の対象は専ら、当時の高級照明であった蝋燭の生産にあった。蘆名盛隆は会津蝋燭三千挺を信長に献上したという。

次いで蘆名氏に勝利を収めた蒲生氏の時代となったが、この一族は滋賀県南東部蒲生の出身でそこの地方は豪商が多く、日野椀、蚊帳、売薬製造で有名であった。蒲生氏は故郷の日野から多くの塗師をはじめかなりの数の商人も会津に連れてきた。これが産業としての会津塗の始まりとされる。多くの商人を失った日野はそのため一時商業が衰微したというが、これではならじと残された商人が発奮し却って日野商人の隆盛を招いたといわれる。

 他の漆工品産地がそうであるように会津もロクロ木地による丸物から出発した。そしてそれに板物が加わって行く。その頃の漆芸に関係する職名は塗師、鞘師、絵物師、蒔絵師、青貝師、櫃師、木挽などである。絵物とは曲げ物のことである。板物が日常的に生産されるようになったのは18世紀の中頃からといわれ、この頃から漆の色が多彩になった。黒と朱、朱は贅沢だから弁柄(べんがら)の赤、の二色から始まって石黄による黄漆、それに藍蝋(あいろう:藍甕に浮かんだ藍を取って乾かし、棒状にしたもの。又は、古い藍布に苛性ソーダ水、飴、石灰などを加えて煮出した藍を棒状にしたもの。絵の具に用い藍棒ともいう)を加えた緑漆(会津他では青光と呼び沖縄ではべレンス青の代わりに藍蝋を用いる)が加わって派手になり売れ行きは増したという。
   

<第22回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その22

会津漆器 その3

会津藩主、蒲生氏は近江日野から伊勢松坂を経て会津へ転じて来た。その交代時には武士は勿論、商人、職人、寺僧などが一緒に転入して来た。どこの城下町もその住人の先祖を辿れば思いもよらない地方が出てくる。会津では、佐原、富田、佐瀬、平田、松本などの姓の人は鎌倉時代から400年続き天正17年(1589年、豊臣秀吉の全国統一の前年)に伊達政宗に滅ぼされた蘆名氏の家臣の子孫という。

 その後の蒲生氏郷も故郷の近江日野や前任地の伊勢松坂の伝統的文物を齎したが氏郷亡き後、越後春日山から上杉景勝が入りその後もう一度蒲生氏となり、その後四国松山から加藤氏が入り、その後を信州高遠から山形最上を経ての保科正之とその子孫の松平氏が治めた。それ故会津には高遠を祖先の地とする人が結構多いという。
色々な地域からの藩主の転入はそれだけ要衝の地ともいえるし、他方戦禍が多かったともいえる。物の面では様々な地域の色々な品や技法が齎されたことになる。

昭和の初め頃まで会津では「惣輪師」という工人がいたという。その語の起源は判らないようで辞書にも載っていないが「宗和膳」を作る木地師のことという。会津だけにある職人の名称で「宗和師」があるが板物素地の職人を指し特に膳を作る職人を指すこともあるという。してみれば音が同じなので「惣輪師」は「宗和師」のことであろうか?「惣輪師」であった人の書いた文を読むとその仕事の内容は「宗和師」である。会津漆器の木地部門ではかって、板物木地と丸物木地にはっきり分かれていたというが、「宗和膳」は、膳の角を脚と共に鋸目を入れて丸みを付けたもので絵物師(他でいう曲物師)が行う湯曲げの技法(板を湯の中で曲げて形が定まったら固定、乾燥する)とは異なり、挽き曲げの技法による。挽き曲げは目的とする木地(板)の曲げようとする所に鋸で数箇所の引き目を入れ、引き目を入れた側に曲げて角に丸みをつける技法である。いずれにしても同類の職人の仕事に分化が進んでいたことを示していると思われ会津塗の奥深さと歴史の重みを感じさせる用語と思った。

会津塗の特色の一つに「会津絵」がある。椀、菓子器、皿、盆、膳、重箱などに錦絵や友禅でも見るようにあでやかな色調で桧垣(ひがき:ヒノキの薄板を網代組にした垣根)、松竹梅、破魔矢の組み合わせを繊細優美な筆遣いで描いたのが会津絵として親しまれている塗り物「会津絵」である。会津に近い漆器産地は秀衡塗であるが、その文様では朱漆の雲形文を周囲にめぐらし、菱形、方形の切箔を貼り、残りの空間に草花文を描く。それに対し「会津絵」ではその雲形が桧垣となりウルミ漆(上塗りにおいて黒の花塗り漆に弁柄または朱を混合したもので兎に角朱と黒を混じた漆)で描かれた切箔を貼り、網代風の平行線を黄漆で描いている。その桧垣、松竹梅、破魔矢の組み合わせには多分に信仰的な願いがこめられているのではと考えられている。

他に会津が考案した技法に「朱磨き」がある。これは弁柄漆や黄漆で絵を描き、朱の粉を蒔きつける蒔朱絵をさらによく乾燥させ引砥粉で磨いたものである。かなりの面積を占める朱と黒の対比に豪華さがあり、文様は桃山調の菊桐文が主で明治37年頃から行われて現在に至っている。

小学校低学年の頃、母の実家へ行くと一軒おいた隣が折箱屋であった。何時もそこへ行っては主に駅弁に使われる折箱がどんどん出来ていくのを見ていると飽きることが無かった。これもいわば挽き曲げの技法であった。
    

<第23回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その23

中尊寺金色堂 その1

中尊寺が世界文化遺産として登録されたとの報はあの3.11大災害の悲惨さに沈む東北の人々のみならず日本国民全てに励ましを与える朗報として捉えられた。しかし未曾有の大災害で日々の暮らしもままならない人達にとってその登録が即、日常生活を良い方へ向けてくれるとは思えない。

 日本人は極めて好奇心の強い民族なのか様々なマスデイアで取り上げられるとその人、事物に殺到する。中尊寺へ向かう人達が増えるとその地域が経済的にうるおいそれがじわじわと波及して災害に遭われた人達の日常を少しでも良くしてくれるのならそれはそれとして可とすべき事ではあろう。
どこそこで古代遺跡の発掘現場の公開説明会があると知るとどっと人々が押し寄せる。物事の進歩に知的好奇心の発揚は必須であるから多くの人がその知的好奇心を高め維持することが、ことに理系分野における多くのノーベル賞につながっているのかもしれない。

毎年10月の終わりの土曜日から原則17日間に亘り公開される奈良東大寺の正倉院展(奈良国立博物館)には沢山の人達が押しかける。この数年後援団体の一つの新聞社が他の同業に代わってからはその系列の旅行社が沢山の見物人を動員するため、会場は身動きできないほどに混雑し、会場では係員が「足を止めないで進んで下さい」などと観客を追い出そうとする。いわゆる団体さんは限られた時間内での行動を強いられるから単独で展示されている見やすい宝物だけを横目で見やりながらどたどたと駆け抜けることになり、宝物を管理する宮内庁正倉院事務所はそのどたどたが巻き起こす塵埃が例え陳列戸棚に入ってはいても宝物に悪影響を与えるのではと危惧する。しかし国民の宝ということになっているから建前は多くの人達に見てもらいたい。本音と建前の板ばさみになりいっそ一日当たりの入場者を制限しようか?と考える人も出てくる。屋久島や上高地、尾瀬と同じ論理である。

中尊寺の中核をなす金色堂は日本漆芸史上極めて重要な位置を占めているとされる。天治元年(1124)、 藤原清衡によって建立され、その内部は蒔絵や沃懸地(いかけじ。沃懸とは注ぎかけるの意。蒔絵の一技法で、漆を塗って未だ乾かぬ塗面に金銀の鑢粉・やすりこを一部または全面に蒔き詰めその上に漆を塗って磨き出したもの。平安時代に起こり、鎌倉時代にはその強烈な輝きが好まれて盛行し、室町時代には浴懸地とも書いた。初めは粒子が粗かったが細かくするほど量が増えるから節約にもなり塗面の肌理(きめ)も細かくなった。近世には粉溜地・ふんだめじ、紛地とも呼ばれ、金沃懸地は特に金地、金溜などとも呼ばれた。金地、金彩地・きんだめじ も同義である・・・・うるし工芸辞典より)、螺鈿と漆芸の高度の諸技法が集積された宝庫でもある。 昭和39年から4年を費やしての解体修理は金色堂にとって初めてのことであったが、それにより得られた知見は諸工芸殊に漆工芸史上特筆すべきものであった。しかし、-月の石ではないが、解体により益々判らない点も生まれたようである。

 平安時代には末法思想が流行し、平安貴族達は極楽往生を願って阿弥陀如来の来迎のために競って阿弥陀堂を建立した。その絢爛豪華なお堂の始まりが摂関政治の頂点にあった藤原道長の息子、頼道が造らせた京都府宇治の平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)である。一般的な阿弥陀堂は既に奈良時代にもあり奈良法華寺の阿弥陀堂は巨大なお堂であったが、平安期の阿弥陀堂は奈良時代のそれと規模、使い方で大きく異なった。その元になったのは平安時代になって比叡山延暦寺で始められた阿弥陀如来像の周りをぐるぐる廻りながら念仏を唱えるための三間四方または五間四方の大きさの常行堂(じょうぎょうどう)である。
    

<第24回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その24

中尊寺金色堂 その2

常行堂は阿弥陀仏の周りを廻り歩いて(行道)念仏を唱える(常行三昧ためのお堂であり、円仁(天台宗山門派の祖、下野の人で天台座主。最澄に師事。常行三昧により東蜜・空海により始められた真言宗、に対抗する意図があった)が中国から導入した。

 奈良時代の阿弥陀堂は延暦寺では法華堂と奥で連接した同大のお堂であったが、そこへ「方丈記」「発心集」「無名集」などで有名な例の鴨長明が鎌倉時代初期に往生のために作り篭ったとされる「往生院」の造作が参酌されて、藤原道長が都に作らせた本格的な阿弥陀堂として唯一のこっている浄瑠璃寺(九品寺)九体阿弥陀堂へと変化し(このようなお堂は判っているだけで平安時代に全部で32棟は作られたといわれる)、それが頼道による寺院の中央に置かれた宇治平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)となりそれから約70年後に東北平泉の地に作られた、平安以後の阿弥陀堂の基本になる一間四面堂の金色堂である。
金色堂を作った清衡自身が鳳凰堂を見たかどうか定かではないようであるが、伝え聞く京の伽藍の荘厳さを結集すべく、京から工人達を招き平泉に住まわせて完成したのがこのお堂である。国宝建築としての阿弥陀堂の中では最も小ぶりで現在はガラスの箱(覆屋・おおいや、鞘堂)の中に安置されている。

日光東照宮の陽明門が彩色と彫りによる豪華さとすれば、こちらは金一色と螺鈿の豪華さである。このお堂へ受け継がれた技法としての蒔絵や螺鈿はその規模、効果において頂点に達したとされ、この世に極楽を現出させる最も重要なお堂と評価されている。
その時代、京で作られる寺院の荘厳(仏教寺院の飾りの意味ではしょうごんと読み、しょうごんする、という動詞形もある)にはまだまだ彩色による方法が多数を占めていたが、それには莫大な費用がかかり、当時も輸入品であった南海の貴貝の値段は顔料よりも高価でその貝を用いての螺鈿は費用の面で大きな負担であった。例えば手箱でみると、木だけであると100疋(ひき・ぴき・一疋は二五文)であるが、蒔絵だけでは120疋のものが螺鈿を施すとそれだけで975疋が加わり全体では1225疋と12倍以上の価格になった。当時の工人の給料が月100文(10疋)ほどであったというから、手箱の螺鈿料だけで97.5ヶ月分の給料に相当したことになる。

金色堂を支える4本の柱は外から見ては夫々一本の木柱に見えるがこれらは巻柱と呼ばれている。その理由はこれらの柱が単なる一本の材ではないことが昭和42年の解体修理で判明したからである。
専門家の推察に依ると初めは単一の材に蒔絵を施した。ところが想定外とはいえないだろうが、材に亀裂が生じた。小さな亀裂であれば刻苧漆(こくそうるし:機織の際に生ずる繊維の塵を集めたものを刻苧綿・こくそわた といい、それを木粉と漆で練り合わせたもので、素地の欠損部分を補ったり、接合部に詰めて素地を堅牢にするために使われる。木屎とも書く)で埋め合わせればよいが大きな亀裂であれば木片で埋めてもよいがもし大きな亀裂が多くの箇所に生じた場合には美しい円柱を保つことは難しくなる。そこで工人達が考えたのは円柱材を多角材にして(ここでは八角柱)その各面を曲面のある八本の板で巻きそれにより、芯材が細くなったことで生ずる亀裂も小さくなり、巻くことで柱も補強され、しかも、もし損じても部分的な交換が出来易くなり蒔かれた柱は約900年に亘って歪むこともなくその美しい形を保ち金色堂を支えてきた。ただし、柱の全長に亘って巻く必要はなかったから、蒔絵を施した中心部だけを巻板で巻いた。

 奥州藤原氏の第三代、秀衡が死に頼朝の北上が伝えられると、さしもの京に次ぐ文化都市も脆くも崩れ去ることになる。
    

<第25回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その25

中尊寺金色堂 その3

 四字熟語で「乾坤一擲(けんこんいってき)」がある。三省堂の辞書によると、運を天にまかせて、のるかそるかの大勝負をすること、とある。「乾」は天、「坤」は地の意、ともある。古く中国では方位を大きく8つに分け更にそれらを3つに細分したから全部では24の方位表示となる。

 金色堂を支える4本の柱は夫々の方位により「乾」は南西、「坤」は北西、「巽」が南東、「艮・丑寅(うしとら)」が北東で鬼門に当たる。「艮」はコン、ゴンとも読み、こん下こん上の形で、陽が上をさえぎり陰が下にたまって動きのとれない姿を示しているという。つまり上下には動けない意。この方位を表す名称で金色堂の4本の柱が呼ばれていて、それらの柱の下四分の一ほどの面積を占めて蒔絵円帯に囲まれて大螺鈿円文が配されている。

蒔絵、螺鈿を施した豪華な柱はその装飾の全部が完全に残っているわけではなく、又、装飾技法が少しずつ違っていることから夫々異なった工人の手によるのではないかといわれている。「艮」東北にあたる丑寅柱だけがほぼ完全に残されており、巽柱(たつみ)は所々に蒔絵円帯が残っているにすぎず、乾柱(けん・いぬい)は円帯が5cmほど、坤柱(こん・ひつじさる)には全く残っていなかったという。中尊寺をしのぐほどの大寺であったという毛越寺(もうつうじ)も中尊寺も頼朝が攻め入った時の戦火には焼け残ったが檀家を失ってしまい寺院の運営は困難になった。漆芸の工人たちは殆どが都へ帰ってしまったといい、金色堂の漆芸と現存する東北地方の津軽塗、浄法寺塗、秀衡塗、鳴子漆器とは直接には関連がないとみられている。

 永承7年(1052、後冷泉天皇朝の年号)は末法思想がこの年に到来するといわれていたから、平安貴族にとっては正に恐怖の年であった。藤原頼道は父道長から譲られていた宇治の地を寺院とすることにし次々と堂宇を完成させて翌年には阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成した。この堂宇が中尊寺の金色堂の作りに大きく影響したといわれる。頼道にとっては末法後に襲って来るであろう失望感を少しでも軽くするためにはあらん限りの資金を注ぎ込んででも極楽と見紛うお堂を建てて阿弥陀如来の力にすがるしかなかった。その翌年に頼道はこの世を去ったが、それはお堂を完成させた安堵感からであったといわれ、お堂の完成が頼道の死を早めたとは何とも皮肉な話である。

 平泉を築いた藤原氏四代の初代清衡の父は藤原経清(つねきよ)で都の藤原氏に連なる坂東武士であった。母は奥六郡(奥は奥州のこと)の俘囚長(俘とは虜・とりこ、または虜にすること。囚は囚人というように捕らえる、捕らえられること。俘囚とは都で恐れられた蝦夷・えみしでありながら朝廷側に服従した人達)であった阿部氏の出で阿部氏は朝廷に代わって俘囚を支配していた。三代秀衡の母も阿部氏の出であり四代泰平の母は陸奥守、藤原基成の娘であった。

 阿部氏は奥六郡の南の境にある衣川の関一帯を本拠地として勢力をふるった土着の豪族であったが都の阿部氏からその姓を賜り、全盛期の阿部頼時の頃には奥六郡を実質的な領地とする程であった。一方、都では藤原道長、頼道による摂関政治の時代で同時に極楽往生への希求が高まる一方であったから仏像製作、寺院建築のための黄金や漆の需要は増すばかりであった。それらの供給地としての奥州は都にとっては不可欠の地であった。
 


休憩室トップに戻る   

   
三原内科医院  0268- 27-6500