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漆芸諸国めぐり
  
第26回~第30回

 

 

  
<第26回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その26

中尊寺金色堂 その4

 現在わが国の漆の最大の産地は浄法寺である。勿論、漆の木を営々として植栽しているからであるが・・・・・・。奈良時代、陸奥国は沿岸、内陸でもわが国最大の金産地であり聖武帝の発願により取り掛かった東大寺の大仏建立にあたってもあの巨大な像の全身を黄金で包むための金の確保が一番の難題であった。天平21年(749)陸奥守百済王敬福(くだらのこにしききょうふく)から黄金900両(約38kg)の献上があり、聖武帝は喜びの余り元号を「天平感宝」と変えた程であった。

  万葉集の最後に当たる第四期の中心歌人で万葉集形成にも大きく関わったとされる名族大伴氏の主であった家持は彼としては初めての地方官として天平18年(746)から越中守の任にあった。その黄金献上に際して発せられた詔書(現在でいえば行政の長の声明であろうか?)の中で大伴・佐伯氏の功績が縷々述べられており、それに感激した家持は「陸奥より金を出せる詔書を寿ぐ歌一首」なる大作を詠んだ。その日付は同年5月12日であった。その長歌の最後の反歌は

天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く(巻18、4097)

である。 この一首は単に事実を詠んだというだけではなく、万葉集中の多くの歌が即物的で感情の率直な表現としてとらえられている中で感動を伴う抽象化の詠法として家持研究家はその点を高く評価すべき歌と理解しており、陸奥の黄金は万葉集の大歌人の詠法にまで影響したことになる。

 その家持は5年の任期を終えて喜び勇んで帰京した。しかし、中央政界で彼を待っていたのは大伴氏を初めとする名族の没落とじわじわと進む藤原氏の台頭であった。左大臣橘諸兄(もろえ)と大納言仲麻呂とが政治の主導権を握ることとなる。家持は有能な歌人であるが故に仇敵藤原氏という大樹の陰にあって翻弄されて行くわが身わが族の運命を歌に残すことになり、その意味でも万葉集は一大歌集であるとともに歴史書でもある。

 聖武帝が陸奥から献上された黄金により悲願の大仏建立が大きくすすんだと改元するほどに喜んでいたのに、表向きは内助の功が絶大であったとされているその后、光明皇后は帝位を狙う藤原氏の娘として行動した。正倉院宝物の中のある文書の終わりに墨痕鮮やかに「藤三女」とあるのを見れば「私は皇后であるよりも藤原不比等の三女です」といっているように思えてくる。現在の史実観は、聖武帝の大仏建立に最も反対したのは他ならぬ后、光明であったといわれている。

 失意の家持はその後地方官として左遷に等しい道を歩まされ、757年起きた橘奈良麿呂の変で、ずっと家持の詠歌の友でもあり陰に陽に家持を支えてきた一族の大友池主が獄死し家持は悲運を嘆くしかなかった。782年1月氷上川継の謀反事件が起こり家持はそれに連座したとして解任され、京外に移された。5月には復任はしたが6月には陸奥按察使鎮守将軍といかめしい役名ながら、多賀城へ赴任になった。その地こそは朝廷が奥六郡(岩手、紫波・しわ、脾貫・ひぬき、和賀、江刺、胆沢・いさわ)の蝦夷討伐のために築いた最初の砦であり、「黄金花咲く」と歌人としての家持の名を高からしめた黄金の産地、陸奥に対峙する役であった。歴史の皮肉としかいいようがない。しかも家持はその朝廷の力が辛うじて及ぶ最果ての地でその波乱に富んだ生涯を終えた。「黄金花咲く」と詠んでから33年後のことであった。加うるに没した翌月9月には藤原種継暗殺の首謀者とされ、屍が隠岐島に流され11年後にようやく死亡前の位官に戻されたのであった。

<第27回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その27

中尊寺金色堂 その5

 平安貴族達が歌聖と呼んだのは柿本人麻呂であったが人の心の微妙な動きを捉えたのは万葉集第四期の大歌人、大伴家持であった。藤原氏という大樹の陰で翻弄されながら生きて行くしかなかった家持の鬱勃とした思いがその歌をより美しいものとしたのは間違いないと思う。万葉集中詠まれた状況がはっ きりしている最後の歌は759 年の家持の歌であったが、もしその後の家持の歌がどこかから発見されたら!と思うと胸は高鳴るばかりである。

 その万葉集も漢字を借りてのいわゆる万葉仮名であるから当時の人々が誰でも読めたとは思えない。家持の集中最後の歌が詠まれてから約200 年後の(956)村上天皇の時代には既に難解な歌集と見なされたようで、天皇に召された「梨壷の五人」は現代風にいえば「万葉歌解読(諮問)委員会又は専門家会議」であった。 家持等かっての名族達だけが藤原氏に苦杯を喫っしたのではなく、桓武天皇が平安遷都を決意したのも藤原氏の専横を何とか食い止めてその絡めて手から逃れるためであったといわれる。

 金色堂の荘厳に使われ、聖武帝を欣喜させた黄金は、奥州藤原氏にとっては正に地元産であった。その藤原氏の起こりは都の貴族であったが代を重ねるにつれ奥州の豪族との結びつきを強めていった。その結果の一つとして中尊寺があり金色堂があった。奥州土着の豪族の頭、阿部頼時の娘と結婚することで奥州藤原氏初代清衡の地盤は強固なものとなって行き中尊寺や毛越寺を造営する基盤が出来て行った。それより先、朝廷にとっては阿部氏の存在は極めて邪魔であった。黄金と漆と諸国統治や戦闘に必須であった馬の産地を抑えている北の大勢力を何とか壊滅すべく時の朝廷は何かにつけ阿部氏討伐の口実を見出すことに腐心していた。そこで税の未納や覇権を境界線を越えて南へ広げようとした等の理由により源頼義(よりよし)を鎮守府将軍として差し向け前九年の役が始まった(1051)。

 しかし、朝廷の発した大赦に当の阿部氏が含まれていて戦闘は6 年間決着がつかず休戦状態になった。治まらない頼義は出羽の豪族、清原武則(たけのり)を援軍として再度阿部氏に戦いを挑んだ。それにより6 年も決着をみなかった戦いが僅かに1 ヶ月で阿部氏の敗北となったという。その理由に就いては様々な考察がなされているが、最も不思議なのは清衡の母が敵の大将の清原武則の息子に嫁いだことであるという。そういうこともあって本来なら敵将の子として処刑も免れかねなかった7 才の清衡は命拾いをし青年期までを清原氏の許で過ごすこととなった。この数奇な体験が清衡の信仰心を深め中尊寺や毛越寺を造らせ金色堂を造営する精神的な支柱になったといわれる。

 この合戦で勝利を得た清原氏は出羽三郡に加えてかって阿部氏の所領であった奥六郡も支配することになった。しかし、約20 年後の永保3 年(1083)清原氏内で紛争が起こりそれに乗じて源頼義の息子で八幡太郎で知られる義家が介入し(後三年の役)、この戦いで妻子を失った清衡も最後には義家側に与して清原氏は滅亡した。これにより、清衡は藤原清衡として奥州の支配者となった。しかし、清衡は幼時の苦労やこの戦いで肉親を全て失い親族の二大豪族も潰えてしまったという彼の人生の前半の不幸な体験から奥州にも浄土をと誓い、それが平泉を京に次ぐ第二の都市とし、中尊寺、毛越寺が造営され、阿弥陀堂でありながら、その須弥壇の下に清衡・基衡・秀衡三代の遺体と四代泰衡の頭部が眠っている廟所でもあるという世界にも稀な、しかも、漆芸の極致ともされる金色堂が残った。
     

<第28回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その23

輪島塗 その1

 漆(芸)といえば輪島、輪島といえば漆というくらい輪島はわが国を代表する漆器の産地であり又かつて漆器をjapanといわしめた漆芸の総本山である。

 毎年、東京を皮切りに全国をおよそ1年かけて巡回する「日本伝統工芸展」があるが、それとは別に年末に東京で始まり翌年の4月初めまで巡回する「日本伝統漆芸展」がある。これが巡回するのは、東京の次は輪島であり次いで高松、岡山の4会場のみである。その展覧会に入選した漆芸家達の出身地を昨年第29回展から拾ってみると全109点(一人一点)の内、33人が石川県在住であり、更にその内の22人が輪島市で仕事をしている人達である。 入選者が次に多いのは香川県で19人。同展が高松を巡回する由縁である。東京からの入選者は10人、岡山県からは6人であった。神奈川県の5人、富山県、千葉県、愛知県からの夫々4人がこれに続く。

 全国に伝統的工芸品に指定されている漆器産地は23箇所あるが、指定されていても出品のない県、入選者のない県もあるし、逆に指定産地がなくて入選している工人がいる県が12あった。漆芸の重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)は現在9人であるが、その方達の居住地は石川県が3人、香川県が2人、東京、埼玉、茨城、奈良の4都県に各1人で、東京及びその近隣には東京芸大の教授、名誉教授が住まっておられるという状況による。
岡山県には伝統的工芸品指定の漆器産地はないが、元々民芸運動の盛んな倉敷で漆芸を志している人が多いことと関連していると思われ、こうして展覧会を通してみると伝統漆芸展が巡回する4箇所は漆芸家が多い所とみなしてよさそうである。

 石川県には伝統的工芸品に指定されている漆器産地が一つの県としては唯一、3箇所(輪島、山中、金沢)あるが輪島塗を絢爛豪華とすれば山中漆器は地味で全国各漆器産地の木地供給地、金沢漆器は高雅で気品が漂う といってよいであろうか?一県に2箇所の伝統的工芸品指定漆器産地があるのは岩手、新潟、福井、神奈川の4県である。

 かつてヒマラヤから日本列島本州南部に亘る「照葉樹林文化」論が唱えられ東アジアにおける文化的な共通点が論じられた。ただ、漆の木は落葉広葉樹であり照葉樹ではない。しかし漆の利用が日本を含む東アジアに特有のものであることは事実である。長い間、漆の利用は中国から伝来したと考えられていたが、北海道函館市垣ノ島遺跡の縄文時代早期の土坑墓(どこうぼ)からの遺体が身に着けていた織物状の装飾品、腕輪、玉状の飾りに漆が認められそれらは材料となった糸そのものに漆を沁みこませたものであることが判明し、遺体の放射性炭素14による年代測定で約9000年前のものと判定された。この事実により日本における漆利用はそれまでより一気に2000年近く遡り中国での年代が確定された漆よりもさらに古いことが明らかにされた。ただその時代における漆の利用は漆の持つ防腐、耐熱、接着作用を古代の人達が体験的に知ったことから始まったものであろうから、漆を塗った土器や櫛が遺跡から出土したからといって、それは漆芸とはいえないであろう。漆芸の始まりは漆のもつ優れた特性に基づいての様々な器物の大陸からの伝来による。

 高速道路、新幹線の延長などの大事業の進行により自然破壊も進んだかも知れないが遺跡の発見、発掘、それの保存も進んだ。縄文時代の主な漆製品の出土地も増える一方で北は北海道の南部みではなく東部からも、本州は北から南まで主に日本海側に沢山の出土がある。殊に能登半島周辺に多くこの地で古くから漆が使われていたことが判る。ただそれが現在の輪島塗と直ぐに結びつくのかはなんともいえないらしい。

 輪島塗の起源についてはかの根来の僧が来て伝えたとか、能登半島柳田の合鹿椀(ごうろくわん・合鹿は地名、その形、高台の高さなどから後の輪島の椀に似ているというが全体に大振りで渋下地は平安時代後期まで遡るがこの椀の特色である口縁部の布着せはむしろ輪島の椀の影響を受けているといわれ古美術界での評価が高い椀)からとかいわれるが、根来以前に輪島塗は存在しており両者ともに輪島塗の原型とはなり得ない。
    

<第29回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その24

輪島塗 その2

 常行堂は阿弥陀仏の周りを廻り歩いて(行道)念仏を唱える(常行三昧ためのお堂であり、円仁(天台宗山門派の祖、下野の人で天台座主。最澄に師事。常行三昧により東蜜・空海により始められた真言宗、に対抗する意図があった)が中国から導入した。

 奈良時代の阿弥陀堂は延暦寺では法華堂と奥で連接した同大のお堂であったが、そこへ「方丈記」「発心集」「無名集」などで有名な例の鴨長明が鎌倉時代初期に往生のために作り篭ったとされる「往生院」の造作が参酌されて、藤原道長が都に作らせた本格的な阿弥陀堂として唯一のこっている浄瑠璃寺(九品寺)九体阿弥陀堂へと変化し(このようなお堂は判っているだけで平安時代に全部で32棟は作られたといわれる)、それが頼道による寺院の中央に置かれた宇治平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)となりそれから約70年後に東北平泉の地に作られた、平安以後の阿弥陀堂の基本になる一間四面堂の金色堂である。 金色堂を作った清衡自身が鳳凰堂を見たかどうか定かではないようであるが、伝え聞く京の伽藍の荘厳さを結集すべく、京から工人達を招き平泉に住まわせて完成したのがこのお堂である。国宝建築としての阿弥陀堂の中では最も小ぶりで現在はガラスの箱(覆屋・おおいや、鞘堂)の中に安置されている。

  日光東照宮の陽明門が彩色と彫りによる豪華さとすれば、こちらは金一色と螺鈿の豪華さである。このお堂へ受け継がれた技法としての蒔絵や螺鈿はその規模、効果において頂点に達したとされ、この世に極楽を現出させる最も重要なお堂と評価されている。 その時代、京で作られる寺院の荘厳(仏教寺院の飾りの意味ではしょうごんと読み、しょうごんする、という動詞形もある)にはまだまだ彩色による方法が多数を占めていたが、それには莫大な費用がかかり、当時も輸入品であった南海の貴貝の値段は顔料よりも高価でその貝を用いての螺鈿は費用の面で大きな負担であった。例えば手箱でみると、木だけであると100疋(ひき・ぴき・一疋は二五文)であるが、蒔絵だけでは120疋のものが螺鈿を施すとそれだけで975疋が加わり全体では1225疋と12倍以上の価格になった。当時の工人の給料が月100文(10疋)ほどであったというから、手箱の螺鈿料だけで97.5ヶ月分の給料に相当したことになる。

  金色堂を支える4本の柱は外から見ては夫々一本の木柱に見えるがこれらは巻柱と呼ばれている。その理由はこれらの柱が単なる一本の材ではないことが昭和42年の解体修理で判明したからである。 専門家の推察に依ると初めは単一の材に蒔絵を施した。ところが想定外とはいえないだろうが、材に亀裂が生じた。小さな亀裂であれば刻苧漆(こくそうるし:機織の際に生ずる繊維の塵を集めたものを刻苧綿・こくそわた といい、それを木粉と漆で練り合わせたもので、素地の欠損部分を補ったり、接合部に詰めて素地を堅牢にするために使われる。木屎とも書く)で埋め合わせればよいが大きな亀裂であれば木片で埋めてもよいがもし大きな亀裂が多くの箇所に生じた場合には美しい円柱を保つことは難しくなる。そこで工人達が考えたのは円柱材を多角材にして(ここでは八角柱)その各面を曲面のある八本の板で巻きそれにより、芯材が細くなったことで生ずる亀裂も小さくなり、巻くことで柱も補強され、しかも、もし損じても部分的な交換が出来易くなり蒔かれた柱は約900年に亘って歪むこともなくその美しい形を保ち金色堂を支えてきた。ただし、柱の全長に亘って巻く必要はなかったから、蒔絵を施した中心部だけを巻板で巻いた。

 奥州藤原氏の第三代、秀衡が死に頼朝の北上が伝えられると、さしもの京に次ぐ文化都市も脆くも崩れ去ることになる。 
   

<第30回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その25

輪島塗 その3

  四字熟語で「乾坤一擲(けんこんいってき)」がある。三省堂の辞書によると、運を天にまかせて、のるかそるかの大勝負をすること、とある。「乾」は天、「坤」は地の意、ともある。古く中国では方位を大きく8つに分け更にそれらを3つに細分したから全部では24の方位表示となる。

 金色堂を支える4本の柱は夫々の方位により「乾」は南西、「坤」は北西、「巽」が南東、「艮・丑寅(うしとら)」が北東で鬼門に当たる。「艮」はコン、ゴンとも読み、こん下こん上の形で、陽が上をさえぎり陰が下にたまって動きのとれない姿を示しているという。つまり上下には動けない意。この方位を表す名称で金色堂の4本の柱が呼ばれていて、それらの柱の下四分の一ほどの面積を占めて蒔絵円帯に囲まれて大螺鈿円文が配されている。
蒔絵、螺鈿を施した豪華な柱はその装飾の全部が完全に残っているわけではなく、又、装飾技法が少しずつ違っていることから夫々異なった工人の手によるのではないかといわれている。「艮」東北にあたる丑寅柱だけがほぼ完全に残されており、巽柱(たつみ)は所々に蒔絵円帯が残っているにすぎず、乾柱(けん・いぬい)は円帯が5cmほど、坤柱(こん・ひつじさる)には全く残っていなかったという。中尊寺をしのぐほどの大寺であったという毛越寺(もうつうじ)も中尊寺も頼朝が攻め入った時の戦火には焼け残ったが檀家を失ってしまい寺院の運営は困難になった。漆芸の工人たちは殆どが都へ帰ってしまったといい、金色堂の漆芸と現存する東北地方の津軽塗、浄法寺塗、秀衡塗、鳴子漆器とは直接には関連がないとみられている。

 永承7年(1052、後冷泉天皇朝の年号)は末法思想がこの年に到来するといわれていたから、平安貴族にとっては正に恐怖の年であった。藤原頼道は父道長から譲られていた宇治の地を寺院とすることにし次々と堂宇を完成させて翌年には阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成した。この堂宇が中尊寺の金色堂の作りに大きく影響したといわれる。頼道にとっては末法後に襲って来るであろう失望感を少しでも軽くするためにはあらん限りの資金を注ぎ込んででも極楽と見紛うお堂を建てて阿弥陀如来の力にすがるしかなかった。その翌年に頼道はこの世を去ったが、それはお堂を完成させた安堵感からであったといわれ、お堂の完成が頼道の死を早めたとは何とも皮肉な話である。

 平泉を築いた藤原氏四代の初代清衡の父は藤原経清(つねきよ)で都の藤原氏に連なる坂東武士であった。母は奥六郡(奥は奥州のこと)の俘囚長(俘とは虜・とりこ、または虜にすること。囚は囚人というように捕らえる、捕らえられること。俘囚とは都で恐れられた蝦夷・えみしでありながら朝廷側に服従した人達)であった阿部氏の出で阿部氏は朝廷に代わって俘囚を支配していた。三代秀衡の母も阿部氏の出であり四代泰平の母は陸奥守、藤原基成の娘であった。

 阿部氏は奥六郡の南の境にある衣川の関一帯を本拠地として勢力をふるった土着の豪族であったが都の阿部氏からその姓を賜り、全盛期の阿部頼時の頃には奥六郡を実質的な領地とする程であった。一方、都では藤原道長、頼道による摂関政治の時代で同時に極楽往生への希求が高まる一方であったから仏像製作、寺院建築のための黄金や漆の需要は増すばかりであった。それらの供給地としての奥州は都にとっては不可欠の地であった。



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