<第33回>
漆工芸(品)の歴史と現状 その33
奈良の漆器 その2
平城京の前身、藤原京の造営は当時における一大プロジェクトであり、それが可能になったのは皇統支配がある程度出来上がったからであった。壬申の乱で勝利した大海人(おおあま)の皇子は飛鳥浄御原(きよみがはら)の宮で天武天皇として即位した。先帝は兄の天智天皇であったが内政では少数の豪族が広大な土地と民を私有し、不況と農業の不作で民の暮らしは悲惨であった。外政では朝鮮半島の百済を支援したが、天智の先帝斉明女帝は百済支援の軍を率いて伊予の国(愛媛県)石湯(いわのゆ、現在の道後温泉)に宿をとった。その一行に万葉集第一期の多才な女流歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)も加わっていた。その石湯の近くの港、熟田津(にぎたず・諸説あり未確定)からの出港の朝を迎えた。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな(巻一、8)
万葉名歌中の名歌はかくして生まれた。この歌は舟遊びの歌などではなくて臨戦態勢にあった皇軍の悲壮感を詠んだのである。百済支援のため福岡県朝倉に行宮(あんぐう)が設けられその前進基地で斉明は僅かな病臥の後68歳で没した。その後は中大兄(なかのおおえ)が即位する順であったが側近藤原鎌足の謀略か天智天皇の誕生はその6年半後でその間天皇不在である。斉明に代わって指揮を執ったのは中大兄であったが、663年新羅討伐軍27000は白村江で唐新羅連合軍にあえなく敗退した。
即位した天智にとっては、敵襲にいかに備えるかが最大の問題で民生は二の次となり国内の荒廃はさらにすすんだ。そのような難局の許で壬申の乱に勝利して即位した大海人(天智の弟天武)は兄の政治は保身に長けた鎌足の意のままであったとそれを否定した。
その施策の第一は蘇我氏、藤原氏などの豪族の政治への関与を出来るだけ排除して皇統による人民の支配を強化すること。第二は新都の建設、第三は律令の制定であった。
天智天皇といえば古代の水時計である「漏刻」が有名である。日本書紀に記載されていたとおり飛鳥で発見されて復元された。上から下へと4っの水槽からなるがその水槽をつなぐ管には漆が塗られていて古代における漆使用の一例である。その頃中国では時を管理するのは皇帝の仕事の一つとされわが国の朝廷もそれに倣った。その後漏刻は陰陽寮(中務省所管の官庁で天文・暦数・風雲の変化を察知して異変があれば天皇に蜜奏し、又諸種の占いや吉凶判断、時刻の管理などが仕事であった)や大宰府、陸奥国、出羽国におかれたが管理が面倒で次第に使われなくなった。ただ天皇行幸の際には天皇の権威を現すものの一つとしてその都度運ばれた。その管理にあたったのは20名の部下を持つ漏刻博士であった。
新都の建設にあたっては何箇所かが候補に上がったという。先ずは飛鳥から北へ15kmの地、大和郡山の新木(にいき)、大阪の難波をはじめとした機内の各地、そして信濃の国である。天武は信濃にこだわり天武14年(686)に(信濃に)行宮造営を指示。それより先、新羅に派遣されて帰国した大使、竹羅と三野王(みののおおきみ)が天武13年都として適当か否かを観るために(?)信濃に派遣された。結局それは実現しなかった。一説には天皇の健康が優れなかったため浅間温泉で湯治をしたかっただけともいう。こんな話を聞いて現在の浅間温泉をみるとそんな昔にこの温泉は中央にまで知られていたことが判り、世の変遷の激しさを知る。竹羅が新羅へ派遣され短期間で帰国したのも新羅の王都の見聞のためとされており、三野王とのコンビの使命は新都建設のための地形調査であった。
唐や新羅の王都の様子を聞くにつけ天武は、天皇が代わる度に狭い飛鳥の地で王宮を新造するよりは移転しなくてもよい壮大な都を造営すべきとの結論に達したのであった。