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漆芸諸国めぐり
  
第31回~第35回

 

 

  
<第31回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その31

輪島塗 その4

 労作「漆」を著した四柳嘉章はその中で、輪島塗が現在の地位を占めるに至った要因を8つ挙げている。

①漆や地の粉、アテ(ヒノキアスナロ)、ケヤキなどに恵まれ、湿潤な気候が漆器作りに適していた。
②17世紀後半(寛文年間)には今日と同じ堅牢な下地技術が確立し、これが評判を呼んだ。
③良好な港をひかえ、廻船で各地に大量に製品を運ぶことができた。
④遐福講(かふくこう:同業組合、天保二年成立)を組織して徹底した品質管理を行い、塗物の製造工程、価格、販売区域の協定、違反者への罰則などが決められた。これが信用を呼び「場所」とよばれる販路拡大につながった。
⑤六職とよばれる生産の分業化がはかられ、量産体制が整った。また輪島の周辺には木地師の集落がいくつもあったが、安価な陶磁器の普及によって彼らの生活がなりたたなくなると、輪島塗の木地師となって生産を支えた。
⑥18世紀以降、沈金、蒔絵による華やかな装飾技法が導入された。
⑦「椀講」「家具頼母子」とよばれる販売方法によって京・大阪方面での販路が拡大した。これは行商先で10人の顧客を募った場合、商品の価格の10分の1を各人が10回お金をだし、商品は抽選順で10年間にわたり毎年納入される仕組みだ。顧客にとっては求めやすく、塗師にとっても安定した需要がみこめる合理的な方法である。
⑧総持寺などの寺院が什器として購入した。       

の8点である。

 更に他には見られない点として輪島は漆芸の教育研究施設を持ち結果として複数の人間国宝を擁しそれがまた漆芸職人の技術水準を高め、全国から漆芸を志す有能な人材を呼び込むこととなって一層職人の層が厚くなっている といえるのではないだろうか?

  現在、漆器と聞いただけで「高価」と決め付け取り合わない人が多い。しかし、漆の持つ耐熱性、耐久性、それが醸し出すなんともいえない温か味、もし傷をつけても塗り直しが可能であることなどを考えると決して高価ではなく、日常の漆器類は一生ものであり、総合的に考えると漆器の使用は日本を始め東アジアの漆産出国の人々に与えられた自然からの恩恵でもありその歓びをもっと享受すべきである。そして民芸家の言葉を借りるならばもっと「用の美」にめざめるべきである。

  かつて輪島塗の文庫を見積もってもらったことがある。提示された価格は500万円であった。唖然というか呆然というか、それだけでことは終わりである。「輪島塗だから高くて当然」という一般的な認識を人々に抱かせているのも事実だし、その矜持がよくもありわるくもありともいえるのではないだろうか?

  松田権六といえば漆芸の神様のような存在だと思うが、輪島出身の権六は若い頃、同郷の先輩で後の人間国宝「六角紫水」に弟子入りした。その紫水の血を受けた娘さんが松本で漆芸の世界に住んでいる。その作品はお椀といい、箱ものといいそれがあるだけでなんともいえない暖かさをその周りに発散している。未だお会いしたことはないがその作品があるだけでも、小生にとっては、松本へ向かう更なる理由が加わる。東南アジアや韓国にもあるような、植物の蔓を丹念に巻き上げてある形を造りそれに漆をかけたその人の作品は、その手間たるや恐らく想像も出来ないほど大変だと思うが、もしこれが輪島産だったらただ絶望の眼(まなこ)で眺めやるしかない程に高額になるに違いない。が、幸いにもその品は松本産である。

  カール・ブッセの有名な詩を輪島に置き換えてざれてみた・・・・・・・・・・・

山のあなたの空とおく  輪島はありと  ひとのいう   ああ われ一人とめゆきて  
なんぞかくもと  帰りきぬ   山のあなたに  なお高く  輪島はありとひとのいう

高いとは品質も高いが価格も高い の意である。



<第32回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その32

奈良の漆器 その1

 伝統的工芸品としての奈良漆器はない。従って“奈良漆器”といった場合は奈良(県)市で作られている漆器を意味し、様々な漆器が包括されている。
歴史時代区分では推古天皇元年(593)をもって飛鳥時代の始まりとし、舒明、皇極、孝徳、斉明(皇極重祚)、天智、弘文、天武、持統、文武と続いて元明天皇の時に平城京への遷都が行われた。飛鳥時代と呼ばれるが都は持統8年(694)飛鳥の地から藤原の地へと移った。藤原京は中国の都に範をとった日本最初の本格的な都城であったが持統、文武、元明の3代、16年足らずの短期間の都であった。それは日本が曲がりなりにも一つの国としての体裁を整えた最初の都であった。7世紀の100年間を通しての為政者たちの主目標は中国の都城に倣っての新京の建設と政治の基本となる法体系の整備(大宝律令)であった。
藤原宮・京なくしては平城宮・京はなかったのである。

 今から60年程前、橿原市高殿(たかどの)町の「大宮土壇」と通称されてきた大きな土壇が藤原宮大極殿の基壇跡であることが判明した。平城京へ遷都して奈良盆地全体が条里制の新都を造営するために耕地整理が行われ、それと重なり合う藤原京跡はほぼ全域が水田化され新都の農村部となってしまった。この条里制のために藤原京の建物跡や道路跡はことごとく地表から消えてしまった。それが藤原宮・京跡の解明を困難にしてしまった。
例えば我々は世界最古最大の歌集万葉集(単純な歌集ではなく全20巻の内ことに冒頭の2巻は天皇の権威高揚のための歴史書でもある)を奈良時代のものとして認識しているが、その4期の内、大伴家持と並んで集を代表する大歌人、柿本人麻呂が宮廷歌人として活躍したのは持統天皇の時代であり、宮中に召されて天皇賛歌を謳いあげたのは藤原宮であった。

  都が奈良に移ってたちまちの内に荒都と化してしまった藤原の都を追想しての詠歌が万葉集には多くみられるが、日本古代における最大の騒乱といわれる壬申の乱(672)に勝利して皇位に就いた天武天皇は皇統による一元的な政治を基本と考えて様々な施策を目論み志半ばにして没した。その遺志を継いだその皇后、持統はそれを実行に移した。持統は女帝ながらその意思は強固で己の施策の邪魔になる存在は情け容赦もなく排除した。自身の神格化を計り人麻呂をして「大君は神にしませば・・・・・」と詠わせた。

  その藤原宮・京は奈良盆地東南部、飛鳥の西北方で畝傍・耳成・香具の大和三山に囲まれていた。「大宮土壇」を藤原宮跡と最初に断定したのは江戸時代中期の国学者、賀茂真淵であった。真淵は明和5年(1768)に成った万葉集の注釈書「万葉考」の中で藤原宮が大和三山の中央にあって当時もその跡を「大宮殿」と呼んでいたと記した。真淵の弟子、本居宣長や孫弟子上田秋成もその説を踏襲した。

  大宮土壇説は明治時代に引き継がれ、明治15年(1882)印刷の地図には高殿集落の西に「藤原宮跡」の記入があるという。賀茂真淵が藤原宮跡を大宮土壇と断定した頃もその跡は現在の高市郡明日香村小原にありとする説が一般的であった由。その後も地名の考証などから大宮土壇説がより有力になって行き大正4年(1915)には奈良県教育会によりその土壇上に「持統天皇文武天皇藤原宮跡」の史跡顕彰石碑が建てられた。

「奈良の漆器」という時、奈良時代の漆器の意味と現在の奈良の漆器、その間1000年余に亘る古都での漆器が対象になるが、それの理解のためには奈良の都の歴史が必要と考える。


<第33回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その33

奈良の漆器 その2

 平城京の前身、藤原京の造営は当時における一大プロジェクトであり、それが可能になったのは皇統支配がある程度出来上がったからであった。壬申の乱で勝利した大海人(おおあま)の皇子は飛鳥浄御原(きよみがはら)の宮で天武天皇として即位した。先帝は兄の天智天皇であったが内政では少数の豪族が広大な土地と民を私有し、不況と農業の不作で民の暮らしは悲惨であった。外政では朝鮮半島の百済を支援したが、天智の先帝斉明女帝は百済支援の軍を率いて伊予の国(愛媛県)石湯(いわのゆ、現在の道後温泉)に宿をとった。その一行に万葉集第一期の多才な女流歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)も加わっていた。その石湯の近くの港、熟田津(にぎたず・諸説あり未確定)からの出港の朝を迎えた。

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな(巻一、8)

 万葉名歌中の名歌はかくして生まれた。この歌は舟遊びの歌などではなくて臨戦態勢にあった皇軍の悲壮感を詠んだのである。百済支援のため福岡県朝倉に行宮(あんぐう)が設けられその前進基地で斉明は僅かな病臥の後68歳で没した。その後は中大兄(なかのおおえ)が即位する順であったが側近藤原鎌足の謀略か天智天皇の誕生はその6年半後でその間天皇不在である。斉明に代わって指揮を執ったのは中大兄であったが、663年新羅討伐軍27000は白村江で唐新羅連合軍にあえなく敗退した。

  即位した天智にとっては、敵襲にいかに備えるかが最大の問題で民生は二の次となり国内の荒廃はさらにすすんだ。そのような難局の許で壬申の乱に勝利して即位した大海人(天智の弟天武)は兄の政治は保身に長けた鎌足の意のままであったとそれを否定した。
その施策の第一は蘇我氏、藤原氏などの豪族の政治への関与を出来るだけ排除して皇統による人民の支配を強化すること。第二は新都の建設、第三は律令の制定であった。

  天智天皇といえば古代の水時計である「漏刻」が有名である。日本書紀に記載されていたとおり飛鳥で発見されて復元された。上から下へと4っの水槽からなるがその水槽をつなぐ管には漆が塗られていて古代における漆使用の一例である。その頃中国では時を管理するのは皇帝の仕事の一つとされわが国の朝廷もそれに倣った。その後漏刻は陰陽寮(中務省所管の官庁で天文・暦数・風雲の変化を察知して異変があれば天皇に蜜奏し、又諸種の占いや吉凶判断、時刻の管理などが仕事であった)や大宰府、陸奥国、出羽国におかれたが管理が面倒で次第に使われなくなった。ただ天皇行幸の際には天皇の権威を現すものの一つとしてその都度運ばれた。その管理にあたったのは20名の部下を持つ漏刻博士であった。

  新都の建設にあたっては何箇所かが候補に上がったという。先ずは飛鳥から北へ15kmの地、大和郡山の新木(にいき)、大阪の難波をはじめとした機内の各地、そして信濃の国である。天武は信濃にこだわり天武14年(686)に(信濃に)行宮造営を指示。それより先、新羅に派遣されて帰国した大使、竹羅と三野王(みののおおきみ)が天武13年都として適当か否かを観るために(?)信濃に派遣された。結局それは実現しなかった。一説には天皇の健康が優れなかったため浅間温泉で湯治をしたかっただけともいう。こんな話を聞いて現在の浅間温泉をみるとそんな昔にこの温泉は中央にまで知られていたことが判り、世の変遷の激しさを知る。竹羅が新羅へ派遣され短期間で帰国したのも新羅の王都の見聞のためとされており、三野王とのコンビの使命は新都建設のための地形調査であった。

 唐や新羅の王都の様子を聞くにつけ天武は、天皇が代わる度に狭い飛鳥の地で王宮を新造するよりは移転しなくてもよい壮大な都を造営すべきとの結論に達したのであった。



<第34回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その34

奈良の漆器 その3

 比較的最近まで浅間温泉は信濃の国の歌にもあるように束間温湯(つかまのゆ)呼ばれていたようで現在も残るつかま、ちくまの地名と関連がありそうである。下見のために信濃にも使わされた三野王がもし天武2年に造高市大寺司(ぞうたけちだいじし、当時国家筆頭の大寺といわれた高市大寺を造るための総指揮官)に任ぜられた美濃王と同一人物であれば大規模な土木工事に優れた技術を持っていた人物といわれる。中国では長安と洛陽のように複数の都を置いたが、天武もそれに倣ってそれまで転々としていた都を副都とし、新たに造営される都を首都とする意向であった。従ってその時の副都は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)である。

 天武天皇が構想を練って天武13年(684)に決定された新都、藤原京は通称であり正式名は新益京(あらましのみやこ)でその意味は、「新しく飛鳥の外に広げた都」である。しかしその2年後に天武は没し、後事は皇后、鵜野讃良(うののささら・後の持統天皇)に引き継がれた。新益京の地鎮祭は持統天皇5年(691)に行われたが決定から8年もが経っていた。
藤原宮・京の発掘は戦前から行われていたが公的機関による大規模な発掘は1970年からの奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所、略して奈文研)による。未だに発掘中であるが推定される全貌は平城京、平安京を凌ぐ大きさでわが国最初の最大の都であった。
その発掘の成果は多岐に亘るが一番の収穫は大量の木簡の出土である。日本で木簡が認知されたのは1961年の平城宮発掘調査の時からで、1966年には藤原で、その翌年には飛鳥で木簡が出土した。 その時は藤原・飛鳥からの出土数は僅かなものであったがその後これらの地からの出土は大変な数に上り、2011年末時点での出土点数は飛鳥木簡が15,000点、藤原京木簡が30,000点にも達した。

  当時紙は極めて貴重であり重要な文書にしか使われなかった。その点、木はどこにでもあり、しかも削れば何回も使える、持ち運びに便利で壊れにくい等の利点があった。その再利用の例として、排便の後尻を拭うのに、使いきった木簡が使われた。これは籌木(ちゅうぎ・籌は壔の字の土編を取り竹冠を付けた字であり特殊文字表には出ているのにPCはその文字を拾えずその略字?が出てくる。竹冠が付いているように細長い竹の棒、竹の棒で作ったくじの意とある)といわれこれがまとまって出土するのはトイレの遺構と考えられる。幼少の頃を過ごした寒村では紙が手に入らない人達は太平洋戦争後もこのような木片を使っていた。それらは燃やすと悪臭を放つのでまとめて川に捨てられていたが下流の人達は何でこのような木片が流れてくるのかと思ったかも知れない。民俗学者柳田国男の全集にこの件に関しての記載があるか未だ調べてはない。

 日本書紀、古事記、歌集であるが歴史書でもある万葉集などの文字資料にも出ていない官司名が発見されたり、行政区画名の使い分けが判明したり、当時の高級官僚から庶民に至る日常生活の知られざる部分が具体的に明らかにされ、古代史家ばかりではなく、古代史に興味を持つ多くの人達が直接間接に恩恵を受けている。木簡学会という学会もあり古代史研究の大きな部門で、木簡の文字を読むための辞典も出版されている。文字が広がり始めた当時の人達にとって木簡は我々が紙を日常的に使っているように極めてありふれた材料であった。それだけに文書には見られない庶民や下級官僚の日常をありのままに伺うことができる貴重な資料である。 

<第35回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その35

奈良の漆器 その4

 奈良の漆器といえば奈良県で作られている、又は作られていた様々の技法の漆器を全て含んだ用語である。一方、奈良漆器と「の」が入らないと奈良固有の漆器という意味合いである。津軽塗とか輪島塗、会津塗、若狭塗と言うように塗とも呼ばれる漆器は目には見えない下地にも夫々の特徴があるが、主には塗りの特殊性(地域性)を現した用語である。

 奈良漆器は正倉院の宝物にあるようにその歴史は古代王権の存在と共にあった。最も基本的な形は瑞兆としての文様を螺鈿で表した黒又は朱塗りの器である。これまで漆芸にかんする辞典としては昭和53年5月に初版が出た光芸出版(編)の「うるし工芸辞典」が唯一であった。昨年暮、角川学芸出版から漆工史学会の編集になる「漆工辞典」が刊行された。これは人間国宝を含む漆芸の夫々の分野の87名の専門家による分担執筆で画期的な仕事だと思われる。漆の本といえばその著作量で他の人達を圧倒しているのが荒川浩和であるがその方が編集委員長である。他にも漆芸に関して大著をものされた方が殆ど全員含まれている。

 その新らしい辞典で「奈良漆器」の項を見ると・・・・・・・

明治時代、奈良の漆器工房温古社が製作した漆工品。明治7年(1874)に組織した株式会社奈良博覧会社(本社は東大寺龍松院)は、翌年、第一次奈良博覧会を開催し、東大寺の東西両廻廊に奈良県下の寺社および個人蔵の文化財を、大仏殿内には正倉院宝物を陳列した。それは「古器物に富たる他国の及ばざる処に付、之を基と」して、殖産興業と経済的高揚を企図するものであった。同社は正倉院宝物を中心とする模造、模写事業を興し、奈良人形の名工森川社園や漆工家吉田立斎らに従事させた。同22年、吉田立斎を場長とする温古社を組織し、ここで製作する漆工品を奈良漆器と命名した。・・・・

とある。さらに続けて・・

それは、木地をヒノキの古材として、文様・技法から飾り金具にいたるまで、正倉院のそれを忠実に模倣したものであった。現今の奈良漆器は、正倉院法宝物の文様を螺鈿で表し、貝に裏彩色(白色)を施すものが多い。と結んでいる。

 この説明の初めの部分は、毎年秋に奈良国立博物館で連綿と開かれている正倉院展事始に触れ、更に正倉院宝物の漆工品を忠実に模写したものが奈良漆器であるといっている。従って奈良漆器の本体は正倉院の漆器である、ということになる。

 それでは、前出の古い「うるし工芸辞典」は奈良漆器をどう説明しているであろうか?それに依ると

奈良市より産する漆器。古代の逸品に範を求めたものが多く、特に螺鈿の技法が奈良漆器の特徴とされる。これは一定の厚さの厚貝を任意の文様に切って布着せをした素地に貼り、漆下地を施したあと貝の方が高くなるように研ぎ出し、下塗り、中塗、蝋色漆の上塗りを施して蝋色研ぎをしたものである。奈良はわが国の漆工芸の発症の地で、天武天皇の御代(673-86)に赤漆で器物を塗装したのが始まりとされ、今日でも当時の逸品を多く保管しているが、平安に都が移ってからは衰退し、さらに正応年間(1288-93)より紀州漆器が発達してくると圧倒されて衰微していった。

とある。



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