<第36回>
漆工芸(品)の歴史と現状 その36
奈良の漆器 その5
前回、新しい辞典が出て比較が可能になったので二つの漆芸辞典の記述を紹介した。
先ず、工芸出版のそれを「旧辞典」とすると、その中では、「奈良漆器」を「奈良市で作られた漆器である」と限定的な定義をして製作時期は問わない。「新辞典」ではもっと限定的で結果的には初めての正倉院展を開いた温古社という一組織が作った漆器であるといっている。それでは明治以前には奈良漆器はなかったことになる。「旧辞典」では奈良の漆器がわが国の漆芸の発祥であると言っている。それでていて「新辞典」も温古社の漆芸は徹底して正倉院の漆器の意図的な模倣である、としている。結局両辞典の記述に共通するのは極言すれば「奈良の漆器の主体をなすのは正倉院の漆器である」と結論されるのではないだろうか?
正倉院(の宝物)はシルクロードの終着駅とか単に日本の宝であるばかりではなく人類の宝など、それを讃える言葉には際限がない。この宝物の一番の特色は全てが伝世品であることである。かつて使われた品であっても何らかの理由で土中(土の中の意であるが、土の中に埋められている意の動詞としても使われる)したことのない品である。有名な螺鈿紫檀五弦琵琶は世界でただ一点正倉院に残っているだけであるしその他諸々の一万点ともいわれる品々が1300年の時を感じさせない新鮮さで往時の文化を今に伝えている。
正倉院の宝物ではないが、法隆寺の玉虫厨子は700年代を代表する唯一の伝世品である。
誰でも一度は実物を目にしたか、図鑑などでおなじみと思うが、その由来は「法隆寺伽藍縁起ならびに流記資材帳」にある。奈良の古い寺には夫々その寺、伽藍の成り立ちを記した文書があり、それが「縁起ならびに流記資材帳」である。この厨子は押出千仏像を納めたもので遥か敦煌の流れを汲み全体に漆が塗られている。これは単に漆芸品であるばかりではなく工芸、絵画、その絵が示す仏教思想など当時におけるアジアの装飾様式の全てが含まれているといわれる。そこには幾つかの仏教説話からとった絵が朱、黄、緑などの色漆で表現されていることから理解されることである。
正倉院の漆芸はその後のわが国の漆芸の原点とされそれを基礎にしてその後の多彩な技法の流れが形成されていった。
正倉院の漆芸の内最も華やかで主流を成しているのは螺鈿である。先述の世界に唯一点の螺鈿紫檀五弦琵琶、螺鈿紫檀阮かん、楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(かえですおうらでんそうのびわ)などがそれであるが、これらは何れも宝相華(ほうそうげ、唐、奈良・平安時代に盛行した唐草文の一種。花文様に見えるので華という)、鸚鵡、象などの異国情緒溢れる文様を厚い貝に琥珀をまじえて表現し、紫檀などの素地を文様の形に彫りこんで貝を象嵌し研いで木地面と平らにする「木地象嵌」の技法による精密な表現が見られる。この技法は「木地螺鈿」ともいい、厚貝螺鈿技法の一つ。仕上げには毛彫りで文様を施すことが多い。これが後に主流になる「漆地螺鈿」の基になった。この技法には塗込法、彫込法、押込法、貼付法などがある。正倉院には木地螺鈿・平螺鈿が20点余り伝存し、その他に玳瑁(たいまい)貼り螺鈿と漆地螺鈿があり、その内でも宝物の一つ「玉帯箱」は漆地螺鈿の唯一の遺品で日本製とみなされている。