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漆芸諸国めぐり
  
第41回~第45回

 

 

  
<第41回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その41

讃岐漆器 その4

 タイやミヤンマーで使われる胎は竹が多い。竹ひごを編んで形を造りそれに漆をかけていく。胎が竹の場合は藍胎(らんたい)漆器と呼ぶ。“籃”は竹を編んで作った籠とか物の上に被せる大きいふせかご(ふせご)を指す。タイやミヤンマーの竹は節と節の間が日本のそれより長く、しかも質が柔らかく加工がし易いといわれ、木と違って節を外せば質は一定で、軽くて温度、湿度による変化が少なくしかも成長が早く手に入りやすい素材であり、籃胎キンマというくらいである。

 キンマの技法は漆塗面にキンマ刀又はキンマ剣と呼ばれる刀で線刻しその彫溝に意図する色漆を埋め込み研ぎだして文様を表す填漆(てんしつ)の一種である。塗り上がった漆面に、酸味のある果樹の種子から絞りとった植物油を塗り、まず朱を入れるところだけを刀で彫って、朱漆を薄めに塗り、乾燥後に水洗いして樹脂と余分な朱漆を取り除く。これを緑・黄の順で繰り返す。最後に虎の舌の葉と呼ばれる植物の葉(タイではバイ・リンスーア、ミヤンマーではダハヨと呼ばれる)で研ぎだすと、彫溝の彩漆(いろうるし)描線が浮かび上がる。最後に植物油を塗り、光沢を出して仕上げる。

  この技法はもともとはタイ北部のチェンマイを首都として栄えたランナー王国時代に興った技法であるが、同王国は16世紀の半ばにビルマ(現在のミヤンマー)のタウングー王朝軍の侵入を受け以後200年に亘ってその支配下にあった。その間、多くの漆工職人がビルマに連行されこの技法がビルマに伝わった(角川学芸出版:漆工辞典より)。
インドシナ半島の国々の漆芸がキンマ一色であるわけではなく中国漆芸の影響もあり、例えばラオスでは沈金や沈銀が1960年代まで行われていた。螺鈿も中国・朝鮮半島・日本・ベトナム・タイ等で広く行われている。日本では、古代からの正統的な奈良漆器は黒漆に螺鈿で、しかもいわゆる瑞兆をあしらった正倉院模様であるが漆黒の地に上下左右とも対称的な螺鈿の配置には簡素な美しさがある。韓国の漆器は濃厚な螺鈿でこれでもかこれでもかというくらいに貝が敷き詰められ場合によっては貝で地が見えないくらいの品もある。
タイのキンマは黒漆地に朱漆で草花文などを表すのにたいし、ミヤンマーでは朱・黒・緑・黄など多色を用い、文様も象・虎・獅子・蛇・鳥など鳥獣文を表すものが多く多彩で華やかである。これらは朱印船貿易によりわが国にも沢山に輸入された。

 日本では江戸期の文化4年(1807)、高松に生まれた漆芸家玉楮象谷(たまかじぞうこく)によって導入されその後の讃岐漆器の基礎が出来、大正初期には、磯井如真(いそいじょしん)が点彫り(キンマ剣の角剣の刃先を鋭い三角形にし前方にはじくようにして小さな点を彫る。点の大小、密度により立体感が生まれ、写実性が高まる)を考案し、更に彩漆の上に多色の漆を埋めて中間色を出すことに成功した。それにより讃岐のキンマには本家、タイやミヤンマーのキンマに比べてくどさのない洗練された美しさがある。キンマの優品としてはキンマ鳥獣文足付角鉢(根津美術館蔵)、キンマ鳥獣文箱(出光美術館蔵)、千利休所持と伝えられるキンマ氷裂文茶箱(不審庵蔵)があり何れも交易によって齎されたものという。

 

<第42回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その42

讃岐漆器 その5

 讃岐漆器の始祖といわれている玉楮象谷(たまかじぞうこく)は高松に生まれ鞘塗を業としていた父、理右衛門の下で家業を習う一方で好んで彫刻をなした。高松は良質の材がとれるわけでもなく漆を産出したとの記録もない。しかも乾燥する土地柄であり漆芸に適しているとは言い難い。

  象谷が活躍した江戸末期は工芸技術が極度に発達した時代で漆芸においてもあらゆる技法が試みられ、特に蒔絵では殆ど極限に達していた。このような状況の中で象谷は覇を競っていた光悦、古満(こま)、青海などの蒔絵の流派にとらわれることなく、中国での彫漆、存清の技法、南方の蒟醤(きんま)、籃胎(らんたい)に着目し、それらを日本的な漆工技法として蘇らせた。堆朱や堆黒の持つ立体感、蒟醤の線刻にみる鮮やかな色彩の対比。象谷はこのような立体感、鮮やかな色彩の対比を重視した作品を生み出した。若い頃から京都を訪れ神社仏閣などが所有する中国や南方の漆器にふれ事情が許せば極力それらを入手した。自ら屋号を「紅花緑葉」と称したのも指向した配色を表している。
後に高松松平家の宝蔵の管理に携わることになり、普通には目にすることも出来ないような漆芸品を観て手にして、破損があればその修理もまかされた。その役得で象谷の芸は益々高みに達した。

  明治3年暮れ、その高松松平家の重宝が落札、売却された。全部で30器が合計25、270両であった。最高の名器7点の中には、千利休が楽長次郎に作らせた名物の木守茶碗「長次郎赤御茶碗 銘木守 利休所持」や、それよりも高値が付いた十一代将軍家斉の娘文姫(あやひめ)が輿入れの際に持参した「金海御茶碗 銘紅葉 五器一(もみじ ごきのひとつ)」などいずれも国宝級の品が目白押しであったという。
象谷は日本における堆朱、堆黒の祖であるが、現在、新潟県村上市における伝統的漆工芸である木彫り堆朱、堆黒を他漆器産地の追随を許さない芸として確立した。ただし象谷が行ったのは原義通りの堆朱、堆黒であった。つまり“木彫り”ではなくて何回となく塗り重ねた漆を彫る本来の芸であった。一方で細かい彫りも得意とし、蒟醤も多く手がけた。象谷は名品の蒐集にも熱心であったが、それらの品々は残念ながら纏まっては残っていない。
讃岐漆器を語る上でどうしても避けて通れない品の一つは象谷の「一角印籠」であるといわれる。

 一角(いっかく)は歯鯨の仲間、イッカク科の小形の海獣で北極海の、ことにシベリア側に棲むという。オスは体長5mくらいまでになるが、上顎の左の門歯が螺旋状に前方に伸び、最長3mくらいにもなる。これが頭に角があるように見えることから「一角」の名がついた(英語でUnicorn,Uni=one, Corn=角:)。この牙は高級印材として珍重されるが、これを粉末にしたものは古来、解熱剤として漢方でも重用されてきた。この印籠は讃岐漆器を語る上でなくてはならない品といわれるが、終戦後の混乱期、昭和20年代に、秘蔵されていた松平伯爵家の宝庫から忽然と姿を消し、「幻の印籠」と呼ばれる事になった。ところが、平成3年3月13日付の四国新聞紙上にその所在が判明した旨の記事が載り、40数年振りにその姿を現した。その記事によると「幻の印籠」は高松市内の旧家の手に渡り、その所在を突き止めた香川県内の収集家がそれを入手し所持していた。所在が報道されてから間もなくの平成4年(1992)、その人の手を離れ香川県文化会館の所蔵に帰した。 未だ目にしていないので、この数奇な運命を辿った凄い漆芸品を是非見たいと思っている。
   

<第43回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その43

讃岐漆器 その6

 「幻の印籠」と呼ばれ40数年振りに姿を現し、公共の施設の所蔵となって多くの人達が自由に目にすることが出来るようになった名匠 玉楮象谷の代表作の一つ、「一角印籠」は、高さ8.6cm、幅5.5cm、厚さ2.9cmの偏円筒形で挟家(さや)は黄白色のイッカク材で作り、池の中に生えた蓮が主題で彫られている。その彫られた動植物の種類と数が凄い。荷葉(ハスの葉)55枚、花30、池の岸に太湖石(たいこせき:溶解して奇形を呈した石灰岩の塊。庭園または植木鉢などに置いて観賞する。もと中国太湖に多く産出。日本では岐阜県大垣市金生山・きんしょうざん に産出―広辞苑)を2つ置き、その石の上や水の中に亀343、蟹443、蛙41、葉や茎に蝸牛27、蜻蛉24、蝿9、蜂4、蝶26、玉虫2、ばった3、きりぎりす4、こうろぎ2、かまきり4、くも18、おけら2、むかで5、カブトムシ1、雀19、さぎ7、かわせみ1、せきれい2、がちょう3 が彫られているという。その総数は1086、動物だけだと999という。拡大鏡を使って彫ったというが限られた面積の中にこれだけの生物、無生物を掘り込んだ技法は本当に凄いと感嘆する。是が非でも高松へ行ってそれを見なくてはと思う。

 日本の漆芸の繊細な美を高めたものにこのような印籠、根付、鞘塗がある。印籠の蒐集で有名なのは故高円宮であった。その蒐集品はかっては図録でしか拝見できなかったが、今は東京国立博物館に寄贈されて、その本館(旧館)の一室がそれらの常設展示に当てられており誰もが気楽にその蒐集に接することができる。清少納言は「枕草子」の中で“小さきものは美しきかな”といっているが、生物でも無生物でも限りもなく小さい存在があるという事実は本当に自然界の驚異である。

  戦国の世にあって、武将たちの出で立ちは、頭の先から足先に至るまで漆芸品の塊であったといっても過言ではない。そればかりではなく、乗っている馬の装備も鞍から鐙(あぶみ)にいたるまで漆芸品の展示であった。象谷もこうした馬具の漆芸に手を貸していて、彼が加飾した鞍や鐙が残っている。

  小さくて美しいものは数多あるが、日常用いている光学顕微鏡が1000倍までは解像出来るのでそれで観て感心を通り越して感激すら覚えるのは(植物の)花粉や蛾や蝶の鱗粉である。もし清少納言が現代にあって、美しき小さきものが、数百倍から千倍にも拡大されて観ることが出来れば、かくも大きくなされたるものは醜きかな、となるであろうか? 電子顕微鏡での拡大に至っては最早原形を留めず、かくも巨大にされたるはもとの形知り難く美しといふも愚かなり となるのではないだろうか?

  東京国立博物館のMuseum shopへ行くと殆ど全国の展覧会などの図録が販売されていてそれからその催しの内容のみならず日時まで判るが、図録はかって著作権の問題があったりして爾後値段が少し上がった。それでも内容からみた価格は格段に安くお買い得の参考資料である。もし同じ内容が単行本として発行されるとその価格は図録の何倍にもなる。京都国立博物館がそのようなことを何回かやったが、箱入りの豪華本に化けて価格は万単位になった。今から丁度10年前に東大出版会から「展覧会カタログの愉しみ」という分担執筆の単行本が発行されたが、図録のみでなく広くカタログの有用性を論じていた。
  

<第44回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その44

根来塗 その1

 根来塗りは技法を表すので、現在ではある特定の産地があるわけではない。 ただ、産地と結びついて、「京根来」、「奈良根来」、「吉野根来」等の呼び方があったり、木彫り朱漆塗りの「鎌倉彫」の範疇に入ると思われるものが「根来彫」、とか「彫根来」とよばれたり、更には塗りの本質に関わる技法が異なるものまで「根来」と呼ばれたり極めて意味づけの難しい用語となっている。例えば黒の中塗を行なわず、下地に直截朱漆を塗っただけで「根来」、とか「根来塗」と称したり、逆に黒漆仕上げのものを「黒根来」と呼んだりと纏まりがない。

  厳密な呼称を唱える人は、天正13年(1585)秀吉による根来寺焼き討ち以前にその一山で作られた品を「根来塗」とする、とされたが(この解釈に適合する「根来寺製」のものは僅かに一点しかない)、それでは余りに厳しすぎて現実的ではないことから、それを拡大して根来寺焼き討ちの後、遠くは薩摩に及ぶ各地に分散した根来寺の漆職人の作ったものも含めようとの考え方が容認されている。そうなると対象となる品は少し増える。その代表的な遺品が、東大寺二月堂で行なわれる修二会(お水取り)の行法において、練行衆達が食堂で用いてきた練行衆盤がこの好例となる。この盤には裏面に永仁6年(1298)の銘があり、根来寺の終焉よりも300年近くも古い。補修を重ねながら現在まで700年以上に亘って連綿と使い続けられてきたことになる。

  最近、東京国立博物館へ行った際、そのMuseum shopに「根来」という分厚い図録があった。それは昨年9月1日から12月15日まで滋賀県のミホミュージアムで開催された、全国規模で「根来」の優品を集めた展覧会としては関西では27年振りとなる特別展「朱漆・根来―中世に咲いた華」の公式図録であった。監修の河田貞先生の手元に集まった品は414件に及んだといわれる。 これまで「根来」に関する著作の決定版は1985年に紫紅社から出たその河田先生の「根来」であった。今から16年前の11月24日京都の古本屋で手に入れた。丁度この文を書いている日である。

河田先生は、中世の神社、仏閣の什器として日常的に使われてきた朱漆器「根来」が日本人のみならず最近では海外の愛好者の間でも評価を高めているとし、その理由として、①日本の中世社会で社寺や上流階級の什器や生活用具として常用されてきた「根来」と称する一群の朱漆器は、長年の使用に耐えうる強靭な素地(木)造り(耐久性)であること、②使い易さ(機能性)、③下地造りから黒の中塗り、朱の上塗りに至る堅牢無比ともいえる塗法、④朱と黒だけの明快な塗り肌が醸し出す直截な色彩の対比など、木漆器「根来」の持つ幾つかの特徴的な要素が育まれそれらが渾然一体となって普遍性の高い洗練された「用の美」を創り得たからであろう と述べておられる。

 根来寺へ行って見ると広大な斜面にかっての伽藍のうち僅かなものが消失を免れてぽつんぽつんと立っているだけの寂しい情景である。その根来寺で作られたことが確かな漆器は僅かに1点のみといわれている。底裏に「細工根来寺重宗」の朱漆銘を記して、産地・工人名を明らかにしている茨城・六地蔵寺の布薩盥(重文)がそれである。他にも根来寺の塔頭や子院の名を記しそこの什器であったことを示唆するものが若干あるがそれらは「根来塗り」である可能性はあっても根来産である確証は全くないとされる。 
  

<第45回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その45

根来塗 その2

 「根来塗 その1」で説明したように、厳密な意味での根来塗はこの世に数えるほどしか存在しない。秀吉の攻撃を受けて根来寺が壊滅させられる前の約300年間にそこで作られた漆器のみを根来塗と定義するならば、根来塗はもはやごく限定的な産物であり、それ以後、誰がどこで、かっての根来寺と同じ技法で作ろうとそれは根来塗ではない。 しかし、それでは余りに非現実的で、作家が、又は漆器の使用者が根来塗のような風合いのある漆器を作ろう、使おうと思った時、どうすればよいか? 本来の根来塗が生まれるためには、反復使用の結果、地の黒漆が擦り減った朱漆の間から顔をのぞかぜなければならない。ということは、新品の根来塗は存在しないことになる。

  現代の根来塗の定義はぐっと緩くなって「朱漆塗漆器の俗称」と定義されている。この定義に従えば、中塗の黒漆が顔を覗かせていようといまいと問題ではないことになる。もう少し本来の根来塗に近づけようとすれば、製作の段階で研ぎだして黒を出せばよい。
根来寺が隆盛を極めた頃から、根来寺やその近隣で作られた朱塗りの椀や折敷・飯器の類を、根来椀、根来折敷と呼んでいたことから、根来塗は朱漆塗りの代名詞にもなっていた。それ故、狭い意味での根来塗(使い込んで朱漆の間から中塗の黒が顔を出している状態)は後になってからの呼称であり、かっては、朱漆塗と根来塗は同義であった。

  中国での漆器の利用は古く殷代(古代王朝の一つ。紀元前16世紀から紀元前1023年まで)に遡るが、高度に発達した漆器生産が盛行するのは春秋時代(紀元前770から紀元前403年までの約360年間)の末期頃といわれるが、朱漆を用いた夥しい数の漆器が出てくるのは戦国時代(紀元前403年から紀元前221年)以後で、殊に中南部の墳墓からの出土品に優れた品が多いとされる。容器類では内面を朱、外面を黒とし、外面を多彩な色漆で様々に加飾した。容器の内・外面を朱・黒の2色で塗り分ける場合は内を朱、外を黒で塗るのが通例となった。 わが国でも青森県八戸市の縄文遺跡から出土した櫛は朱漆塗りであったが以後、飛鳥時代の作とされる法隆寺伝世の有名な「玉虫厨子」に至るまで漆工品はみられない。仏教の伝来と共に寺院建築や仏像の製作のため漆の需要が急激に増加し、政府は専任の役所を設けて漆樹の栽培に努めたが庶民が漆器を日常的に用いるまでには至らなかった。

  「延喜式(律令の施行細則で、平安初期の禁中の年中儀式や制度等を漢文で記す。全50巻。927年撰進、967年施行)」には新嘗会の宴会に使用する器の色、形態まで身分ごとに指定してあり、親王以下三位以上は朱塗り、四位以下五位以上を黒漆とする、とし、宴会雑給の飯器は、参議以上は朱漆器、五位以上は葉椀、命婦(五位以上の女官及び五位以上の官人の妻を指す)、三位以下は藺笥(いのけ、藺草で編んだ笥・器?)、五位以下と命婦は陶椀と定められていた。これをみても、朱漆器が最高位とされていたことが明らかである。
江戸時代半ばころから、冴えた朱の色は俗に「根来朱」と呼ばれて良質の朱とみなされていた。

 朱の原料は主に2つあり、その1つは硫化水銀(HgS)で稀少であり、もう1つは弁柄(紅殻、代赭、鉄丹ともいわれ、酸化鉄である)で、硫化水銀のように鮮明な朱は出ないがこれが出す重々しい朱も好まれた。そして何よりも安価であった。



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