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漆芸諸国めぐり
  
第1回~第5回

 

 

  
<第1回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その1

漆器はかつて世界では陶磁器のchinaに対してjapanと呼ばれた。この語は名詞、形容詞の他、動詞として「・・・に漆を塗る、・・・に光沢のある塗料を塗る」の意味があり、japannedは過去分詞の形容詞用法として「漆塗りの」の意味の形容詞であると辞書にはある。 現在はどうか? 色々な外国人に尋ねてみても漆工芸に興味のある人以外はそんな普通名詞があるとは大抵の人は知らない。日本人ですら漆器といえば“高価”、“取り扱いが面倒”、“特別の時の器”と考えている。即ち極めて非日常的な器と決め付けられている。

この地球上はどこもが平和である訳ではない。常に敵対し戦闘が行われ、少なからぬ犠牲者がでている地域がどこかにはある。そんな地域にある国から初めて日本へ赴任してきたある外交官が、日本では交通事故などでどこかの誰それが死亡したと地方版のみでなく情況によっては全国版の新聞やTVで報導される、のを知って驚いた。「この国では人1人の命がこんなにも重く受け止められているのか!」と。その外交官の驚きは他面「日常性」の違いを表現してもいる。

外交上相手に対して優位に立つためには強大な軍事力が必要であるという明治政府からの基本的な考え方が誤った方にそれて1945年8月15日を迎えた。欧米の実態を知ることが出来なかった多くの国民にとっては、それは江戸幕府の終焉、開国にも比肩すべきculture shockであった。

日常品に対する黒船の一つはプラスチックの登場であった。それまでの我々日本人の日常的な家具、什器類の素材は大抵、木、紙、土、金属であった。この開国によって一気にわが国に流入し、たちまち我々の日常生活を席巻した化学繊維製品の威力はjapanと呼ばれた漆器を苦もなく駆逐した。 我々の身の周りを見てもプラスチックがない場所はない。それ程、それは「日常性」を獲得している。

これからも日常生活からこの製品が姿を消すことはないであろう。薄手の漆塗りの椀をあるアメリカ人に示してその素材を問うた時、彼らは怪訝な表情をして言下にプラスチックと答え、何でそんな判り切ったことを訊くのかと言わんばかりであった。素材が木であり、漆の木という日本、中国、朝鮮半島及び東南アジアの一部に固有な植物の樹皮を傷つけて得られる樹液から得られる塗料としての“漆”を用いた器であると説明されて彼らは日本固有の文化の一端に触れたことになり、双方は夫々逆のculture shockを受けることになる。彼らは薄くて軽くて固そうな器を見ればプラスチックしか思い当たらないし、こちらかすれば、万世一系の大帝国から一転して第二の開国で欧米諸国は全てに優ると思い込まされ多くの日本的な思考・物が否定されていた“戦後”が次第に薄れると共に日本固有の諸々の文化(極めて曖昧で定義が殆ど不可能な語。風俗習慣、住宅から日常非日常的な有形無形の全て)も捨てたものではないと少しずつ自信が蘇ってくる。教育の面では日本固有の文化(財)を継承・伝承するためには矢張りよい意味での民族主義は必要で上は大臣、文部官僚から第一線の教員に至るまでもっとその方の知識を持つ必要があると痛感する(日本固有の文化に関する教育が足りない)。

昨年政権が変わって、予算の無駄を省くための公開の討論会が開かれていたが、大型コンピューターの予算をどうするかで、仕分け人が得意気に「世界一じゃなくたっていいじゃないですか? どうして第二位ではいけないんですか?」と発言していたが、これは自身の立場の否定。科学技術の分野では常に相手に遅れをとらないという信念がなければ現在の日本はないわけだから・・・・。その論で行くと「世界第三位だっていいじゃないですか? どうして第二位ではいけないんですか?」となって、待ち受けるものは限りもない奈落である。物質の世界は「わび、さび、みやび・・・」などのある部分では形ではあるが、基本的には優劣をつけ難い形而上的な世界とは違うと思う。

木、土、石、紙とからなる日本家屋がどんどんと姿を消して行く現在“漆”の文化はどうなってゆくのであろうか?
     


 

  
<第2回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その2

中国や朝鮮半島の国々は日本古代文化の母である。諸々を取り入れた日本人はそれらを消化吸収して日本人の日常に合うよう改良を重ね中には原形を留めない位に変化してしまった事物もある。日常何の抵抗もなく使っている文字からして既にそうである。漢字に関しては本家の中国が略体化を進めた結果、母字は日本にあってお里では日常使用から消えてしまったものすらある。

漆も中国から伝わったと思われてきたが、全国の遺跡の発掘研究から、その時期が確定されたところでは日本の方が古くから漆を使ったことになっている。ただ、現時点の話であって、中国は広大な国だから、今後の遺跡発掘の結果によってはその行方は判らない。
何れにしても研究者の努力のお陰で現在の漆芸の基本は既に縄文人が完成させていたと結論されている。

約9000年前の漆が証明されていることから、漆がいかに強靭な物質であるかが解かる。一旦乾いてしまった漆は酸・アルカリ・アルコールに侵されないし、王水(濃塩酸と濃硝酸の混合液。普通は前者3に対して後者1容を混ぜる。強酸化剤で濃塩酸や濃硝酸に不溶の金、白金をも溶かす)によっても変化しないといわれる。ただ、タワシや硬い繊維のスポンジ類では漆膜に傷が付く。これは陶磁器とて同じで細かな傷が判りにくいだけである。器としての漆器のよい点は、塗り直しがきくこと。もし割れても陶磁器は割れたのを接着してうまく行ったと思ってもどうしても痕が残るのに、漆器は接着もでき塗れば痕も判らない。何よりも日常使っていて具合がよいと思うのは熱い汁や飯が入っていても冷たい内容物であっても陶磁器と違って熱伝導が低いから内容物の温度を感じない点である。勿論入念に仕上げられた漆器と手を抜いた漆器では当然違いがある。手がかかる分だけ高くなるのは止むを得ないことと思う。
しかし、漆は強い接着力があるから、元通りの修理が可能でありその点でも陶磁器とは全く異なる。買う時高くても大切に使えば(例えば椀類)20年、30年使っていても変わる事なくちゃんと日常の用を足してくれ、それこそ一生ものである。

科学技術の進歩はこの分野でも似て非なるものを創り出した。合成樹脂に僅かの木粉を混ぜ、それに漆そっくりの化学塗料を使って仕上げれば一見本物の漆器と紛うほどである。ある時、あるホーム・センターへどんな応対をするかと電話をしてみた。「漆液ありますか?」平然と「あります」、びっくりして「漆液といえば天然のものを指しますが?」、ややおいて「化学塗料です」というやり取りがあった。最早漆液は合成化学塗料に成り下がり、一般の人の認識もかくやあらむと心配である。

今年は平城遷都1300年である。この一年間奈良では毎日どこかで催しがあり観光客で混雑の毎日であろう。わが国に仏教が入ってきて沢山の寺院が造られ、沢山の仏像が造られた。今では僅かに金箔が残された古仏達もかつては燦然と輝く金色であった。沢山の金箔も必要であったが、その接着に使われたのは漆であり、膨大な量の漆が必要であった。朝廷は国家の管理のもとに、桑の木と共に漆樹の栽培を奨励しそれは当時の一大産業となった。しかも、漆を確実に確保するための手段としてそれを税の一部として徴収した。漆部司(うるしべのつかさ)という官位があってその下に30人の工人が配属されていたという。

その専門が何であれ伝統的工芸で生活ができるためにはその身分の保証が必要である。功なり名を遂げた技術者(有名な作家)は別として、多くの現代の工人達も一方では常に自身の技術の向上に努めねばならぬし、そのためには自身そして家族の生活も成り立っていなければならない。この難しい時代にあって芸の向上と、それを支えるための生活の糧としての作品の制作という背反するかもしれない命題をかかえて苦心しているのが漆芸に限らず伝統的と称される諸工芸で暮らしている人達の直面している切実な問題だと思う。これは個人としては抗し難い時の流れもあるとしても、国家が真剣に考えなければならない問題と思われる。 
   


  

  
<第3回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その3

昭和49年(1974)5月、当時の通商産業省は「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(略して伝産法)」 を制定した。この法律に基づき指定されたのが「伝統的工芸品」である。その区分は、織物、染色品、組紐・刺繍、陶磁器、漆器、木工品・竹工品、金工品、仏壇・仏具、和紙、文具、諸工芸品、伝統的工芸材料・用具 の12部門である。毎年東京を皮切りに約6ヶ月をかけて全国12都市を巡回する。第56回にあたる昨年の場合だと、東京での始まりが9月25日で10日間。その後、名古屋、京都、金沢、仙台、岡山、松江、高松、廣島、福岡、松山、大阪の順で終了は翌年(本年3月16日)である。

小生は何時も最も近い東京会場で見学するが、大変な人出で、一言でいえば盛況を極める。全12部門、56回展でいうと全1857人の2162点が所狭しと会場の陳列場を埋め尽くす。多くの工人達の汗と努力の結晶は見飽きる事はなく会場を何回も廻っている自分に気付く。でも全分野を廻っていると何時間あっても足りない。その出品者の中に重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)が41名、鑑審査委員が17名、特待者が16名入っている。その人達を除いた一般人の入選率は31.7%であった。小生は主に漆器、木工品・竹工品、特に漆器に時間をかけて見て来る。

平成21年で、この10年以上に亘り漆器の部門で指定されている全国23箇所をめぐり終わった。 それらは、北から、

津軽塗り(青森県)、秀衡塗(岩手県)、浄法寺塗(岩手県)、鳴子漆器(宮城県)、 川連漆器(秋田県)、会津塗(福島県)、鎌倉彫(神奈川県)、小田原漆器(神奈川県)、村上木彫堆朱
(新潟県)、木曾漆器(長野県)、飛騨春慶(岐阜県)、高岡漆器(富山県)、輪島塗(石川県)、山中漆器 (石川県)、金沢漆器(石川県)、越前漆器(福井県)、若狭塗(福井県)、京漆器(京都府)、紀州漆器 (和歌山県)、大内塗(山口県)、香川漆器(香川県)、琉球漆器(沖縄県)、新潟漆器(新潟県)である。

しかしこれらの伝統的工芸品に指定されていない地域でも漆器作りが連綿と或いは細々と続けられているところがあり、尋ねたり漆芸品を取り寄せたりした。

どこの漆器産地でもお目にかかる漆芸品は箸と椀であろうが、蒐集の対象としてはもっと大きくて装飾面積があり胎(漆を塗る素地、木、竹、蔓など)の加工に技術を要する品として手箱を選んだ。有名な作品として東京国立博物館にある「片輪車螺鈿蒔絵手箱」から受けた強烈な印象が大きい。

古典的な漆器としては、北から、

浄法寺塗、秀衡椀、衣川塗(宮城県)、粟野春慶塗(茨城県)、日野椀 (滋賀県)、竹田椀(兵庫県)、根来塗(和歌山県)

の7箇所が挙げられている。これらは原則として現在は作られていない歴史的な産地であるが、再興して続けられているのが先頭の二者、浄法寺塗りと秀衡椀である。その他、現在も何らかの形で続けられている、又は名前だけが残っているのは以下の如くである。

能代春慶塗(秋田県)、黄春慶塗(秋田県)、山形漆器(山形県)、仙台漆器(宮城県)、喜多方 漆器(福島県)、日光塗(栃木県)、長岡、柏崎、高田漆器(以上、新潟県)、城旗、富山、魚津漆器 (以上、富山県)、水戸春慶塗(茨城県)、赤城塗(群馬県)、横浜漆器(神奈川県)、蒲原塗、静岡塗、 浜松漆器(以上、静岡県)、八沢春慶、飯田漆器(以上、長野県)、名古屋漆器(愛知県)、赤春慶塗 (三重県)、奈良漆器、吉野春慶(以上、奈良県)、半田漆器(徳島県)、古代塗(高知県)、桜井漆器 (愛媛県)、久松塗、錦海塗、八雲塗(以上、鳥取県)、廣島漆器(広島県)、藍胎漆器(福岡県)、 日田、別府漆器(大分県)、長崎漆器(長崎県)、琉宮塗(宮崎県)、曲物漆器(熊本県)、鹿児島漆器 (鹿児島県)。

こうしてみると、名前の出てこない県は北海道、埼玉県、大阪府くらいで日本全国殆どの地域で漆器は作られていて、漆器が極めて日常的な塗料、接着剤、防腐剤であったことが理解できる。




  

  
<第4回>

 漆工芸の歴史と現状 その4

北海道は厳寒期があるため漆樹は生育しないとされる。にも拘わらず、歴史学博士、四柳嘉章(よつ やなぎ かしょう)氏の研究で大きく進展、確立され次々と新事実を明らかにした「漆器考古学」により、函館市の垣ノ島遺跡からの出土品の漆が現在のところ日本最古とされているが、化学分析を受ける前に資料が焼失してしまった。遺跡は9000年前のものであり、遺物に付着していた赤色塗料も漆であることが濃厚とされている。その漆は本州のどこかから運ばれたもので、古来から日本海沿岸の各地を結ぶ漆海道があったとされている。従って日本海沿岸にはそれをさらに遡る漆の使用地があったことになる。

日本海沿岸地域は大陸にも近く早くからその影響を受けて諸文化が花開いた。「漆器考古学」の成果によれば、縄文時代の主な漆器出土地は日本海側、殊に北陸三県に集中しており、現代漆器の最高峰とされる輪島もその長きに亘る歴史の上にあることが知れる。 埼玉県も歴史的には古い地域で、銘入り鉄剣の出土で有名になった埼玉(さきたま)古墳の所在地であり、当然、漆器産地があったと思われる。 大阪府は畿内に属し日本古代文化が栄えた王権の所在地であり、当然に漆の生産はあったと思われるので、結局、古代のみならず明治に至るまで、現在の置県とは異なるが、日本海沿岸各地から始まった漆生産は全国的に展開されたと考えて間違いはなさそうである。

優れた防腐作用、接着作用を併せ持つ塗料として、王水にすら侵されない極めて優れた物質“漆”。 殆ど謎の物質と呼んでもよいこの物質を他の漆産出国では見られないほどに多様に発展させ、利用してきたわが国において、この文化が今危機に瀕している。各地で漆器店は店を閉じ、漆産業に拘わる人達は明るい将来への展望が開けない状態に追い込まれている。

日本伝統工芸展の会場へ足を運べばそこには各漆器産地の、または漆器産地ではないが黙々と漆芸に 取り組む工芸家達の涙と汗の結晶である様々な作品が並べられ、黙々と作品作りに励む工房からは想像もできないような華やいだ雰囲気が会場を支配している。日本の漆工芸は元気なのだとの錯覚に捕らわれそうになる。

縄文の昔、漆にかぶれると、それは漆のもつ“霊”力によると解され、古代人は競ってその霊力にすがろうとしたのだろうか? しかし、土器に漆をかけると霊力が宿るという信仰のみでなく装飾、器具の堅牢化につながる事実も知り、奈良平安の時代には造像のため、寺院の荘厳のため、戦国時代にあっては武将の兜、甲冑、刀、槍、馬具等の装飾のため莫大な量の漆を必要とした。

それは丁度養蚕にも言えることで、かつて、特にこの長野県、隣の群馬県は養蚕が盛んで多くの絹を産出した。漢詩の一節ではないが「桑田変じて・・・」宅地や工場用地となり、いまや桑の木を見ようとしても容易ではない世になってしまった。かつて信大繊維学部、京都工芸繊維大学は国立大学としては2つだけの繊維の専門大学・学部であった。今、そこで扱われる繊維は絹ではない。繊維工学としてナノ・テクノロジーが主流である。化学繊維を対象として、いかに細く、強く、加工し易くするかが命題なのだろうと推測する。私大では東京農工大学に繊維の学科があってこれらが繊維系の御三家であった。絹といい漆といい極めて優れた素材がその命脈を絶とうとしている。

地域の行政はこれらの特産物の復権を願い祈って努力していると思う。ただ、多くの人々にとっては、この優れた素材は最早、非日常的な存在になってしまった。日本固有の文化の大切な柱の一つとして、 これらを維持、発展させるためには国を挙げての取り組みが必要である。 日本伝統工芸展に足を運んだ何れかの大臣があるだろうか?

「伝統的工芸を守るための教育が必要である」という確固たる認識を為政者が持つことが今程求められている時はない。
  

  

  
<第5回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その5

日本伝統漆芸展というのがあり毎年一回東京のあるデパートで開かれる。昨年で27回目となった。 その後、輪島、高松、岡山と巡回する。

 27回展でみると会期は東京では14日間。出品数は130点であった。会期中2日に亘り高名な作家による作品解説がある。作品は絢爛豪華にして繊細、兎に角溜息の連続である。
その出陳作品の中で箱類(方形、円形を問わず身と蓋があるものとした)はどのくらいあるかを調べたら全部で74点あり57%を占めていた。よく「身も蓋もない」というが、身も蓋もあることが感覚的にも実際面でも大事なことと思われる。

かつて(今も)「箱」を論じた本があるか探している。数は僅かしかないが、確かにある。その内の一つ、昭和62年に出版された書名はずばり「箱」であった。著者は大学の東洋芸術史学科を出られ、美術工芸関係一筋の方である。

その著者によると、日本人は外観の美しさを重視してきた。その結果、時として外観(箱)に重きがおかれて、それが中身を凌ぐこともしばしばとなった。その好例は硯箱である。かつては箱がなかったかあっても簡単なものであったのに、硯箱は確かに漆芸品の重要な対象品であり、国宝も何点かある。本体の硯にも細かな彫りを施したりさまざまな形を与えたり目を惹く品はある。しかし、加飾の点では箱には絶対といってもよいほど敵わない。日常生活を見ても箱は虚飾も含めて大切な働きをしている。箱に入った何かを頂いた時、中身が立派であれば、見かけに偽りなしと好感を抱くし、その逆の場合には“なあんだ、見かけにもない”と相手の人格にまで悪影響を及ぼすことにもなりかねない。拡大解釈すれば、押し入れ、戸棚、箪笥、冷蔵庫、洗濯機更には住宅までが箱の仲間になってしまい、外観を気にする日本人にとっては、箱で泣いたり笑ったりの毎日と云えなくもない。

茶道では殊のほか家元の箱書きが重きをなしている。箱と中身を取り違えたために起こる悲喜劇もある。モーパッサンの短編に「首飾り」というのがある。ある貧しい夫人が知人から真珠の首飾りを借りた。ところがそれを紛失してしまい、彼女は死に物狂いで働いてやっとのことで真珠の首飾りを買うことができ、それを持って返しに行った。経緯を話し陳謝して返そうとすると貸した知人は「あーら、あれはにせものなのよ!」で終わる。箱書きと中身を間違えるとこれに類した悲喜劇が起こりうる。箱そのものではないが、箱に書かれた文字と中身が合うことがいかに大切かを思い知る。

箱の仲間を表す文字に他に6つがあり夫々が意味する違いを考察していて大変に興味を惹かれる本である。美術工芸史上における「箱」の重要さを説き、「箱」の起源は神に畏怖した時代の人たちが「箱」を以って神との境界となした、と論じている。

平成3年に法政大学出版局からシリーズ「ものと人間の分化史」の第67冊目として「箱」という一冊が出た。このシリーズは何冊か持っているが何れも渾身の力作でこの「箱」は家飾具の一つとしての「箱」を様々な視点から論じており読みごたえのある労作である。

受験参考書の出版でも名の通っていた京都の老舗、駸駸堂から平成11年5月豪華本限定800部の通し番号入り「手箱」が出版された。定価85000円+税であった。何故か直ぐには飛びつかなくて正解であった。というのはあまりに高価でひょっとすると東京神保町のある古書店に新館のまま出るかもしれないなどとよからぬことを考えていたら、その約1年後には特価本と称して新館本が幾つかの古書店に出てしまったのであった。知り合いの古書店から連絡があり、31500円と半値以下で手に入ってしまった。この「手箱」が重すぎて同社は倒産してしまった。

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