<第4回>
漆工芸の歴史と現状 その4
北海道は厳寒期があるため漆樹は生育しないとされる。にも拘わらず、歴史学博士、四柳嘉章(よつ
やなぎ かしょう)氏の研究で大きく進展、確立され次々と新事実を明らかにした「漆器考古学」により、函館市の垣ノ島遺跡からの出土品の漆が現在のところ日本最古とされているが、化学分析を受ける前に資料が焼失してしまった。遺跡は9000年前のものであり、遺物に付着していた赤色塗料も漆であることが濃厚とされている。その漆は本州のどこかから運ばれたもので、古来から日本海沿岸の各地を結ぶ漆海道があったとされている。従って日本海沿岸にはそれをさらに遡る漆の使用地があったことになる。
日本海沿岸地域は大陸にも近く早くからその影響を受けて諸文化が花開いた。「漆器考古学」の成果によれば、縄文時代の主な漆器出土地は日本海側、殊に北陸三県に集中しており、現代漆器の最高峰とされる輪島もその長きに亘る歴史の上にあることが知れる。 埼玉県も歴史的には古い地域で、銘入り鉄剣の出土で有名になった埼玉(さきたま)古墳の所在地であり、当然、漆器産地があったと思われる。 大阪府は畿内に属し日本古代文化が栄えた王権の所在地であり、当然に漆の生産はあったと思われるので、結局、古代のみならず明治に至るまで、現在の置県とは異なるが、日本海沿岸各地から始まった漆生産は全国的に展開されたと考えて間違いはなさそうである。
優れた防腐作用、接着作用を併せ持つ塗料として、王水にすら侵されない極めて優れた物質“漆”。
殆ど謎の物質と呼んでもよいこの物質を他の漆産出国では見られないほどに多様に発展させ、利用してきたわが国において、この文化が今危機に瀕している。各地で漆器店は店を閉じ、漆産業に拘わる人達は明るい将来への展望が開けない状態に追い込まれている。
日本伝統工芸展の会場へ足を運べばそこには各漆器産地の、または漆器産地ではないが黙々と漆芸に
取り組む工芸家達の涙と汗の結晶である様々な作品が並べられ、黙々と作品作りに励む工房からは想像もできないような華やいだ雰囲気が会場を支配している。日本の漆工芸は元気なのだとの錯覚に捕らわれそうになる。
縄文の昔、漆にかぶれると、それは漆のもつ“霊”力によると解され、古代人は競ってその霊力にすがろうとしたのだろうか? しかし、土器に漆をかけると霊力が宿るという信仰のみでなく装飾、器具の堅牢化につながる事実も知り、奈良平安の時代には造像のため、寺院の荘厳のため、戦国時代にあっては武将の兜、甲冑、刀、槍、馬具等の装飾のため莫大な量の漆を必要とした。
それは丁度養蚕にも言えることで、かつて、特にこの長野県、隣の群馬県は養蚕が盛んで多くの絹を産出した。漢詩の一節ではないが「桑田変じて・・・」宅地や工場用地となり、いまや桑の木を見ようとしても容易ではない世になってしまった。かつて信大繊維学部、京都工芸繊維大学は国立大学としては2つだけの繊維の専門大学・学部であった。今、そこで扱われる繊維は絹ではない。繊維工学としてナノ・テクノロジーが主流である。化学繊維を対象として、いかに細く、強く、加工し易くするかが命題なのだろうと推測する。私大では東京農工大学に繊維の学科があってこれらが繊維系の御三家であった。絹といい漆といい極めて優れた素材がその命脈を絶とうとしている。
地域の行政はこれらの特産物の復権を願い祈って努力していると思う。ただ、多くの人々にとっては、この優れた素材は最早、非日常的な存在になってしまった。日本固有の文化の大切な柱の一つとして、
これらを維持、発展させるためには国を挙げての取り組みが必要である。
日本伝統工芸展に足を運んだ何れかの大臣があるだろうか?
「伝統的工芸を守るための教育が必要である」という確固たる認識を為政者が持つことが今程求められている時はない。