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漆芸諸国めぐり
  
第6回~第10回

 

 

  
<第6回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その6

日本伝統漆芸展で蓋付きの入れ物が出陳作品の過半を占めている事実はそのような入れ物が作者にとっても見栄えがよく、やり甲斐のある仕事である、ということではないだろうか?

私が全国を駆けずり廻って文庫を探し歩いたのは作者のような立派な心構えがあってのことでは決してないが、探しまわるという行為そのものが大変に楽しく時の経つのを忘れさせてくれる。特にいわゆる作家に会えて制作の苦労話を拝聴できた時はまた格別である。その種類を問わず美術工芸品は作者の執念が乗り移って形をなしたものと信じているから、それらの品に向かい合っているだけでさまざまなことが想い出されて正に忘我の境に引き込まれる。

漆がかけられる素材を「胎」というが、第27回日本伝統漆芸展の入選作品全111点と5年前の第22回展とを「胎」の点から比べてみる。( )内が5年前、但しこの時は点数が多かったので全体に対する比率で表示。

「木」単独が26点、23.4%(34.4%)でそのうちヒノキが12点10.8%(15.2%)と最も多く次いでケヤキの5点4.5%(4.8%)となる。「木」に他の素材を組み合わせた作品は12点10.8%(16.8%)で「木」が素材として使われている作品は計38点34.2%(50.8%)となる。
「木」以外では「麻」が多く「麻又は麻布」単独が21点、1.8%(16%)「麻」にその他の素材を組み合わせた作品が27点24.3%(20%)を占め、「麻」が素材として使われている作品は全部で48点43.2%(36%)となる。この結果から即断は出来ないかもしれないが、5年前の方が木(特にヒノキ)の使用が今回よりも約15%多く、麻は今回の方が7%多かった。これらの増減は気に入った素材の不足もあるかもしれないが、一番は作者のその時の好みによるものではないだろうか?

ではどんな技法で作品が作られているかをみると{( )内は5年前の第22回展の数値}、
乾漆28点、25.2%(25.6%)、蒔絵20、18%、(19.2%)、きんま11、9.9%(13.6)、螺鈿9、8.1%、(8.8%)等があるが、技法は幾つかが組み合わされて用いられている作品が多いのでその複合の中でどれが主であるかは作者の製作意図の問題になりみる側からは判断できない。各種技法が渾然一体となって更なる美しさを醸し出しているさまを総体的に鑑賞すればよいのだと思う。

ではどんな技法が用いられているかを列挙すると以下の如くである。 用語の説明は主に、光芸出版編:うるし工芸辞典、平成6年版による。

● 乾漆:今年は平城遷都1300年。それの首都への宣伝隊として昨年、かの有名な興福寺の阿修羅が仲間の八部衆とともに東京に現れ大人気であった。その阿修羅達は乾漆像である。粘土で像の原型を作りこれに麻布を漆で張り重ねていって、後で粘土を取り去る“脱乾漆(脱活乾漆とも)”と呼ばれる方法と、木で大体の形を作って心木とし、その上に木粉に漆を混ぜたもの(刻苧・こくそ、木屎とも)で肉付けして望む形を作る木心乾漆とがある。

● 蒔絵:漆工芸加飾法の代表的な技法。漆で模様を描いて、漆の乾かないうちに金銀錫粉や色粉を捲き付け、模様をあらわしたもの。

● きんま:タイやミャンマーに起源をもつ技法。元々東南アジアの人たちが常用する噛たばこを入れる円形箱に施された装飾がキンマークと呼ばれそこからキンマと呼ばれるようになった。漆器の表面に線文様を彫り、朱・緑・黄などの色漆を埋め込んでから研ぎ出す加飾法である。この線刻はかなり細かく一度、目にすれば忘れることはない。ミヤンマーではこの彫りは4才から18才位の女子の仕事という。理由は最も視力のよい年代で、彼女達はタナカと呼ばれる植物の根をすりおろした清涼剤を頬に塗り付け下絵もない漆器にどんどんと微細な彫りを施して行き視力のよいこの年齢層が熟達者であるという。


 

  
<第7回>

 漆工芸(品)の歴史と現状 その7

1996年10月初めから11月末にかけて、東京千駄ヶ谷のフジタ・ヴァンテミュジアムで「世界の漆・うるし展」―その源流と現代―という展示があり滅多にない企画なので観に行った。世界漆文化会議という組織がありそこの主催であった。上野の博物館、美術館のように広く知れ渡った所ではないし、主題も主題だから、人も少なく鑑賞には絶好の雰囲気であった。

東南アジアのタイ北部からミヤンマーにかけて生産される漆器の一つが藍胎きんまであるが、日本では高松市を中心として生産されている。きんまの漆器は伝統工芸展でも伝統漆芸展でも必ず出展されていて何時も溜息を漏らしながら拝観しているがこの技法は18~19世紀にかけてこれらの国々から高松へ伝えられたといわれてきた。ところが、松山市郊外の福音寺遺跡(五世紀)から出土した獣形木製品は玉状柄頭(ぎょくじょうえがしら)とみなされ、杖の(おそらくは儀装用)頭につけたものであろうが、長さ9.5、幅5.7cm。狐と思われる獣形を彫り黒漆を塗った上に直線と曲線を組み合わせた直弧文を線刻しそこへ鮮やかな朱(硫化水銀)を埋め込んであり、簡単ではあるがきんまの技法である。これも他国からこの時代にすでに伝えられたものなのか、独自に考案されたものかは定かではないが、それが発展して現在のわが国のきんまになったとは考えにくく、まとまった形で入って来たのは近世の交易の拡大によるものであろう。千利休もきんまの茶器を好んだという確たる証拠がある。

現在、東南アジアで漆器を生産する地域は東から
①ベトナム、②タイからミヤンマーにかけての地域、 ③ブータンの東部
とされる。その内で、きんまが盛んなのは②の地域で、きんまの故郷と言える。

この地区の漆器を“藍胎きんま”と呼ぶ理由は、藍胎、即ち竹製品に漆をかけた後、そこへきんまの技法を施すからである。タイ北部の古い都市チェンマイを中心としたきんまは黒漆地に花文様の線彫りを行い彫りの中に朱漆を充填した後、研ぎ出して完成させる。
一方、ミヤンマーのきんまは色使いが華やかで、よくぞここまでと見飽きることがない。最近ではこの地区の藍胎きんまはミヤンマーのものが主流になっているという。

現在、ミヤンマーは軍事政権下にあり、民主化運動の指導者アンサン・スーチーさんは長らく軟禁状態に置かれているが、この事態を憂慮する国々が色々苦言を呈しても政権は言を左右にして聞く耳を持っていない。先日ある衣料品を買って帰宅してからよく見たらミヤンマー製であった。結果的には些少といえども軍事政権を助けたことになった。

東京銀座のサン・モトヤマの支店が軽井沢にある。偶々その店が漆器店の近くにあることからのぞいてみたのが発端であった。後になってその社長はフランスを中心としたヨーロッパ諸国に何回となく足を運びいわゆるブランド品の日本への輸出の途を開いた方であると知った。第二次大戦後日本が目覚しい復興を遂げ購買力が増してからは諸外国から様々な品が流れ込んで来たのは当然の成り行きであろうが、未だそのような状況が到来する前に自店で世界の名だたる品々を扱えるようにしたのは先見の明があったと みられている。

その社長(現在は会長)は旅行が大好きでご高齢にもかかわらず世界各地を訪ね色々な品を買い付けて来る。それだけなら小生には特別の関係はないが、その品々の中にミヤンマーの漆器が あった。そんなこととは露知らず、ある時、軽井沢店へ顔を出したら2階の道路に面した側に小物から高さ65cm、直径35cm程のパゴダ(仏塔、仏舎利塔)型の現地ではオツブと呼ばれる供物入れが、もう一回り小さなのと2点、あった。もう何年か前に入手した品らしく、また、実際に日常使っていた品のようで、漆が部分的に剥落していたが、欲しい人が居たら売ってよいと本店から送られて来たとのこと。発祥地のきんまを目の前にして心は高鳴った。文庫のないのは残念であったが、日常の諸雑器が主で恐らく文庫などは作らないだろうからなくて当然である。



  

  
<第8回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その8

以前に木曽平沢の漆工芸の作家の工房を訪ねた時、その方はミヤンマーが軍事政権になる前にその地を訪ね、文庫を手に入れてきたと話された。

さて、そのきんまの技法による漆工芸品を社長から預かったお店の皆さんは、見つめていると目が痛くなりそうな微細な模様が全面に拡がる器を見て、それらがどのような工程で造られるものか不思議であったらしい。何しろ素材からして判らない。木であるような違うような・・・。4才から最年長は18才までの、主に女児の手によって細かな線刻がなされそこへ漆が塗り込まれる、と説明したところ本当に驚いた風であった。

ミヤンマーの漆工品はきんまの技法は兎も角、細工に未だ向上の余地があると、木曽平沢と提携しているが、日本には指物の技法があり、例えば蓋物では身と蓋がきつすぎずゆるすぎず摺り合うのが当然と作る方も使う方も認識している。ところが多くの国の工人たちはそこまでは考えては居ない。実際、軽井沢で出会った供物入れも外見的には形、配色とも文句なしに上等。しかし、一旦、蓋を取ってみると摺り合うなどというものではない。彼の国の工人たちにその技法を教え込もうとしても、それを是とはしてくれるが日用雑器に何故そこまで手を入れなくてはならないか理解できない、という結論のようであった。

松本が生んだ有名な民芸作家、故丸山太郎さんのお店へよく顔をだしたが、私が棚の器を手にして“少しゆがんでいる”などと口にすると、太郎さんは“それも美の内、それが判らなければ民芸の心は判らない”とたしなめられた。一度たしなめられたら二度と口にしなければよいのに、私も太郎さんが高校の先輩で娘さんが高校で同級であった気安さから何回でも同じようなことを言ったから何度“民芸の心”を説かれたかわからない。ミヤンマーの器を手にしながら、これも日本の民芸の美に当たるのかな?などと太郎さんの姿を思い出しながら過ぎ去った時を懐かしむ。

民芸の美とは“用の美”であるといわれる。“用の美”とは機能美と同義と思われるので、日用雑器にあっては使い勝手のよさということであろうし、使い勝手のよい器はまた、形も美しい。逆に形の美しさを重視する余り使い勝手のよくないものもある。

そのミヤンマーのきんまの供物入れであるが、外面は一面に細かな連続模様で埋め尽くされており肉眼で観る限り単位となる模様が規則正しく繰り返されている。別にあら探しではないが肉眼でどのくらい細かな作業が可能なものかを確かめたくてルーペで観察した。するとある模様の如きは、4mmくらいの長さの線であるが、両外側の2本を除いて3mmの間に6本の線刻が施されていた。刻み目の間隔は何と0.5mmである。60倍に拡大して観ると刻みの幅もあるから、その幅と地の幅が殆ど等しい。下絵は描いてないそうで、10才前後の少女がこの細かな作業を目にもとまらぬ速さで処理して行くのかと想像するとヒトの能力とは凄いものだと改めて驚いた。勿論、倍率を上げて観察すると、刻み目の間隔や長さが不揃いで
あったり、漆が刻み目から外れていたり、連続模様に上下のずれが観られたりする。

長さが数mm程度で直線とはいえ、0.5mm間隔で刻み目を入れていく作業はそれを意識したら却って不可能で、リズムに乗って一気呵成に仕上げられるものと思われる。拡大鏡で彫り面を拡大してなどは、まして考えられない。一つの供物入れの表面を何千という微細な模様が埋め尽くしている訳だから、一つ一つに時間をかけていたら何時仕上がるとも知れぬ泥沼である。

単位となる模様は短い直線だけとは限らず、微小な円もある。更にその円の中に模様があったりするから求められる巧緻度には際限もないようである。蒔絵も螺鈿も沈金も夫々に凄い技だとは思うがミヤンマー産のきんまの技を見ていると、馴れとはいえ10才にもならない児童が事も無げに彫り上げて行く場面を想像して嘆息するばかりである。


   

  

  
<第9回>

 漆工芸の歴史と現状 その9

螺鈿

貝殻を磨いて平らにし意図する模様の形に切り抜いて漆や木地に埋め込み、貼り付け装飾する方法。「螺」は巻き貝を意味し「鈿」はものをちりばめる意。一般に厚貝を用いるのを螺鈿といい、薄貝を用いたものは青貝塗りという。用いる貝は夜光貝、あわび、蝶貝、孔雀貝、など。27回伝統漆芸展では、蒔絵螺鈿、沈金螺鈿の加飾法が7点にみられ、内文庫は4点あった。

この技法も奈良時代8世紀に唐からもたらされたもので、わが国の工人達はその原法に従って製作した。
正倉院宝物の目玉の一つである“螺鈿紫檀五弦琵琶”や“螺鈿紫檀阮かん”がそれであり、紫檀、黒檀、鉄刀木(たがやさん、マメ科の高木でマレー半島、インド東部に自生、10~15mの高さになり、心材は黒と赤の文様をつくり、その名の如く堅牢で美麗。銘木として珍重される)等の硬い木が用いられた。

このような螺鈿の原法は木地螺鈿と呼ばれる。
厚貝を用いる場合の技法に二つあり、一つは上記の木地螺鈿(彫り込み法)で貝をその厚みまで彫り込んだ木地にはめ込み木地に接着するやり方であり、他は漆地螺鈿(うるしじらでん・塗り込み法)で 文様に切り抜いた貝を木地または下地面に貼り付け貝の厚みに合わせて下地をつけ漆を塗り込む。その後貝を研ぎ出す。

平安時代の中頃から様々な分野で移入文化の和様化が始まり、唐風の螺鈿は余り長くは続かないで和風の螺鈿へと移行して行った。和様の螺鈿は平安後期から鎌倉期に絶頂期を迎えた。完成度の高い作品として中世螺鈿鞍が挙げられる(東京国立博物館や永青文庫にある)。その後鎌倉期から南北朝への移行期に旺盛を極めた螺鈿は突然衰退してしまい、室町時代に明から伝えられた螺鈿に範を取った作品が何点か遺されているに過ぎない。絶頂期の螺鈿の名品には何故か鞍が多く個人蔵も含めて現在16背が確認されている由。わが国に最初にもたらされた技法は上記、木地螺鈿であったが、平安時代に入って螺鈿の技法が普及し始めると奈良時代には珍しかった漆地螺鈿が一般化していった。

薄貝を作る方法は二つあり、一つは厚さ0.1mmくらいまで擦り減らす(擦り貝)方法と、他は貝の 真珠層を薄く剥いで作る(剥ぎ貝・へぎがい)方法である。前者では比較的大きな貝片を取ることが出来、大きな面積の貝片は得られない。

「だいたい塗り」と呼ばれている螺鈿がある。これは建造物や様々な調度品など、広い面積に螺鈿を施そうという場合の簡略なやり方である。螺鈿で飾ろうとする素地の部分を「だいたい」の文様の形に彫り込みその形に切った貝片を貼り付け、貝の周りに出来た隙間を埋めていくというものである。中尊寺堂内の荘厳(しょうごん・かざり)の多くはこれであるという。「だいたい」には大まかなことの次第、という意味があるから、細密さを旨とするわが国の漆芸にあってはまさに「だいたい」なのであろうか?

韓国へ行くと家具から小物に至るまで螺鈿のオンパレードである。中には貝が重なりあっているもの すらある。朝鮮半島の螺鈿は高麗時代(918~1392)にはすでに存在していたことが記録にあり、その特徴は同じ物を作るにも更に細かな貝片を組み合わせ、花柄などは針金を使うとか伏彩色(花弁などをべっ甲で表す際にその下に予め赤や黄色を伏せておく)の法により色彩効果を高めるなどである。

李朝(1009~1225)の漆芸も主流は螺鈿であった。その特徴は、割り貝(貝片に人為的に亀裂を入れる)、の技法や、貝に毛彫りを施す方法でわが国の螺鈿のみならず工芸についての考え方にも大きな影響を与え、かの本阿弥光悦ですらその技法を取り入れた。
   


  

  
<第10回>

漆工芸(品)の歴史と現状 その10

螺鈿(2)

貝片を用いるのが螺鈿であるが、貝の代わりに金銀、錫、鉛などの金属片を用いた場合は平文 (ひょうもん)と呼ぶ。この場合も薄く延ばしたものを文様の形に切って本体の漆面に貼りさらにその上に漆を塗り込めて研ぎ出したものと、文様の上だけ小刀などで剥がし取ったものとがある。 これらの技法は正倉院の宝物に多くみられ、平文という呼称と共に平脱(へいだつ)の語も使われている。 平文が和名で平脱はそれの唐名と理解されている。

金属片を用いた場合は長い年月の間に避けられない酸化の問題があり、特に銀を用いた場合は地が黒であると、銀も黒ずんでしまって作られた当時のようなコントラストは失われることになる。
平安時代以後はこの技法が、日本が生み出した技法である蒔絵と併用されるようになり、貝の代わりに金属であるという意味で「金貝(かながい)」と呼ばれた。

東京国立博物館に尾形光琳作の国宝 八橋蒔絵螺鈿硯箱があり、元禄年間(1688~1704)に作られたとされている。ガラス戸棚の中に納まっているこの品を見ると300年も前に作られたとは思えないほどに生々しく他方、長年月を経たどっしりとした存在感がある。反面あまり人が見に来てくれない寂寥をかこっているようにも見える。この箱は多くの点で特異である。先ずその形。これが硯箱?と一瞬戸惑う。この箱は深めの料紙(用紙)箱の上に硯箱を載せている二重構造をとっているために丈の高い箱となった。さらに驚くのは蓋表と身の側面に走る幅の広い鉛板の平文。これが八橋を表し、しかも人の往来の激しさを表すためにその表面に傷をつけてある。そして橋桁を表すのは銀板。それも酸化を見越して初めから酸化させた銀を用いたのだという。その八橋は蓋表から身の長側面、短側面へと食い違いながら続いており本来平らな橋の渡面がこの構図により立体化されている。

さらに見事なのは厚い鮑(あわび)貝を鏨(たがね)で打ち欠いて作ったというかきつばたの花弁。その形や大小、盛り上がりや艶がさまざまで、咲き乱れている様子が見事に表現されている。

この意匠の元になったのは「伊勢物語」の八橋の段で、都を離れての東下りの寂しさを各句の頭に「かきつばた」の五文字を据えて詠めといわれて・・・・・
からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもう
と詠んだのに拠っている。 この硯箱はその作りの点からも伝統的な技法に最新の技法を取り入れて作られているといわれるが残念ながら表から観ている限りその全部は解らない。

興味は更に高められる。というのはこの数年、同博物館のMuseum shopにこの硯箱の模造品が売られていることである。勿論全てにわたって同一である筈で一点しかない。価格は何十万円もする。お目見えしてからずーと売れてはいない。これは明るい部屋のガラスケースに収まっており、本物が薄暗いような所におかれているのとは環境が異なる。そのためか両者を見比べると面白い。本物が作られて300年以上が経ちしかも実際に使われていたようであるから、名手が作ってもその違いは人の手を越えた何かであることが実感できる。
かつては金色に輝いていた仏像達も1000年余を経て金箔の残りを探し出すのが難しい程である。

時は悠久といえども万物に流れた時の長さを確実に刻み込んで行きそれはとどまることはなく、今という時は既に過去である。
   

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